江戸時代、時の鐘

江戸時代、時の鐘
 佐藤雅美(まさよし)さん久々の「八州廻り桑山十兵衛」シリーズ。(文春文庫)734円。
佐藤さんの本は時代考証の正確さに定評がある。
江戸時代、時の鐘
 「超高速!参勤交代」シリーズ。(講談社文庫)各810円。完全なエンタメ。映画化もされた。体調不良で睡眠を優先していたので、読んでは寝、読んでは寝していた。そういう時に最適。「リターンズ」は要らなかった気もする。
江戸時代、時の鐘
 今日、近くの神社の夏越祭(なごしまつり)だった。茅(ち)の輪をくぐり、体代(かたしろ)にお金を添えてお参りしてきた。案内役の人がいて色々説明してくれた。
江戸時代、時の鐘
 神社の猫。人懐っこい。
江戸時代、時の鐘
 セミの抜け殻が庭のあちこちに見られる。喧(やかま)しくなるぞ。





  江戸時代、時の鐘


 佐藤雅美さんの本は時代考証に定評がある。江戸時代の人々の生活がよく分かる。『関所破り定次郎 目籠(めかご)のお練り』から抜粋してご紹介します。


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 「ここいらはもともと時の鐘がなく、遠く多摩川を渡ってくる目黒不動尊の鐘や池上本門寺の鐘で時刻を知るという塩梅でした。とはいえ、聞こえるのはたまにですから当てにはなりません。時の鐘がないというのは不便なものです」

 「当村は矢倉沢街道の御伝馬の継立場(つぎたてば)で、何刻に馬何匹、人足何人を手配しろと先触(さきぶれ)がしょっちゅうあります。ですが、時の鐘がないものですから、刻限どおりに手配するのがとても難しい」

 「またたまに〝刻付(こくつき)の御用状〟が送られてくることもあります」

 「ですが、そもそも時刻が分からない。当て推量で時刻を書くものですから、後で、いいかげんに書くものではない、不届きであるとお叱りをこうむることもあります。当村はまた川崎宿の助郷(すけごう)村でもあります」
 川崎宿で人馬が不足するとき、川崎宿から馬を何匹、人足を何人だせといってきて、それに応じるのを助郷といった。

 「こちらを夜明け前に発たねばならないような助郷を命ぜられることもしばしばあります。ですが、夜明け前となるといよいよ時刻が分からない」
 助郷は無料。代価は払われない。百姓にとって助郷は年貢につぐ苦役(くえき)だったのだが、そのうえあれこれ文句をつけられるほど間尺に合わないことはない。

 「幸いというか、光昌寺に梵鐘(ぼんしょう)がございました。そこで、八年前に中村八太夫様にお願いし、曾我豊後守の御下知(ごげち)があって時の鐘を撞かせていただくことになりました」
 中村八太夫はここいらを支配する代官。曾我豊後守は十兵衛も直接指示を受けることのある公事方(くじかた)勘定奉行の1人。

 「時の鐘というものは夜中でも一刻おきに撞かねばならず、鐘撞人を常雇いしたりしなければならないから、とにかく金がかかる。鐘楼堂(しょうろうどう)を設け、鐘撞人を住まわせる鐘撞家(かねつきや)を建て、鐘撞人を常雇いして給金を払わねばなりません。また時刻を知るには時計を買い、季節に合わせて時計を調節しなければありません」

 この時代は日中も夜中も六等分して時間を決めた。おなじ一刻でも長日(ちょうじつ)のときは昼は長く夜は短く、短日(たんじつ)のときは昼は短く夜は長くと大きく違った。時計は時計師によってのべつ調節してもらわねばならなかった。

 「それらもろもろにかなりの金がかかります。とくに給金、時計の調節費などは毎年かかるものですから、年々相応の金を工面しなければなりません」

 「そこでわたしが世話役になって、〝永代(えいたい)時の鐘相続講(そうぞくこう)〟なる講をくわだてました」

 「講の仕法(仕組)は?」 
 「子(講員)は五百人。一回の掛け金は一人一分(四分の一両)。年に四回の開催で、十回で満期というものです」 
 「一回に集まる金は百二十五両。総額で千二百五十両」
 「講元の懐にはいくら入った?」
 「四百四十両です」
 「ほぼ三割五分を撥ねたことになるわけだ」

 「一等はいくらにした?」
 「十八両です。スカはありません。誰でも最低一朱(いっしゅ)は当たるようにしておきました」(一朱は一分の四分の一)。
 「ですから、講には毎回、ほぼ全員が参加し、参加できないものは代(代理)を寄越しました。時の鐘ができてみんなが恩恵をこうむることでもあり、界隈の者は喜んで参加しました」

 「鐘撞人の給金や時計の調節費など、毎年相応に金がかかります。そこで、八十両を本堂の修復に充て、鐘楼堂と鐘撞家をそれぞれ三十両と十五両とをかけて建て、五十両を予備費として残し、あとの二百六十五両で一町六畝(せ)五歩の田を買いました」

 「鐘撞人の給金や時計の調節費などは一町六畝五歩の田から作徳(収穫)を当てるわけですから、事は順調に運びました」


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(感想・意見など)
 
 現代のわれわれが、いかに恵まれているかが分かる。


以上

 

昭和10年頃のある農村の習俗

昭和10年頃のある農村の習俗
 週刊文春17年5月25日「私の読書日記」
昭和10年頃のある農村の習俗
 『イザベラ・バードの日本紀行』。1878年(明治10年)ごろ、バードは東京から内陸を通って北海道へ旅した。帰京後、京都、伊勢神宮、大津等を旅し、その見聞や印象を故国(英国)の妹に書き送った。(講談社学術文庫)上:1620円、下:1350円
 正直、『朝鮮紀行』(1894~1897)ほど面白くない。何度も挫折した。現在、ぼっちらぼっちら読んでいる。
昭和10年頃のある農村の習俗
 道の目地に咲いているスミレ?高さ6~7㌢。





 昭和10年頃のある農村の習俗


 私は商店街で育った。ハタチごろ今のところに移り住んだ。今年3月末まで自治会長を務めたが、周りは田園地帯。川が2本流れ、ため池がいっぱいあり、神社なども多い。連合自治会の会合などに行くと、他の20人前後はカントリーボーイ。彼らは、当然、農村地帯の習俗に通じている。私はと言えば、中身空っぽ、根無し草のシティボーイである。

 週刊文春5月25日「私の読書日記」は、フランス文学者の鹿島 茂(かしま・しげる)さん。鹿島さんが紹介している本の中に、中身空っぽ、根無し草のシティボーイの胸に響く本が紹介されていた。抜粋してご紹介します。


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 「日本の村」の家族人類学


 田中一彦 『忘れられた人類学者(ジャパノロジスト) エンブリー夫妻が見た〈日本の村〉』(忘羊社2160円)は、1935年に熊本県球磨郡須恵村に住みついて人類学的調査を行ったジョン・エンブリーとその妻でエラという、いまでは忘れられた2人のジャパノロジストの伝記と両者の著作『日本の村・須恵村』『須恵村の女たち』の紹介だが、なによりも引用・要約された2人の観察が素晴らしい。

 まず、須恵村の家族類型はというと、「①小家族(戸主と妻、長男夫婦とその子ども、および主人の未婚の子どもから成る)、②隠居した祖父母、③若い未婚の兄弟や夫と別れた姉妹、④家事や農事の手伝いをする奉公人――を含む」というから、共同体家族ではなく直系家族である。

 直系家族であることは「長男は『幸運』で、戸主権とそれに付随した社会的地位、物質的財産を相続する。しかし次男にも利点があり、裕福な家では長男よりもみしろ次男に教育を受けさせる。街に移住し、好きな職業を選ぶこともできた」という記述から傍証できる。

 婚姻はというと外婚性。「妻はほとんどが部落外の者で、男は部落生まれである」。ただし、いとこ婚もある。家名存続と家系尊重のために養子縁組が不可欠というところは、日本的直系家族そのものである。

 家の性格についてジョン・エンブリーは「家族一人々々が、自分自身のためではなく、家のために働き、……この世帯の協同的統一性は、さまざまの関係に影響している」と「協同」の重要性を指摘し、同じ構造が家と村の小単位である部落との関係にも当てはまるとしている。

 「これらの世帯の群はひとつの井戸を使い、共同して髪油を搾ったり、田植えには労力を交換しあったり、互いに交代に風呂を使ったりしている。通常には『組』とよばれる小さな共同作業の単位をつくるのは、このような家の群である。接近して住んでいるので孤立性はなく、世論が強く作用して、各部落の生活を特徴づけ、その社会的統合を強めもし、補いもするように、地理的単位を与えている」。

 そのため、村のすべてが「協同(はじあい)」の顕著な特徴を示している。経済は贈与経済であり、労働は「かったり」(無償の交換労働)、手伝い・加勢(家屋の建築、非常事態、葬式)などが中心で、社会は「ぬしどり」と呼ばれる世話役が調整役となる当番制の自治システムで律せられて、金融は「講」という互助システムで運営されている。


 と、ここまでの記述では、須恵村は直系家族そのもののように見えるが、しかし、エラが観察した須恵村の女たちを見ると、そこには九州の基層をなしていた起源的核家族の痕跡が認められる。

 「夫婦は『ここでは19歳以上で処女のものはいないだろう』と思っていた。40代のある女性によれば、かつて『結婚のときに処女であることはそんなに望ましいことではなかったし、女の子はすべて18歳ぐらいになると処女を失った』と言う」。

 また、結婚は家が決めるものという通念に反してエラはこう断言する。「日本の農村社会に関する文献からは考えられないほど、須恵村の女たちは、結婚や離婚などで、予想のできないほどの著しい自立性を見せていた」。

 つまり女性の意思による離婚と再婚が多く、妻の不貞もエンブリー夫妻の予想をはるかに超えていたのである。村の女はエラの質問に「ええ、しますばい。ここの女たちはしばしば、夫とは別の男ば持っとる。女たちは夫のおらんときに、その男と会うとです」と答えたという。夜這いも盛んだったが女には拒否権があった

 ことほどさように、熊本の草深い農村においても、日本の戦前は、決して真っ暗ではなかったのである。


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(感想・意見など)

 恐らく10年くらい前だと思うが、何かの本で読んだこと。

 その地方も夜這いが盛んで(女性に拒否権はある)、例えばある女性がある期間にA,B,C3人の男性を受け入れて妊娠したとき、女性がその子の父親をA,B,Cから指名できたという。A,B,Cにとっては身に覚えのあることでもあるし、どうせ3代前、5代前にさかのぼれば全員親戚のようなもの。女性にとって最高のシステムではないか。


以上


「最後の退位」光格天皇

「最後の退位」光格天皇
 四国新聞17年5月30日
「最後の退位」光格天皇
 讀賣新聞17年5月31日
「最後の退位」光格天皇
 産経新聞17年6月9日
 民進党の辻元清美衆院議員は、若いとき天皇制について「ああいう一族がいる近くで空気を吸いたくない」「天皇っていうのも、日本がいやだというひとつの理由」と発言。現在は深く反省しているという。そういえば、歌手の加藤登紀子さんも若いとき、「日本という言葉を発するときに、たえず嫌悪の匂いが私の中に生まれ、その言葉から逃れたい衝動にかられる」と言っていた。現在はどうなのだろう?
「最後の退位」光格天皇
 花菖蒲
「最後の退位」光格天皇
 古代蓮





 「最後の退位」光格天皇


 本日、天皇陛下の退位を実現する特例法が、参院本会議で可決、成立した(自由党はなぜ棄権したのか?)。退位が実現すれば、江戸時代後期の光格天皇以来、約200年ぶりのことになるという。

 NHKのニュースによれば、退位の儀式などは、200年前の光格天皇のとき、1000年前の平安前期の「貞観儀式」などを参考にするという。


 四国新聞5月30日に光格天皇に関する記事が載っていた。儀式を再興させたり、あるときは幕府と対立しながらも現在につながる天皇像を築いた人(「天皇」の称号は通常使われていなかったという)であったという。抜粋してご紹介します。


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 「最後の退位」光格天皇に注目
 権威高め、理念追及
 儀式再興や幕府と対立


 注目を集めるのが約200年前、最後に退位(譲位)した光格天皇だ。新嘗祭(にいなめさい)など皇室の儀式を再興させ、時に江戸幕府と対立しながらも天皇の権威を高めた。歴史家は「天皇としてあるべき姿を自ら描き、その理想を追及した人だった」と評価する。


 天皇陛下の直系の先祖である光格天皇は江戸時代後期の1771年、新設されたばかりの閑院宮(かんいんのみや)に生まれた。79年に後桃園天皇が急死すると、その子どもが1歳にも満たなかったため、養子となり、急転直下で即位。1817年に息子の仁孝天皇に譲位するまで在位した。

 当時、天皇は幕府の「お飾り的存在」といわれた。光格天皇は、それまでの天皇家からは遠い血筋の宮家から即位した事情もあり、朝廷内でも軽んじられた扱いを受けたという。そんな中、学問に励み、自らの天皇像を模索した。

 朝廷の多くの神事や儀式は、室町時代の応仁の乱から戦国時代にかけて衰退したが、その再興や復古に尽力。現在の皇室で最も重要な祭祀(さいし)とされる新穀を祝う新嘗祭は、簡素化されていた儀式を古来の形に復活させた。

 さらには、飢饉に苦しむ人々に米を与えるよう幕府に異例の訴えをして、実現にこぎ着けた。光格天皇は、2代前の天皇だった後桜町上皇に宛てた手紙の中で「君主は天下万民に仁を施さなければならない」と記している。

 幕府との間では有名な「尊号事件」も起きた。光格天皇が実父の典仁(すけひと)親王の序列を上げるため、天皇の譲位後の称号である「太上(だいじょう)天皇」を贈ろうとし、老中松平定信が拒否した事件だ。交渉が決裂し、光格天皇の願いはかわなかったが、世間では朝廷に同情が集まるなど、幕府と朝廷を取り巻く環境は変わっていったとされる。

 譲位後も上皇として院政を敷き、40年に死去。光格天皇という称号は死去後に贈られた。「天皇」の称号は、平安時代中期から一部の例外を除き使われておらず、約900年ぶりの天皇号の復活だった。この間は「院」の称号が贈られていたとされる。

 光格天皇に関する著書がある藤田覚東大名誉教授(日本近世史)は「天皇だから権威がある、という時代ではない中、高い理念を持ち続け、権威を自ら身に付けた」と説明する。光格天皇が築いた天皇像が、明治時代以降の近代天皇制へとつながっていった。


以上


13世紀モンゴルから世界史が始まった!

13世紀モンゴルから世界史が始まった!
 讀賣新聞17年6月5日
13世紀モンゴルから世界史が始まった!
 岡田英弘著作集 全8巻(藤原書店)
13世紀モンゴルから世界史が始まった!
 香川県立図書館(向かって左)・文書館(右)
13世紀モンゴルから世界史が始まった!
 図書館の内部。県立図書館は、一般と学生・生徒の自習コーナーを分けている。自習コーナーで子どもたちが懸命に勉強している。
 高松市中央図書館は、自習を認めていないため、児童書コーナーを除き、ほとんど「託老所」状態。職員が見て見ぬふりのため、一部老人のマナーが悪い。追い払われた子どもたちは、近くのマック・ジョイフル・ガストなどで勉強している。近くには学習塾が林立している。貧しい家庭の子どもたちはどこで勉強すればいいのか?近くの小・中・高校に備えはあるの?
13世紀モンゴルから世界史が始まった!
 勉強するには最高の環境。この図書館にも岡田英弘著作集はある。
13世紀モンゴルから世界史が始まった!
 近所の家のアマリリス





 13世紀モンゴルから世界史が始まった!


 歴史は勝者によって書き換えられる。東京外国語大学名誉教授であった岡田英弘さんは、シナ史、モンゴル史、満洲史、日本古代史と幅広く研究し、独自の「世界史」を打ち立てた。

 実際、中国四千年の歴史、五千年の歴史とか言っているが、その間、漢族の王朝はわずかである。細かく分裂していた時期を除けば、漢、明、現在くらいではないか。シナ史の華とも言える隋、唐は鮮卑系だし、は突厥(とっけつ:トルコ系)、は蒙古族、は満州族である。習金平の右腕ともいえる王岐山が、どういうわけか、岡田英弘さんの著作を絶賛している。


 讀賣新聞17年6月5日の「編集手帳」をご紹介します。


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 図書館の棚に並ぶ知識人の著作集には、手あかにまみれたものもあれば、ほとんどまっさらなものもある。著者がある時期の流行の波に乗ったか否か、にもよる。著作集読破を趣味とする古田博司(ひろし)筑波大教授の意見では、むしろ後者に今日でも読むにたえる文章が多い。

 歴史学者、岡田英弘さんが先月、死去した。中国とモンゴルの文献を駆使した研究者だった。

 本紙のデータベースでその名前を検索して見つかった記事は、この20余年で10本もない。マスコミにひっぱりだこだったとは言えない。一連の著書は、様々な分野の目利きらにより、書評欄で紹介されてきた。

 〈中国も、モンゴル帝国が形作った国家であり、その継承国家なのである〉(ちくま文庫『世界史の誕生』より)。チンギス・ハーンの帝国がユーラシア大陸の東西を結びつけたことで、世界史が始まった。そういう雄大な説を提唱していた。

 「嚢中(のうちゅう)の錐(きり)」のたとえを連想する。きりは、おのずと袋を突き破る。言葉が、歳月に埋もれずに、後世の人々をも刺激する。今度、図書館の棚の間を歩くときには、天才のきらめきを探してみようか。


以上


日本人墓地

日本人墓地
 サンデー毎日17年4月23日号
日本人墓地
 「阿木燿子の艶もたけなわ」ゲストは杉良太郎さん。
日本人墓地
 シンガポールの日本人墓地
日本人墓地
 庭のシラン(紫蘭)
日本人墓地
 亡父が植えたのか、自生したのか、今となっては分からない。





 日本人墓地


 サンデー毎日4月23日号の「阿木燿子の艶もたけなわ」の対談ゲストは俳優の杉 良太郎さん。ご存知のように、杉さんは若い時から様々なボランティア活動をしている。一部を抜粋してご紹介します。


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阿木 そもそもボランティア活動を始められたのは?

 きちんとやろうと思ったのは、25歳の時だよね。その年、兵庫県知事の名代で、摩文仁(まぶに)の丘の慰霊祭に出たんです。そこで献花をし、その後、ひめゆりの塔やバンザイ岬にも行ったんだけど、その時思ったのは、戦争って惨(むご)いなと、沢山の人の心に傷を残す。いいことなんか、ひとつもないじゃないかと。大変な犠牲を、日本人にも近隣諸国にも強いている。だから僕は戦争で亡くなった方の慰霊と、多大なるご迷惑をかけた国々に、お詫びの行脚(あんぎゃ)に行こうと思ったんです。

阿木 それで杉さんはアジア諸国を訪問し、日本人が眠っている場所を探し、お墓参りをなさっていらっしゃるんですね。

 日本人墓地だと人づてに聞いて訪ねて行っても、実際はそうでないこともあったりするんです。でもまあ、そこは目をつぶって、どこの国の人でもいいじゃないかと思い、供養するんですけどね。そうかと思うとシンガポールみたいに、現地の人が約900基もある日本人のお墓を守ってくれていたりして、そのほとんどが、からゆきさん(注)なんだけどね。

阿木 今の若い人は、からゆきさんって分からないかも。

 10代終わりから20代そこそこの若い女性が、兵隊さんに付いて戦地に赴き、亡くなっているんだよね。でも気の毒なことに、今じゃ、忘れ去られた存在になっている。

阿木  そういう女性達の遺骨がまだ、あちらこちらに眠っているんですよね。

 小さなお墓なの。字が書いてあるんだけど、風雪に晒されて読めない。そこに僕は菊の花とお線香を手向けたんだけど、シンガポールの暑さにやられて、日射病にかかってしまったんです。で、一旦、帰国してまた出直したんだけど、その時感じたのは、陸軍少将からからゆきさんまで、お茶とか海苔(のり)の缶に骨が入っているんです。それは、あんまりだなと。タイでも同じで、高野山のお坊さんが『般若心経』を読んでいる前に、やはりお茶と海苔の缶が並んでいた。

阿木 そういうのをご覧になったら、放っておけないでしょう。

 放っておけないというより、現地の日本人会会長と喧嘩になるよね。骨壺なんて、高いもんじゃないんだから、それくらい日本人会で買えないかって。それが無理なら、僕が買うからって言ったんだけど、そういうのが多いよね。

阿木 アジアは広いから、お墓参りだけでも大変ですね。

 ベトナムは土まんじゅうですよ。それを牛や馬が蹴散らかすから、限りなく平らになっている。

阿木 よく見ないと、分からないくらい?

 本当にそう。フランスは一体残らず、遺体を帰国させてる

阿木 そうお聞きすると、日本政府の対応は、戦争で亡くなった方々に礼儀を欠いていますよね。

 (注) 19世紀後半、主に東アジア、東南アジアに渡って、娼婦として働いていた日本人女性のこと。


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(感想・意見など)

 お墓があったり、お茶や海苔の缶に骨が入っている人はまだましである。

 軍歌「海ゆかば」そのままに、海行かば、水漬(みづ)く屍(かばね)、山行かば、草むす屍、の人々が多い。


以上


プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子ほか多数。

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