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70年前の隣国

70年前の隣国
 朝鮮半島の西側は平野のため、北から攻め込まれるとあっと言う間に釜山(プサン)まで追いつめられる。事実、朝鮮戦争ではそうなった(アメリカ軍を主力とする国連軍がソウル西の仁川(インチョン)に上陸し押し戻したが…)。
 
 日本はロシアに朝鮮半島を押さえられることを恐れて、1904年日露戦争を戦った。

70年前の隣国
 朝日新聞2019年7月25日 詩人の金 時鐘(キム・シジョン)さん。

70年前の隣国
 朝日新聞2019年7月26日

70年前の隣国
 韓国最大のタブーになっている補導連盟事件

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70年前の隣国
久しぶりに県立図書館に行ったら、アキニレはすっかり裸になっていて、鳥の巣が見えた。





  70年前の隣国


 朝鮮戦争は、1950年6月、北朝鮮が38度線を越えて韓国に侵略したことで始まった。3年間に及ぶ戦争で半島全土が戦場と化した。1953年7月に休戦した(現在も休戦中)が、韓国側約150万人、北朝鮮側約250万人、計400万人が死亡したと言われている。

 また、朝鮮戦争の最中に李承晩大統領は補導連盟員や南朝鮮労働党関係者を処刑するよう命令、韓国各地で虐殺が起き、その数100万人前後と言われている(「補導連盟事件」)。

 その少し前に済州島で起きた事件が「済州島四・三事件」。軍・警察によって島民の5人に1人が虐殺され、村々の7割が焼かれ、日本に何千人かが密入国した。


 朝日新聞2019年7月25・26日 詩人・金 時鐘(キム・シジョン)さんの記事を抜粋してご紹介します。
 (聞き手 論説委員・中野晃さん)

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  両親おいて脱出 今生の別れに


 済州島(チェジュド)の沖合の孤島を深夜離れて、夜が白み始めたころ五島列島(長崎県)の明かりが見えました。日本の領海に入って安堵したのもつかの間、闇船のエンジンが止まりました。豪雨で機関室まで水につかったのです。

 幸い船は日本の領海を漂流し、天運のように船のエンジンも動きだしました。もし韓国側に流されていたら、私が「在日」を生きることもなかったでしょう。

 《南朝鮮の単独選挙に反対する1948年の武装蜂起「済州島4・3事件」に参加。官憲の虐殺を逃れ、49年初夏に島を脱出する》

 親や親類、友人や知人の助けをかりながら身を潜めていましたが、明日をも知れない自分の命におびえ通しの私でした。

 父はあらんかぎりの手を尽くして済州島から私を逃がすことに懸命でした。サーチライトが交錯する中、私は、調達された小さな漁船で済州島を離れ、日本に向かう闇船が来るという沖合の小さな岩礁の無人の島を目指しました。

 夜闇にまぎれて小船に乗り込むとき、「たとえ死んでも、わしの目の届くところでだけは死んでくれるな。お母さんも同じ思いだ」と言って父は顔をそむけました。それが今生の別れでした。


 李承晩の反共独裁政権が続いた韓国で「赤色逃亡者」を息子にもった両親の暮らしが、いかほど過酷なものであったかは想像するに余りあります。再会を果たせぬまま、父は57年、母はその3年後に亡くなりました。年老いた父母をすて、「4・3」から逃げを打った私は日本で生きながらえているのです。私の「在日」は罪深い日々の重なりでもあります。


 《二十歳のとき、虐殺が続く韓国の済州島から海を渡り、大阪の「猪飼野(いかいの)」で暮らし始める》

 猪飼野(大阪市生野区、東成区)は、本国でさえ廃れてしまった生活習慣が民族遺産のように受け継がれていました。在日同胞の集落地であり、その源流のようなところです。

 1949年6月、猪飼野にたどり着いた私は、ろうそくを作る小さな工場の住み込み工員になりました。間もなく工場の廃業で引っ越し「鶏舎長屋(タクトナリ)」と呼ばれる、共同便所近くの板間ひと間の家の同居人になったりもしました。

 生活は困窮を極めましたが、済州島のように生命の危機に追われることがないのは幸いでした。

 ただ、両親をおいて逃げを打ったという後ろめたさが日増しに募り、民族団体の活動家になり、閉鎖されていた朝鮮小学校の再建にも打ち込みました。

 猪飼野かいわいで10年余り暮らしましたが、済州島と縁のある人が多く暮らしていることもあって、故郷で見かけた人ともよく出会ったものです。


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(感想・意見など)

 70年前の出来事ではあるが、日本以外の東アジアのどの国・地域(中国、香港、台湾、北朝鮮、韓国)で明日起こるやもしれないことである。現に今現在、中東、ユーラシア各地、北アフリカ、中南米などで起こっていることである。


以上


日米構造協議の一断面

日米構造協議の一断面
 日経新聞2019年6月20日「私の履歴書」は7代の首相に仕えた元内閣官房副長官・石原信雄さん。

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日米構造協議の一断面
 週刊東洋経済2019年12月14日号

 日立に限らないが、企業は猛烈な勢いで変わろうとしている。そうしないと生き残れない。
 昔のように、大企業に就職したからといって安心していられる時代ではなくなった。65歳~70歳まで働くとすると、40年から50年間働くことになる。その間所属企業が安泰である可能性はまずほとんどない。

日米構造協議の一断面
 朝日新聞2019年12月19日

 世界は急速に変化し続けている

 日立は、日立化成を昭和電工に売却医療用画像診断機器事業を富士フイルムに売却

 いすゞ自動車は、スウェーデンのボルボと提携、UDトラックスを買収する。

 フィアット・クライスラー(FCA)とPSA(フジョー、シトロエン)グループは21年春合併する。世界第4位のグループができる。

 日本の自動車メーカーは、日産、三菱はルノーグループに、ホンダは今のところ独立独歩、それ以外はほとんどすべてトヨタグループに。変化、変化、変化、変化……

日米構造協議の一断面
 四国新聞2019年12月19日
日米構造協議の一断面
 四国新聞2019年12月19日

 造船では、中韓とのし烈な競争のため、今治造船とJMUが資本提携三菱重工業は長崎造船所香焼工場を大島造船所に売却中国は政府の強力な後押しで1位と2位が合併、韓国も金融機関が後押ししてさらに強大になろうとしている。

日米構造協議の一断面
 日経新聞2019年12月19日

 日立は、火力発電事業から撤退する。三菱日立パワーシステムズ(MHPS)の全株式を三菱重工に譲渡する。

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日米構造協議の一断面
 香東川東岸
日米構造協議の一断面
 こういう道を走るのが好き。
日米構造協議の一断面
 おかげでクルマの左側はスリ傷だらけ。





 日米構造協議の一断面


 1945年、日本は太平洋戦争でアメリカに敗れたGHQ最高司令官のマッカーサーは、「日本は四等国に転落した。再び世界の強国に復活することは不可能である」と述べ、日本弱体化政策をとった。

 しかし、先人の並々ならぬ努力で、日本経済は、それから10年余で日米貿易繊維製品が問題になるまでになった。1970年ごろからは鉄鋼、カラーテレビ、半導体が問題に。

 1985年のプラザ合意以降、1ドル=240円→200円→120円と、日本は急激な円高に苦しんだ。

 1989年ごろになると、アメリカは個々の製品だけではなく、日本の構造にこそ問題があるとみなし、日米構造協議が始まった。日本は構造に問題があるので国内消費、公共投資を増やすべきだ、日本人の働き方にも問題がある、等々とのアメリカからの強い要求があり、無理を重ね、その後のバブル経済の生成→崩壊→不良債権の増加と、今に至る問題を発生させた。

 わたしは、カラーテレビ、半導体のころから興味を持ってきた。しかし、当時の様子が今一つよく分からなかった。


 2019年6月の日経新聞「「私の履歴書」は元内閣官房副長官の石原信雄さん。

 当時は政権がコロコロ変わっていたので、それを補うべく官僚のトップとして請われ、7代の首相に仕えてきた。墓の中まで持っていく話も多いのだろうが、ある程度当時の雰囲気が分かる。相当強いプレッシャーがかけられていた。

 2019年6月20日の日経新聞「私の履歴書」を抜粋してご紹介します(強調は引用者)。


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  日米構造協議

 大統領から連日の催促
 党高政低での外交 難しさ


 宇野内閣の退陣を受けて、1989年(平成元年)8月10日、海部内閣が発足した。

 まず直面したのが米国の通商問題での厳しい姿勢だ。ブッシュ大統領は「日米間の貿易不均衡は牛肉・オレンジなど個別の交渉ではらちが明かない、日本経済の構造そのものが問題だ」として日米構造協議を急ぐよう求めていた

 9月1日、日米首脳会談に臨んだ海部俊樹総理大臣は、大統領が「日米構造協議を早く進めよう。90年春に成果を出したい」と迫ってきたのに驚いた。

 米側は①流通制度②貯蓄・投資バランス③系列取引―など6項目の見直しを求めていたが、大統領の思い入れは想像以上だった。

 流通制度の焦点は、大型店の出店を規制する大規模小売店舗法(大店法)の廃止だ。米トイザラスが新潟に出店しようとしていたが、大店法に基づく地元との出店調整が壁になっていた。大店法は中小事業者を代弁する自民党の商工族議員が主導してきた法律で一筋縄ではいかない。

 貯蓄・投資バランスは、貯蓄に比べて投資が少ないのが問題だとして、公共投資を国民総生産(GNP)の10%に引き上げるよう求めてきた。

 系列取引は本来、商慣行の問題で政府が関知するものではないというのが日本側の立場だが、米国は「非関税障壁だ」と主張していた。

 いずれも各業界につながる自民党の族議員や所管する各省が絡む問題である。族議員や各省の反応は「1年で解決できるはずがない」「そもそも内政干渉だ」と冷ややかだった。しかし、ブッシュ大統領からは海部総理に頻繁に電話が入る。危機感を強める官邸と、各省や族議員との温度差が広がっていた。

 竹下派が主導して発足した海部内閣は明らかな「党高政低」の権力構造だ。自民党を仕切るのは47歳で就任した竹下派の小沢一郎幹事長。アマコスト駐日大使は官邸には寄らずに「小沢詣で」を繰り返し、幹事長は日米構造協議への米側の強い意志を感じていた

 私は旧知の幹事長の下にしばしば通い、族議員は幹事長、各省は私がそれぞれ説得にあたることにした。90年2月、加藤六月政調会長、西岡武夫総務会長が就任して党側は一段と強力な布陣になった。

 大店法に関して当初、箸にも棒にもかからないといった風だった自民党商工部会は幹事長の説得で軟化し、規制の緩和を容認した。私は通産次官を呼んで協力を要請した。

 最後までもめたのは公共投資だ。GNPの10%という枠をはめるのは予算編成に支障をきたすと大蔵省が猛反対した。ブレイディ米財務長官はGNP比にこだわったが、橋本龍太郎大蔵大臣が粘って比率での目標設定を回避。10年間に総額430兆円の公共投資をすることで合意し、日米構造協議は6月に決着した。

 海部総理は連日の「ブッシュホン」に悩まされた時代はベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終結した時期である。党高政低の権力構造で激変する国際情勢に対処する難しさを感じ始めていた。


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(感想・意見など)

 USTR(アメリカ通商代表部)がガンガン言ってきているのは知っていた。しかし、アメリカ大統領までもが日本国首相に直接頻繁に圧力をかけてきていたというのは初めて知った

 自由、人権、民主主義、市場経済、法の支配といった価値観が同じ国同士であってもこれだけ長い間もめ続けてきた。

 日本の新聞は、日経新聞を除いてほとんど問題にしなかったが、2018年10月のペンス米副大統領の中国非難演説を聞いたとき、これから長い米中摩擦が起きると瞬時に悟った。

 アメリカはやわな国ではない


以上


首里城を3度救う男・鎌倉芳太郎


 首里城を3度救う男・鎌倉芳太郎

首里城を3度救う男・鎌倉芳太郎
 首里城。80年代末から復元が行われ総事業費は33年間で約240億円。

首里城を3度救う男・鎌倉芳太郎
2019年10月31日未明、炎上する首里城

首里城を3度救う男・鎌倉芳太郎
 AERA2019年11月18日号
首里城を3度救う男・鎌倉芳太郎
 同上。
 鎌倉芳(よし)太郎(1898-1983:人間国宝)の残した資料「寸法記」には、首里城正殿の唐獅子や牡丹、昇り龍の図柄、配色も細かく記入されている。

 「1923年6月、首里城の取り壊し作業が始まった。東京でこの動きを知った鎌倉は、師であり共同研究者でもある東京帝国大学教授の伊東忠太(1867-1954)に報告。伊東は内務省に保存の重要性を訴え、取り壊しの中止を要請内務省の『取り壊し中止命令』の電報が沖縄県庁に届き、本格的な取り壊しは寸前で回避された」

首里城を3度救う男・鎌倉芳太郎
 「日本建築の自画像展」図録より(左端が鎌倉芳太郎)。

 現在香川県立ミュージアムで開催されている「日本建築の自画像展」でも鎌倉芳太郎の業績が紹介されている。

 「1921年、沖縄県女子師範学校の美術教師として赴任したのを契機に、沖縄文化について研究し、『沖縄文化全般の最高のフィルドワーカー』、『首里城を二度救った人物』と称されました。彼の撮影した写真や調査ノートが残っていたため、沖縄の伝統的な宗教・習俗、工芸品といった文化財、建造物の様子が、現代に伝わっているのです」

 「戦争で壊滅的被害を受けた沖縄にとって、大切な資料群です。1992年に首里城が再建されたときの参考にもなった」
 「2005年には、鎌倉芳太郎の調査資料は一括して国の重要文化財に指定されました」

首里城を3度救う男・鎌倉芳太郎
 四国新聞2019年11月4日「一日一言(いちにち・いちげん)」から抜粋。

 「沖縄を代表する伝統的な染色技法の一つに紅型(びんがた)がある。その技法を継承し型絵染で久野の重要無形文化財保持者(人間国宝)になった(香川県)三木町出身の鎌倉芳太郎(1898~1983年)は「沖縄の恩人」と称される。

 鎌倉は21年に文部省派遣の美術教師として沖縄に赴任。大正末期から昭和初期にかけて、本島から離島の隅々まで歩き、文物を精密なガラス乾板写真に収め、膨大な記録を残した。20~30代の青年期の仕事である。

 その頃、首里城は琉球王国の解体・併合から四十数年を経て建物の荒廃が進んでいた。政府の取り壊し計画を新聞報道で知り、共同調査した建築史家のもとに走り、首里城の危機を訴えた。結果的に国を動かし取り壊しは中止、国費で大修理が行われた。

 その首里城は太平洋戦争で焼失。戦争などの影響で鎌倉は沖縄との直接の行き来がなくなる。そして沖縄の地に戻るのは、70代の高齢になってからのことだった。それ以降の活躍がまた目覚ましい。

 青年期の写真やノートがかつての沖縄の事物を再現するのに、唯一無二の手本として役立つ。紅型から独自の染色を編み出し人間国宝に。詳細な資料は92年の首里城復元の根拠になった。与那原恵著『首里城への坂道』(筑摩書房)』 に詳しい。

 沖縄をこよなく愛した鎌倉は82年、集大成の大著『沖縄文化の遺宝』を発刊し、翌年に亡くなった」


首里城を3度救う男・鎌倉芳太郎
 現在、高松城天守復元計画がある。

首里城を3度救う男・鎌倉芳太郎
 高松城天守内部が分かる写真や設計図面を3000万円の懸賞金をつけて募集しているが、なかなか現れない。

首里城を3度救う男・鎌倉芳太郎
四国新聞2019年12月14日

 高松城跡「桜御門」復元は年明け着工、2021年度完成を目指す。費用は3億円弱。


 首里城はさまざまな苦難に遭っているが、その都度、鎌倉芳太郎の仕事に助けられている。


以上



日本文明の成立②


 日本文明の成立②

日本文明の成立
 産経新聞2019年6月12日「万葉賛歌」

 わたしはサラリーマン生活の約半分を松山で過ごした。しばしば「熟田津(にきたつ)」という言葉を聞いたがピンとこなかった。この記事を読んでハッキリした。現在の三津浜港(みつはまこう)ないし重信川(しげのぶがわ)河口付近らしい。

 額田王(ぬかたのおおきみ)は、「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮(しお)もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな」と詠んだ(熟田津で船に乗り込もうと月の出を待っていると、潮も、船出にちょうどよくなってきた。さあ、今こそ漕ぎ出そう)

日本文明の成立
 遠景は屋島(屋嶋城がある。源平の古戦場でもある)。手前は高松港のダイヤモンド・プリンセスと直島行きフェリー。

日本文明の成立
 復元した屋嶋城(やしまのき)。

日本文明の成立
 屋嶋城にある説明板。663年白村江の戦いに敗れ、唐軍の侵攻を恐れ、対馬から瀬戸内海沿岸にかけて山城(やまじろ)や烽火台(のろしだい)を設け、都を近江(大津市)に移した。屋嶋城はその山城のひとつ。

日本文明の成立②
 復元された遣唐使船

 律宗布教のため日本をめざした鑑真は、6度目にやっと渡日できた。その苦労のため失明した。阿倍仲麻呂は、帰国途中暴風雨にあってベトナムに漂着、唐の都長安に骨を埋めることになった。航海は、死亡率3割といわれるほど危険なものであった。

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日本文明の成立②
いつものマックは、日曜日と期末テスト直前のためか、家族づれと生徒でいっぱい。

日本文明の成立②
 高松中央図書館も生徒の自転車があふれている。ケヤキ並木も落ち葉が散りだした。





 産経新聞2019年6月12日「万葉賛歌」を抜粋してご紹介します。

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 緊迫「白村江」前夜

 大敗戦からの国づくり


 「万葉集」には古代国家への産みの苦しみに関連した歌がいくつかある。中でも最大の苦難は、第38代天智天皇の2(663)年、朝鮮半島西南部の白村江(はくすきのえ)で唐・新羅連合軍と対決しての大敗戦だろう。

 ここへ至ったのには、4世紀以降の長い歴史がある。日本(倭国)は国内で産しない「鉄」や最新の文化を求めて朝鮮半島に渡り、国々の抗争に巻き込まれていった。百済は西暦660年、唐・新羅連合軍に攻められ、都が陥落する。

 時の斉明(さいめい)天皇と嫡男、中大兄皇子(天智天皇)は長年の友誼を重んじ、百済を支援するため3万近い軍勢を派遣する決意を固めた。さらに女帝は68歳の高齢をおして、前線基地の九州に赴いた。

 別掲の歌はこの遠征の途中、滞在先の石湯行宮(いしゆのかりみや:道後温泉付近)を出発するおりに、額田王(ぬかたのおおきみ)によって歌われた名歌である。熟田津(にきたつ)の場所については諸説あるが、瀬戸内海に面した港湾だったのだろう。

 昼間ではなく、なぜ暗い夜に船出したのか。古代史家、直木孝次郎さんの論文「夜の船出」によると、瀬戸内海特有の陸風(海に向かう風)が吹き始める夜を待って出航したというのだ。

          ■          ■

 何より疑いないのは、この出航が緊迫感にあふれていたことである。石湯行宮での滞在自体、約2カ月にも及んでおり、軍勢の確保にも難航していたのだろう。歌には、ともすれば不安に駆られがちな兵士らを鼓舞し、奮い立たせる意味あいが込められていた。

 にもかかわらず、九州に着いた斉明女帝は間もなく体調を崩し、7月には崩御してしまう。中大兄皇子は即位式も挙げないまま指揮を執ったが、2年後の決戦では惨敗してしまう。

 「唐軍は勢いに任せて侵攻してくるかも…」。中大兄らは恐れ、亡命してきた百済人技術者らの指導で、対馬から瀬戸内海沿岸にかけて山城や烽火台を設けた。さらには、都を近江(大津市)に移している。

 亡国の危機を脱したのは偶然でしかなかった。朝鮮半島で新羅が唐を追い出す戦争を始めたからである。

 しかし天智天皇は敗戦を重くとらえ、唐にならった中央集権の国づくりに邁進した。そして彼の死後、志は同母弟である天武天皇やその皇后だった持統天皇に受け継がれる。  (客員論説委員 渡部裕明さん)

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(その後)

 663年の白村江の戦いのあと、遣唐使は、ほとぼりが冷めるまで休止していた。701年文武天皇の時代に再開した。

 遣唐使の目的は、唐の進んだ文化や政治制度、仏教を日本に持ち帰って活かすこと。

 しかし、755~763年の「安史の乱」により唐は急速に衰退。危険な航海も懸念。894年、菅原道真(すがわらのみちざね)の建議により廃止された(「遣唐使、白紙(894)に戻した道真公」とおぼえた)。
 その後、「国風文化」が栄えるよになった。


以上


日本文明の成立①

16世紀のヨーロッパ
 大変な名著!
日本文明の成立
 同上、関連部分。
日本文明の成立
 産経新聞2019年6月12日「万葉賛歌」

 わたしはサラリーマン生活の約半分を松山で過ごした。しばしば「熟田津(にきたつ)」という言葉を聞いたがピンとこなかった。この記事を読んでハッキリした。現在の三津浜港(みつはまこう)ないし重信川(しげのぶがわ)河口付近らしい。

 額田王(ぬかたのおおきみ)は、「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮(しお)もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな」と詠んだ。

日本文明の成立
 遠景は屋島(屋嶋城がある。源平の古戦場でもある)。手前は高松港のダイヤモンド・プリンセスと直島行きフェリー。

日本文明の成立
 復元した屋嶋城(やしまのき)。

日本文明の成立
 屋嶋城にある説明板。663年白村江の戦いに敗れ、唐軍の侵攻を恐れ、対馬から瀬戸内海沿岸にかけて山城(やまじろ)や烽火台(のろしだい)を設け、都を近江(大津市)に移した。屋嶋城はその山城のひとつ。

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日本文明の成立
 香東川のコサギたち。




 諸説あるとは思いますが、尊敬する岡田英弘さんの『歴史とはなにか』(文春新書)から抜粋して引用します。

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日本文明の成立事情
 日本文明は、七世紀に中国文明から独立して生まれた
   国際危機が生んだ日本
  

 日本列島の住人の倭人は、紀元前一世紀にはじめて記録に姿をあらわし、韓半島にあった中国皇帝の直轄地と関係を結んでいた。それが紀元四世紀のはじめに中国の統一が崩壊して、中国軍が韓半島から撤退してしまったので、倭人たちはいやおうなしに、自分なりの政治組織を作る必要に迫られた。

 こうして大阪湾を中心とした、倭王の政権が誕生したが、この政権はまだ、日本列島全体に支配権が及ぶようなものではなかった。

 ところが七世紀になって、唐朝が中国を統一し、黄海を渡って軍隊を韓半島南部に上陸させ、倭王の古くからの同盟相手だった百済(ひゃくさい)王を滅ぼした。当時の倭のタカラ女王(皇極天皇、斉明天皇)は、倭軍を韓半島に派遣して百済の復興を試みたが、663年、倭軍は白村江(はくそんこう)で全滅した。これで倭人たちは、アジア大陸から追い出され、海のなかで孤立した。

 当時の情勢では、いまにも唐軍が日本列島に上陸して、そこの住民を征服し、中国領にする危険が差し迫っていた。日本列島に住んでいた倭人たちと、出自がいろいろ違う華僑たちが団結して、倭国王家のもとに集結した。

 こうしてそれまでの倭王は、外国に対しては「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしろしめすやまとのすめらみこと)」と名のり、律令(668年)や戸籍(670年)を整備し、天皇の宮廷に太政(だいじょう)大臣、左大臣、右大臣、御史大夫(ぎょしたいふ)の中央官職を置き、冠位・法度(はっと)を施行する(671年)ということになった。この「日本天皇」の出現が、ふつうに日本の建国と言われる事件である。

 「天皇」という字面(じづら)は、「皇帝」の同義語だから、倭王が日本天皇と名のるということは、中国皇帝と同格だと主張したということだ。

 中国の史料には「倭国」は670年を最後にして姿を消し、「日本国」は701年、はじめて唐に使いを遣わしている。だから、このころに日本の建国があったことは間違いない。

 私(岡田)は、668年に即位した天智天皇が、同年に制定した近江令(おうみりょう)で、日本天皇という称号を規定したと考えている。701年文武天皇の時代になって、ようやく唐に使者を派遣し、日本名を名乗ったのだ。


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【注意】

 ここで岡田先生は便宜的に「中国」という言葉を使っているが、現在の「中国」とは全く違うことに留意する必要がある。例えば、隋、唐は鮮卑族(トルコ系?)の王朝だし、元はモンゴル族、清は満州族と支配層は変わっていて、「万世一系」の日本とは相当異なる。

 
以上


プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子、足立康史、竜崎伸也ほか多数。

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