「歴史」は面白い③

「歴史」は面白い①
 週刊文春17年11月2日号
「歴史」は面白い①
 同
 武士は、当初は武士の権利さえ保護できればそれでよかった。元寇で、朝廷があてにならず、挙国一致体制をつくらねばならなくなって、幕府が全国統治を意識するようになった、との指摘は面白い。
「歴史」は面白い③
 今日はマイカーの車検日。代車はホンダの新N-BOX。エンジン音は少しうるさいが良く出来ている。「ホンダセンシング」「ナビ」などほとんどあらゆる装備が付いていて180万円ほどだという。装備はレクサスなどとあまり変わらない。
「歴史」は面白い③
 トヨタのセンチュリーに乗ったことがあるが、横幅はともかく足元はセンチュリーよりゆったりしている。車は、軽の横幅をもう10㌢拡大し(1.58㍍)、エンジンを800ccほどにすれば必要十分。輸出も可能になる。いまの軽はガラパゴス状態。
 デジタルな代車からアナログのマイカーに戻ってホッとした。楽しい旅行からボロ家に戻って、「あーぁ、わが家がいちばん」と言うようなものか。
「歴史」は面白い③
 高松中央図書館の前のケヤキ。今頃が一番美しい。





 「歴史」は面白い③

 先日の続きです。

.......... ..........


 「建武の新政」が成功してたら


出口 室町幕府はそこの整理をどうつけたんでしょうか。

呉座 室町幕府は鎌倉幕府に比べると、最初から全国統治の志向が強い。それには京都に拠点を置いたことが大きく作用した面もあります。ただ、足利尊氏はたぶん、後醍醐天皇が政治をやって、自分は軍事・警察の責任者でいいと考えていたんじゃないかと。

出口 そのように見えますよね。

呉座 だけど結局それじゃうまくいかなくて、やはり武家政権をつくって、全国を統治する方向しかないということになった。結果を知っている現代の私たちからすると、武家政治こそが歴史の必然で、「建武の新政」という天皇中心の政治なんてうまくいくはずがないと思うでしょう。

出口 歴史の流れに対する反動に見えますよね。

呉座 そう。でも、それは結果論で、建武の新政がうまくいった可能性は十分あると私は思っています。日本においても中国や朝鮮のように文官優位の政治体制が確立されても、全然おかしくなかったんです。当時、尊氏が勝つと確信していた人は誰もいないわけで、尊氏自身も後醍醐天皇と何度も和解しようとしていますから。

出口 尊氏はずっと後醍醐天皇を尊敬していましたしね。後醍醐天皇がもう少ししっかりしてくれていたら、足利尊氏は「私たちは鎌倉に引っ越します」と言った可能性もあったわけですね。

呉座 あったと思います。尊氏は京都にいましたが、弟の直義(ただよし)は鎌倉を拠点に関東を支配していましたし。

出口 さて、中世の後は江戸幕府になったわけですが、他の可能性としてはどういう展開がありえたでしょうか。


 海外展開の可能性

呉座 鎖国しないで、海外に展開していく可能性もありました。豊臣政権下の日本は、世界でも有数の鉄砲保有国だったといわれていますから。

出口 銀も世界の三分の一の産出量があったと言われていますね。

呉座 実際、日本は海外進出をやりかけていました。秀吉がやった文禄・慶長の役(1592~98年)は、本来朝鮮を攻めることではなくて、その先の明を征服するのが目的でした。誇大妄想と評されますが、日本軍を撃退した明は1644年に満州族という北方民族によって滅ぼされています。それを考えると、秀吉の発想はそれほど突飛なものではなかった。


 「応仁の乱」で生まれた原風景

出口 確かに清を打ちたてた当時の満州族の人口と富と、石見(いわみ)銀山を持っていた日本の人口と富を比べたら、どうなっていたかは判りませんね。

呉座 やり方が下手で秀吉の試みは失敗しましたが、成功していたら、まったく違った日本になっていたかもしれません。

呉座 時代は少し下って、朱印船でタイへ渡った山田長政は、日本では別に有名な家の出でもないけれど、タイに行って陸軍の次官ぐらいの地位を得ましたね。普通の人でもそれだけの活力があったのだから、この時代にどんどん海外に進出していれば、今の東南アジアの華僑のように、和僑の世界ができていたという可能性も考えられますね。

呉座 実際、倭寇の活動もあったし、江戸時代が終わると日本人はどんどん移民で世界に出ていくわけですから、「日本人は閉鎖的で島国根性だ」とは言えないと思います。日本は村社会と言いますけれども、中世初期は散村といって、山間部にバラバラに離れて住んでいました。粗放的で、おのおのが適当にやっていたのです。それが、一つの地域に密集して、みんなで低湿地開発や用水管理をやる、農作業も共同でやる、侵略に備えて自治自衛するという、われわれが普通にイメージする村へと変わるのは、室町時代、とくに応仁の乱以降なんです。そうしないと生き残れないからそうなった。現在の村で、応仁の乱までさかのぼれる村が結構ありますが、実は鎌倉時代までさかのぼれるところはあんまりないのです。

出口 応仁の乱は一つの大きな転換期で、現在の日本の地方の原風景が出来上がってくる時期と考えたらいいんですね。それにしても、中世の日本にはたくさんの可能性があったと想像すると、すごく楽しい。これからの日本も、もう一度中世のような分権的な世界をつくって、可能性がいっぱいある社会を目指そうよ、と言いたくなりますね。
(構成・神長倉伸義さん)

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(感想・意見など)

 それにしても「歴史」は面白い。それもこれも中学・高校の歴史の授業がベースになっている。


以上


「歴史」は面白い②

「歴史」は面白い①
 週刊文春17年11月2日号
「歴史」は面白い①
 同
「歴史」は面白い②
 近くの神社。朝、今日こそは子猫を撮ろうとして本殿まで入っていったが、子猫は見当たらなかった。参拝し、帰りに先日小学生が遊んでいたところに親猫が2匹いたので写した。夕暮れ時にも通ったら、子猫が何匹もいたので写した。しかし、しかし、カメラに肝心のSDカードを入れ忘れていた!カメラ本体にデータはある筈だが、データの移し方を知らない。取説をみて勉強しなければ。
「歴史」は面白い②
 これは今年7月10日夏越祭(なごしまつり)の時に撮った写真。地域猫で、だれもいたずらしないので近づいても逃げない。
「歴史」は面白い②
 スズメたち。神社の鎮守の森ではヒヨドリたちが「ピーヨピーヨ」と元気に鳴いていた。清々(すがすが)しくて、なんか、いーいねぇ。





 「歴史」は面白い②

 先日の続きです。


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 「中世」を学べば現代がわかる

 「院政」が男系社会の出発点

出口 国際情勢の変化で唐が怖くなくなったので、もう好きにやろうやと、政治も身の丈に合ったかたちにしたわけですね。
 もうひとつ、奈良時代までは天皇は男性でも女性でも構わない、どちらかと言えば双系に近い社会でしたね。その後、摂関政治の下で幼帝が続き、外祖父の摂政関白が政治を仕切りますが、これは女系の社会です。ところが藤原頼道(よりみち)に孫が生まれなかったことから、父である上皇の男系へと権力が移っていく。

呉座 中世はまさに男系の社会になっていきますが、その出発点が院政なのです。後に武家の北条政子や、応仁の乱の時期に将軍であった足利義政の妻・日野富子も権力を握りましたが、それは、権力者の後家としてなんですね。古代の女帝とはちょっと違います。

出口 権力が男系に移ったのは、中国の儒教の影響もあるのでしょうか。

呉座 男系で継承する、いわゆる「家」というものができるのが、中世なんです。それまでは共通の祖先を奉じる「氏」が中心で、氏族集団なのですけど、中世になると近衛家や九条家、さらにもっと下位の貴族に至るまでそれぞれ家をつくっていきます。武士もそうです。中国と違うのは、日本ではほとんど血縁がないような養子にも簡単に家を継がせていることです。

出口 中国では血のつながりをすごく重視しますね。一方で日本は大名家でも結構養子を取っている。

呉座 家がなくなると家臣たちが路頭に迷うので、従業員のために創業家を切って会社を存続させるのに似たところがあります。日本の家は、とくに上級の公家や武家の場合、ただの私的な集団ではなくて、国家的な業務を請け負う存在ですから。例えば鎌倉幕府の将軍家は、軍事警察部門を担当する家であるわけです。

出口 安倍家が陰陽師をやり、飛鳥井家が蹴鞠(けまり)をやり、藤原定家の家が和歌をやるのと一緒で、中世になると家が職能ギルドになっていくんですね。

呉座 朝廷から官職をもらった官僚が仕事をするのが古代律令制のやり方なんですけど、中世では家が国家的な業務を担当する。だから、その知識も家の中で継承されていって、政府にはノウハウが蓄積されません。

出口 それで貴族の日記があんなに大事にされるわけですね。政府にアーカイブをつくる能力がないので、各々の家が職能のアーカイブをつくる。その家が潰れたらアーカイブもなくなるので、血を繋ぐよりも家を残しておかなあかん、ということになった。

呉座 鎌倉将軍家も、源頼朝の血が絶えた後も、将軍家は続かないと困るので、皇族の宮様を連れてきて将軍の座に据えていますね。
 「権門体制」というと大層な国家統治システムのようですけど、無数の家がそれぞれの職能を果たして、それを天皇が緩やかに束ねている、非常に分権的な社会と理解したらわかりやすいと思います。


 鎌倉幕府の謎

出口 元寇(文永の役1274年、弘安の役81年)についてお聞きしたいことがあります。最初にモンゴルが日本に持ってきた国書は「仲良くして商売をやろうや」という話で、そう無茶なことは書いていなかったと思うのですが、鎌倉幕府はモンゴルの使者を斬ったりして、かなり乱暴ですね。なんでこんな対応をしたのでしょうか。

呉座 一つは、外交は朝廷にあるというのが当時の日本の建前だったことが原因です。ところが朝廷は結論を出せない。幕府は軍事権門、要するに軍部なので、朝廷がモンゴルと国交を結ぶという明確な意思を示してくれない以上、彼らとしては戦う準備をする以外の選択肢はなかったわけです。

出口 本来、外務省が決めるべきことを軍部に丸投げしたら、軍部としては斬るしかないわな、という理解でいいんですね。ただ、鎌倉幕府は北条義時が後鳥羽上皇を破った承久の乱(1221年)以降、朝廷に対して実力では圧倒していたと思うのですが、それでいてなお外交は朝廷の管轄だと割り切れたのですか?


 「建武の新政」が成功してたら

呉座 これが中世のわかりにくさなんですね。われわれは、軍事力があればどんどん権力を拡大させるはずだと思うじゃないですか。でも幕府を見ていると、そういうスタンスじゃないんです。むしろ外交に限らず内政でも、公家から話を持ち込まれると、「いや、それはうちでは扱いません。朝廷でお決めになることです」と、なるべく朝廷がやるべきことに口を出したくないという印象を受けます。

出口 幕府は御家人の管理ができていればそれでいいということですか。

呉座 そう、幕府に仕える武士の権利が保護できればいいので、そこからさらに公家や寺社や民衆を管理するなんて面倒くさいことはやりたくなかった。

出口 全国統治には興味がなかったんですね。

呉座 はい。そしてこれが、まさにモンゴルとの戦争を通じて転換していくわけです。モンゴルと戦うために、幕府は御家人ではない武士も動員して、挙国一致体制をつくっていかねばならなくなる。その過程で、幕府は全国を統治する存在であるという意識を強く持つようになるのです。

出口 しかし、その後また鎌倉幕府後期になると、得宗(とくそう:執権嫡流)一族は全国統治のことを忘れてしまっている感じがありますね。

呉座 幕府の中でも、路線対立がありました。結局、そこを整理してきちんと結論を出すことができないまま鎌倉幕府は滅んでしまいました。


つづく


「歴史」は面白い①

「歴史」は面白い①
 日経新聞17年11月19日
 確かに「世界史」「日本史」は覚えることが多く大変であるが、そのお陰で、いまになって「歴史」を学ぶことが楽しい。教えることは教えて、テストに出さなければいいだけではないか。例えば、ガリレオに触れないなど考えられない。「ガリレオ」と聞いて、「えーっ、それ誰ぇ?聞いてないよー」とならないように望む。
「歴史」は面白い①
 週刊文春17年11月2日号
「歴史」は面白い①
 同
「歴史」は面白い①
 子猫たちが撮りたくてカメラを用意して神社へ行く道を通った。子猫たちはいなくて、親猫が2匹日向ぼっこしていた。





 「歴史」は面白い①

 「歴史」は面白い。週刊文春11月2日号の出口治明(はるあき)さんと呉座(ござ)勇一さんの対談を読んであらためてそう思った。抜粋してご紹介します。


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 「中世」を学べば現代がわかる


出口 呉座先生の『応仁の乱』(中公新書)はなんと累計42万部ですが、読んでまず連想したのが、『夢遊病者たち』(クリストファー・クラーク著・みすず書房)という本でした。これは第一次世界大戦を書いた本ですが、関係諸国が誤算を重ねることによって、ズルズルと悲惨な大戦へと引き込まれていく過程を見事に描いています。指導者が確固とした見通しもなく、夢遊病者のように逡巡しているうちにあれだけの大惨事になってしまった。そこに応仁の乱と似たところがある気がしました。

呉座 実は『応仁の乱』を書いているとき、私の念頭にも同じく第一次世界大戦を描いた『八月の砲声』(バーバラ・W・タックマン著・ちくま学芸文庫)があったんです。第一次世界大戦は「まさか」の連続なんですよ。誤算の連鎖によって、結局、欧州の列強を全部巻き込んでしまったわけです。
 応仁の乱も同様に、西軍の山名宗全、東軍の細川勝元いずれも互いに全面戦争を企んだわけではなく、畠山家の家督争いに介入して短期決戦をやるつもりだったのが、読み違いが重なっていくうちに、すべての有力大名が参戦することになってしまった。

出口 そこが歴史の面白さのような気がします。先生から見て、中世の魅力というのは一言で言うとどういうものでしょうか。

呉座 中世は、軸となるものがなく、非常に多極的な世界です。例えば古代でしたら、律令国家で、朝廷中心の政治の仕組みがある。江戸時代でしたら、幕府中心の秩序がある。近代以降はもちろん政府がある。ところが中世の場合は、そういう主軸になるものがありません。朝廷、公家も影響力を残していますし、寺院や神社といった宗教勢力も武力・経済力を持っている。

出口 いわゆる「権門体制」ですね。それと、宋銭の流入によって貨幣経済が活発になり、安土桃山時代へ向かって権力の上の方だけではなく庶民たちが成長していく社会ですよね。だから実は夢があった。

呉座 そうです。民衆も力をつけてきているし、どの勢力がメインだと一概には言えない。地理的にも京都が中心とは言い切れなくて、鎌倉にも求心力がある。後世の人間からすると、武家政治になってやがて江戸幕府が成立していくのが歴史の必然であったように見えますが、当時の人たちはたぶんそこまでわかっていませんでした。どっちにも転ぶ可能性があったという躍動感が、中世の一番の魅力じゃないかと私は考えています。

出口 ダイバーシティ(多様性)があって、それぞれの主体が好き勝手なことができて、しかも先がどうなるかわからない社会というのは、すごく面白いですね。

呉座 2001年、あの9.11テロが起きました。これから世界はどうなってしまうのだろうと不安を覚えざるを得なかった。先の見えないこの時代に雰囲気が似ているのはどこだろうと考えたとき、それは中世じゃないかと思ったんです。

出口 なるほど。僕が中世は面白いと思ったのは、まずバサラ大名の存在ですね。僕は戦後のベビーブーマー世代で、日本人は個性のないおとなしい人々だという思い込みがありました。ところが、佐々木道誉(どうよ)などのバサラ大名はキンキラキンのイメージで、かつてこんな日本人がいたんだ、とびっくりしました。信長もかっこいいですよね。
 世界史を参照すると、ギリシャ・ローマの輝ける太陽のような文明と、暗黒の中世という対比があります。日本でも輝く天平文化と薄暗い中世という対照的なイメージがあります。天平文化というと輝かしいイメージですが、実は疫病で人がバタバタ死んだりして、結構暗い時代ですよね。


 背伸びをしていた奈良時代

呉座 奈良時代というのは、基本的に無理している時代なわけです。隣に唐という超大国があって、もしかしたら攻めてくるかもしれないという緊張感のなかで、中央集権国家をつくらねばと、律令という法律を導入し、例えば道路にしても真っ直ぐで軍用になる道をつくっています。当時の日本の国力からしたらかなり背伸びしているんです。

 日本的分権体制

出口 中国では律令を原則、皇帝の代替わりごとに作り直しますが、日本は本格的な律令は大宝律令の一回しかつくれなかった。でも、律令をちゃんとつくる能力がなかったからこそ、院政があんなに力を持てたとも言えますよね。

呉座 院政は、とくに戦前においては非常にネガティブに評価されてきました。律令体制から外れた、法律違反行為みたいな感じです。しかし最近は、律令で法治国家をつくろうとした奈良、それを維持しようとした平安時代にそもそも無理があり、日本の実情に合う政治体制を模索していたのが中世、その象徴が院政である、と肯定的な評価に変わってきています。


つづく


パターン化した歴史認識は危険だ

パターン化した歴史認識は危険だ
 産経新聞17年9月26日
パターン化した歴史認識は危険だ
 樋口季一郎(ひぐち・きいちろう)陸軍中将
パターン化した歴史認識は危険だ
 (講談社文庫) 799円。この本は2日前に買った。
 樋口季一郎中将のことを知りたかった。軍人=悪人ではない。人それぞれである。読むのが楽しみ。
 樋口中将が大勢のユダヤ人を救ったことは知っていた。しかし、キスカ島撤退作戦や千島列島・占守島(しゅむしゅとう)の戦いに関与していたことは知らなかった。大昔「キスカ島撤退作戦」を描いた映画を見た記憶がある。
パターン化した歴史認識は危険だ
 柴 五郎陸軍大将
パターン化した歴史認識は危険だ
 (講談社文庫) 上下とも691円。
 柴 五郎は、幕末会津に生まれ辛酸を舐めている。陸軍中佐(のちに大将)で日本公使館付駐在武官であった時、「義和団事件」が発生。柴は11カ国の軍隊を実質的に指揮し、籠城戦を戦い抜いた。また、戦いが終わった後も気を緩めることなく、日本軍はよく規律を守った(このころ、占領地では兵による略奪・殺戮・強姦が当たり前であった。現代のISを想起されたし)。イギリス大使・マクドナルドは、「日本人こそ最高の勇気と不屈の闘志、類まれなる知性と行動力をしめしたすばらしき英雄たちである」と絶賛した。これが日英同盟に繋がったとも言われている。この本を読むのも楽しみ。
パターン化した歴史認識は危険だ
 香川県立盲学校のハゼノキ。





 2013年10月10日のブログ「杉原千畝(ちうね)とサムライたち」と、2016年11月27日ブログ「ユダヤ人を救出した日本人たち」で、杉原千畝の他に、根井三郎、建川美次(たてかわ・よしつぐ)小辻節三(こつじ・せつぞう)飯井(めしい)松岡洋右(ようすけ)樋口季一郎安江仙弘(やすえ・のりひろ)東條英機らを紹介した。

 今日の話は、16年11月27日のブログに関係している。産経新聞9月26日「正論」欄、新潟県立大学教授・袴田茂樹(はかまだ・しげき)さんのコラムを抜粋してご紹介します。


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 樋口中将はなぜ忘却されたのか


 9月初め、露ハバロフスクに近いユダヤ自治州ビロビジャンのユダヤ教会を訪問した。教会内展示室には、1940年に「命のビザ」で多くのユダヤ人を救ったリトアニア領事代理の杉原千畝の写真もあった。


 パターン化された歴史認識

 教会の案内人に、では杉原以外にも、38年にソ連・満洲国境で、ナチスの弾圧を逃れソ連を通過した数千人のユダヤ難民を救った日本人がいるのをご存じかと尋ねたら、全く知らないという。

 樋口季一郎中将(1888~1970)のオトポール事件のことで、彼の名はユダヤ民族に貢献した人を記したエルサレムの「ゴールデンブック」にも載っている。わが国でも、樋口を知っている人は少ない露でも日本でも政治により戦前の歴史には蓋がされて、国民にリアルな現実認識がないからだ。このような状況下で、今日また深刻化した平和の問題が論じられている

 近年、冷戦期に二大陣営の枠組みに抑えられていた民族、宗教、国家などの諸問題が、国際政治の表舞台に躍り出て、混乱と激動の時代となり、世界の平和と安定の問題が喫緊の課題となっている。

 われわれ日本人がリアルな現実認識を欠き、パターン化した歴史認識のままで、複雑な戦争や平和問題を論じ安保政策を策定するのは危険である。

 一人の日本人による満洲でのユダヤ難民救済事件を例に、歴史認識のパターン化について考えてみたい


 樋口(淡路島生まれ)は陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸大卒の超エリートだ。1938年のユダヤ難民事件のころ彼は諜報分野に長けた陸軍少将で、事実上、日本の植民地であった満洲のハルビン特務機関長であった。同機関は対ソ諜報の総元締で、樋口は日本陸軍きってのロシア通だった。


 捨て身でユダヤ難民を助けた

 38年3月10日、彼は満洲のユダヤ組織代表、カウフマンから緊急依頼を受けた。ソ満国境のオトポールにたどり着いた多数のユダヤ人が、満州への国境通過許可がもらえず、酷寒の中で餓死者、凍死者も出る事態になっており、すぐにも彼らをハルビンに通してほしいとの必死の依頼だ。

 当時、日本はナチスドイツと防共協定を結んでおり、ナチスに追われたユダヤ人を満洲に受け入れることは、日本の外務省、陸軍省、満州の関東軍にも反対論が強かった。しかし緊急の人道問題だと理解した樋口は馘を覚悟で、松岡洋右(ようすけ)満鉄総裁に直談判し、2日後にはユダヤ難民を乗せた特別列車がハルビンに到着した。

 案の定、独のリッペンドロップ外相から外務省にこの件に関して強い抗議が来た。樋口の独断行為を問題にした関東軍の東条英機参謀長は、新京の軍司令部に樋口を呼び出した。しかし強い決意の樋口は、軍の「五族協和」「八紘一宇」の理念を逆手にとり、日露戦争時のユダヤ人の対日支援に対する明治天皇の感謝の言葉なども引き、ナチスのユダヤ人弾圧に追随するのはナンセンスだと、人道的対応の正しさを強く主張した。

 樋口の捨て身の強い信念と人物を見込んだ東條は、彼の行動を不問に付すことに決めた。樋口は関東軍や東條の独断専行には批判的だったが、後に「東條は頑固者だが、筋さえ通せば話は分かる」とも述べている。


 リアルな理解が国際政治の基礎

 戦後、ソ連極東軍は米占領下の札幌にいた樋口を戦犯としてソ連に引き渡すよう要求した。その理由は、樋口がハルビン特務機関長だっただけでなく、敗戦時には札幌の北部司令官であり、樺太や千島列島最北の占守島(しゅむしゅとう)でのソ連軍との戦闘(ソ連軍は苦戦した)の総司令官だったからだ。

 しかし、マッカーサー総司令部は樋口の引き渡しを拒否した。後で判明したことだが、ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会が、大恩人の樋口を守るために米国防省を動かしたのである。


 私たちは、同じように日独関係の政局に抗して数千人のユダヤ人を救い、映画にもなった外交官の杉原は知っていても軍人の樋口についてはあまり知らない。それは「将軍=軍国主義=反人道主義」「諜報機関=悪」といった戦後パターン化した認識があるからではないか。

 ビロビジャンのユダヤ教会も、遠いリトアニアの杉原は知っていても隣の満洲の樋口は知らない。露でも「軍国主義の戦犯」は歴史から抹消されたからだ。

 私は、リアルな歴史認識こそが国際政治や安保政策の基礎だと思っているので、自身も長年知らなかった事実を紹介した。


以上


韓国よ 生死賭す判断誤るな

韓国よ 生死賭す判断誤るな
 産経新聞17年8月25日「正論」
韓国よ 生死賭す判断誤るな
 今日の本津川。久しぶりにコサギの群を見た。
韓国よ 生死賭す判断誤るな
 本津川の堰。今は下げているが、堰の仕組みがよく分からない。ゴム製のようだが。アオサギが1羽乗っている。
韓国よ 生死賭す判断誤るな
 堰を上げるとこのようになる。
韓国よ 生死賭す判断誤るな
 家に帰ってきたらトンボが出迎えてくれた。アゲハも。






 産経新聞8月25日「正論」欄、拓殖大学学事顧問(前総長)・渡辺 利夫さんのコラムを抜粋してご紹介します。



 韓国よ 生死賭す判断誤るな

 問題を蒸し返す文大統領発言

 どうしてこの期に及んで、というのが、文在寅(ムン・ジェイン)韓国大統領の元徴用工に関する発言を聞いて、多くのの日本人が抱いた偽らざる疑念であろう。

 一触即発の半島に身をおいて自国の安全をどう確保するか、国家の生死を賭した大事を前に「事の軽重」の判断に狂いが生じていないか。

 一昨年末の日韓外相会談において慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」が両者間で合意された。日本側は合意に誠実に対応する一方、韓国側にはこれを守る意思が薄い。

 ソウル日本大使館前の慰安婦像の撤去に韓国政府は関心を示さず、釜山の日本総領事館前に像の新たな設置を許し、設置は全国的な規模で広がりつつある。

 
 日本側は1965年の日韓請求権・経済協力協定において両国間の賠償請求権は「完全かつ最終的に解決された」という原則を順守、慰安婦問題を含めすべての個人請求権問題は解決済みという態度を一貫させてきた。

 同時に、韓国の民意にも配慮し、「アジア女性基金」を1995年に設置して「償い金」を、さらに一昨年の日韓合意に沿い10億円の拠出を閣議決定しすでに支払い済みである。

 しかし、文大統領はこの合意をよしとせず、日本に再交渉を要求しようという意向を貫き、合意過程の再検証を進めているという。

 文大統領は就任100日目の記者会見において、日本統治時代に半島から動員された元徴用工には日本企業への個人請求権があると述べた。韓国政府は盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権以来、慰安婦、原爆被害者、サハリン残留韓国人の3つは日韓請求権・経済協力協定の例外として個人請求権をもつとし、元徴用工については言及を避けてきたものの、今回の文大統領の発言である。


 日本糾弾にのめり込むときか

 北朝鮮の核ミサイル恫喝、中国による不徹底な北朝鮮制裁、高高度防衛ミサイル(THAAD)追加配備への逡巡(しゅんじゅん)、米韓同盟の将来の不透明化など、韓国を取り巻く現下の諸状況は、韓国という国家の存続に関わるマグニチュードをもつ。韓国内の左派勢力、親北勢力の跳梁(ちょうりょう)を許し、その勢力の分厚い支持により政権を手にしたのが文大統領であることに疑問の余地はない。

 あろうことかこの危機の最中で、連携を強化すべき日本への糾弾のレベルを上げるというのはどう考えても理性的な姿勢とは思われない。半島危機の当事者意識の無残なまでの欠如である。


 顧(かえり)みるべき歴史がある。「朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコト」(日清講和条約第1条)を求めて、朝鮮の宗主国たる清国に挑んでこれに勝利した日本が、朝鮮の近代化を期し政治改革に打って出たことがある。

 「甲午(こうご)改革」(1894~1895)である。しかし、日清戦争後の三国干渉により遼東半島の清国還付をのまされた日本を朝鮮は「恃(たの)むに足らず」とみてロシアに急接近。親露派が力を得て国王高宗をロシア公使館に移し、国王はロシア公使館から詔勅(しょうちょく)を発するという屈辱を余儀なくされ(露館播遷:ろかんはせん)、朝鮮はロシアにより自在に操(あやつ)られる事態となって改革は頓挫した。


 情緒が政治決定を左右する怖さ

 親日派、親露派、中国・日本・ロシア、国の内外にかかわらず強い社会的勢力、大なる国家になびいて、自らの危機の陥穽(かんせい)にはまっていくという構図は、現在も往時と変わっていない。

 甲午改革の失敗を目の当たりにした福澤諭吉は、明治30年10月7日付の『時事新報』の論説「事実を見る可し」にこう綴った。

 朝鮮人は「上下一般、共に偽君子の巣窟にして、一人として信を置くに足るもののなきは、我輩が年来の経験に徴するも明白なり。左れば(か)かる国人に対して如何なる約束を結ぶも、背信違約は彼等の持前にして毫も意に介することなし。既に従来の国交際上にも屡(しばし)ば実験したる所なれば、朝鮮人を相手の約束ならば最初より無効のものと覚悟して、事実上に自ら実を収むるの外なきのみ

 福澤の思想的影響を受けた金弘集を総理衙門(内閣総理大臣)とし、朴永孝、兪吉濬などを要職に配して進められた甲午改革の挫折は、福澤の朝鮮近代化の夢を最終的に打ち砕くものとなった。金弘集は総理衙門の職を追われるや、光化門外で民衆により撲殺され、屍(しかばね)は市中に晒されたという。

 韓国には国民情緒法がある。成文法を超越して、行方定めず揺らぐ国民の情緒が政治決定のありようを左右するという恐ろしさが確かにこの国にはある

 福澤は明治18年の「脱亜論」の正当性を10年余を経て見定め、以来、朝鮮論の筆を折った。朝鮮研究を志す学究が急速に細やぎつつある日本の現状は、その再現なのかもしれない。


以上


プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子ほか多数。

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