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老中・阿部正弘

幕末の一風景
 老中・阿部正弘

老中・阿部正弘
 週刊文春2019年10月31日号「出口治明の0(ゼロ)から学ぶ『日本史』講義」

 週刊文春は芸能人などのどうでもいいようなスキャンダルを騒ぎ過ぎるが、政治家、官僚、マスコミなどの不祥事を報じたりもするので目が離せない。「出口治明の0(ゼロ)から学ぶ『日本史』講義」は必ず目を通している。

老中・阿部正弘
 『安政維新 安倍正弘の生涯』 穂高健一さん (南々社) 1771円

 「出口治明の0(ゼロ)から学ぶ『日本史』講義」を読んだこともあり、阿部正弘に興味を持った。毎日新聞にこの本の広告が出ていたのでいつもの宮脇書店に注文。先日入手した。これから読むつもり。

 広島、福岡にいた時、東京における会議に新幹線で出張するとき福山駅で停車するが、駅のすぐ南側に福山城があり、いつかは福山城に行ってみたいと思っていたが、いまだに果たせていない。特に桜の季節がいいように思う。

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老中・阿部正弘
 本津川両岸はこの黄色いキク科の花が盛り。

老中・阿部正弘
 マックは「店内飲食可」となって10日ほど経つが、一般客の戻りは遅い。高校生はかなり戻っている。
 高校生に聞くと、クラスを2班に分けて、今日は2時限のみ授業があったとのこと。夏休みが半減することは覚悟しているという。






  週刊文春2019年10月31日号「出口治明の0(ゼロ)から学ぶ『日本史』講義」を抜粋・多少編集してご紹介します(強調は引用者)。


 運命の宰相 阿部正弘


 歴史上の天才が幕末の日本にも現れます。それが阿部正弘(あべ・まさひろ)でした。
 福山藩の阿部家は何人も老中を輩出した名門の譜代大名でした。1819年、阿部正弘は江戸で生まれ、17歳で家督を継いでいます。

 若くして将来を嘱望された阿部正弘は1840年、20歳で寺社奉行になりました。11代将軍徳川家斉(いえなり)以降、社会の風紀が乱れていました。


■大奥スキャンダルを裁いて出世

 そんななかで千葉県市川市にある中山法華経寺の日啓らが、大奥に出入りして、奥女中たちと密通するというスキャンダルが起きました。阿部正弘がその事件を取り仕切って、日啓を島流しにします。でも女性の方は、大奥に事件を波及させませんでした。

 大奥と12代将軍家慶(いえよし)は「えらい有能なやつや」と感心しました。そこで1843年、家慶は阿部正弘を23歳で老中に抜擢、続いて25歳で老中首座に据えました。

 就任してすぐに阿部正弘は海岸防禦御用掛(海防掛)を強化します。

 これは1792年にロシアのラクスマンが日本に来たときに老中松平定信が慌てて設置し、自ら就任した役職でした。臨時の役職でしたが、阿部正弘は幕府中枢メンバーの半分を入れて常設化します。この海防掛は諮問機関でしたが、1853年、ペリーの黒船艦隊が浦賀沖に現れた時に行政機関に衣替えし、若手をガンガン抜擢しはじめます。


■開国・富国・強兵

阿部正弘は、すでに前年ネーデルラント(オランダ)からの通報で、ペリーの来航を知っていました。

 アメリカ大統領親書の受理を決めた阿部正弘は、ペリー退去直後に将軍家慶が亡くなるとアクシデント(後継は息子の家定)に見舞われつつも、全大名と旗本、庶民にいたるまで対応策について広く意見を求めました

 700余りも「こうしたらいい」という意見が出て、収拾がつかなくなったほどですが、明治維新時の「万機公論に決すべし」をもうすでにやっているわけです。

 そして阿部正弘は肚を決めました。幕府は、産業革命後の欧米の商工業の発展とアヘン戦争の情報を十分に持っていました。産業革命と国民国家という人類史上最大級の二大イノベーションに乗り遅れた清が敗れた結果を見ると、日本には開国以外の選択肢はありません

 「交易互市の利益をもって富国強兵の基本と成す」、つまり開国して交易し、産業革命を行って国を富まし、兵隊も強くしなければあかんという「開国・富国・強兵」というグランドデザインを描いたのです。

 これが阿部正弘の一番の貢献だと思います。諸藩の大型船建造の禁令を解禁し、幕府もネーデルラントから蒸気軍艦7隻購入などを決めました。

 そして「安政の改革」と呼ばれる幕政改革を行います。江戸時代の改革は享保・寛政・天保の三大改革が人口に膾炙(かいしゃ)していますが、実は安政の改革のほうが、その後の日本への貢献度が大きいと思います。


■明治を準備した安政の改革

 安政の改革の一番のすごさは、川路聖謨(かわじ・としあきら)、井上清直、江川英龍(ひでたつ)、勝海舟、永井尚之(なおゆき)、高島秋帆(しゅうはん)といった、身分が低くても有能な人を次々と抜擢したことです。

 1851年には、鳥居耀蔵(ようぞう)によって政治の表舞台から外されていた遠山の金さん(景元)を南町奉行に復帰させ、水野忠邦が天保の改革でつぶした株仲間を再興しています。

 1954年には講武所を作ります。洋式砲術などを学ぶところで、これは陸軍のもとになりました。

 1855年に海軍の前身、長崎海軍伝習所を作ります。なぜ長崎かといえば、鎖国で海軍のことがわかる人間がいないので、ネーデルラントの軍人を講師に招いたのです。明治のお雇い外国人と同じことを、すでにこの時にやっているのです。

 1856年に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)を作ります。蘭学の研究所でしたが、まもなく洋学の中心はネーデルラントやないで、ということで、洋書調所と名前を変えます。これが後に開成所となり、東大に発展するわけです。

 まとめると、安政の改革では、身分を問わずに有能な人間を抜擢し、陸軍、海軍、東大の礎になるものを阿部正弘が用意したわけですね。

 また領国の福山藩では、それまで弘道館という学校で漢学を教えていたのですが、1855年に洋学を取り入れた誠之館(せいしかん)に改編します。

 誠之館のすごいところは、8歳から17歳の全藩士の子供に教育を受けさせことです。義務教育をはじめたわけです。しかも庶民の中からも優秀な人には入学を許しました。

 そして仕進法という試験を導入します。勉強しただけではあかんというので、試験で優秀な成績をとったら「十二石二人扶持(ふち)」の士分に取り立てます。

 「安政の改革」にみられる開国・富国・強兵という阿部正弘のグランドデザインを、大久保利通や伊藤博文がそのまま実行したのが明治維新だともいえるでしょう。

 ペリー来航時がクリミア戦争で列強の目がアジアから逸れているさなかで、しかも英傑がたまたま老中首座に就いていたのは、日本にとって、ものすごく幸運なことでした。


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(感想・意見など)

 阿部正弘は、安政4(1857)年に老中在位のまま(満年齢)37歳で死去した。
 もし阿部正弘の寿命があと15年あったなら、日本のかたちは今とはちがったものになった可能性が高い。


以上


幕末の一風景(再掲)


 幕末の一風景(2013年10月9日ブログ再掲)

幕末の一風景
 産経13年7月4日
幕末の一風景
 老中・阿部正弘
幕末の一風景
 トーマス・グラバー
幕末の一風景
 長崎・グラバー邸
幕末の一風景
(講談社学術文庫版)




 歴史は面白いが、特に幕末は汲めども尽きぬ面白さがある。産経新聞「次代への名言」欄、文化部編集委員・関厚夫さんのコラムから抜粋してご紹介します。


 ★13年6月25日掲載

 徳川幕府は「黒船来航」の1853年以降、日米和親条約を皮切りに、「安政五カ国条約」と呼ばれる通商条約を欧米各国と結んだ。新設の外国奉行として、一連の交渉にあたった永井尚之なおゆき)は往時をこう述懐している。

 「当時は、外国の事情を知る人も少なく、幕吏などはほとんど知らないぐらいだった。ゆえに条約の原案はわが方では作ることができず、みな先方が作り出したものだ。深くその利害を討究することも難しく、ただ差し出された原案の条項を削るのみ。予なども今日は批判を免れることはできないが、当時の情勢を考えると、よく出来たつもりである」

 永井は「出色」とされた幕閣なのだがそれがこの調子である。徳川幕府が倒れるもやむなし、の観がある。

 また永井によると、「当時の老中で自分の意見のある人は少ない。みな奥祐筆などに頼っていた。が、阿部正弘候だけは自分の意見を述べた。他の老中はそれを黙して聞くだけ。可否もなかった」

 14年にわたって幕府老中を努めた開明派の阿部は「収拾の偉才」と呼ばれた幕末動乱の原因の一つは、阿部が、朝幕間で無類の調整力の本領を発揮することなく、1857年、37歳で急死したことである。


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(感想・意見など)

 勝海舟の「氷川清話」を読むと、幕府の重臣(軍艦奉行)である勝が、初対面の薩摩藩の西郷隆盛に、幕府の腐敗しきった内情を暴露し、雄藩の手で政治を一新すべきだと説いた背景がよく分かる。世界情勢をよく知る勝にとっては、幕府より日本をなんとかしなければという気持ちが強かったと思われる。


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  ★13年7月3日及び4日掲載

 トーマス・グラバーは、英国スコットランド生まれ。1859年21歳で来日。彼が長崎に興したグラバー商会は、薩摩藩や長州藩を中心に、西南雄藩に艦船や武器などを調達し、長崎最大の貿易商となった。

 長崎・小菅修船場や肥前・高島炭坑の設立にも参画した。しかし、戊辰戦争後、軍事品に対する需要がしぼんだこと、高島炭坑の赤字などが積み重なり、明治3(1870)年破産

 しかし、愛する日本にとどまり続けた。三菱の顧問として国際化やキリンビールの前身の設立に尽力し、明治41年、勲二等旭日賞を授与され、3年後73歳で死去。ゆかりの深い長崎の国際墓地に葬られた(日本人の夫人との間で子をなし、子孫が現存していると思われる)。

 「私は金もうけ主義と世間では見られましたが、ただ単にそれだけではない。徳川政府に対する反逆者のなかでは、自分が最大の者だと思っていました」……彼はそう述懐している。


 グラバーは長崎最大の貿易商であると同時に、志士でもあった。危険を承知で〝お尋ね者〟の長州藩志士を自邸にかくまい、対幕府戦用の武器を用立てた。

 駐日英国公使、パークスと薩長両藩の首脳の会見実現に尽力した。その結果、パークスは幕府よりも薩長を「貴」とし、維新への道が定まることになる。

 グラバーは、西日本の雄藩・大藩のほとんどすべてを相手にした。維新後、彼は誇りをこめて述懐している。

 「幕末に長州、薩摩、肥後、肥前、宇和島の各藩とは何十万、何百万両の取引をしたが、賄賂は一銭も使わなかった。これは、賄賂をふところに入れるような武士は一、二の例外を除いて一人もおらず、みな高潔かつ清廉であったためで、賄賂をしたくともできなかった。このことはぜひ特筆大書して後世に伝えていただきたい


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(感想・意見など)

 再び勝海舟の「氷川清話」から

 「おれもこの財政の事では、これまで心配したの、しないの、といふ段ではない。幕府の末年は、まるで今の朝鮮さ。金はない、力は弱い、人心は離反して居る、その隙を見込んで外国の奴らが付け込んで来るといふ風で、なかにもオロシアは、前々から銭を貸そう貸そうといって、おれが局に立った時にも、箱館に居た公使が、実にうるさく言って来た

 「一時凌ぎに外国から金を借りるといふことは、たとへ死んでもやるまいと決心した。……もし一歩誤れば、何千万人といふものが、子々孫々までも大変なことになってしまふのだ。それでおれが局に立っている間は、手の届く限りはどこまでも借金政略を拒み通した」


 (近時も、「一帯一路」を睨んだ貸付とか、天然ガスのパイプラインによる供給とか、よく聞く話である。)ほとんどの国が、国を売る収賄、腐敗行為のためテイクオフ(離陸)できないでいる。先祖の清廉さ、高潔さに感謝のほかない


以上



戦国時代の合戦とは?

戦国時代の合戦とは?
 戦国時代合戦絵図

戦国時代の合戦とは?
 四国新聞2019年12月5日

 香川県立琴平高校では毎年12月に「剣道」と」「なぎなた」の異種武道大会が行われる。5人ずつによる団体戦。
 これまで通算6勝6敗の五分。

戦国時代の合戦とは?
 日経新聞2019年7月23日文化蘭

戦国時代の合戦とは?
 日本在来馬で最もスマートな御崎馬(宮崎県都井岬)。小さくほとんどポニー。

戦国時代の合戦とは?
 現代の流鏑馬(やぶさめ)。昔の馬は2回りほど小さかったと思われる。

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戦国時代の合戦とは?
 マックで見かけたホンダ・クロスカブCC50

 最近のマックの土・日は自習室状態。試験が近いからか?

戦国時代の合戦とは?
 ホンダ・スーパーカブC125

 欲しいが、40万円以上するし、免許がない。





 戦国時代の合戦とは?


 戦国時代の合戦の実際はどのようなものだったのだろう?

 武器は、槍、弓矢、鉄砲、石が主で、意外に刀の出番はあまりなかったらしい。また、も、NHK大河ドラマに見るような、サラブレッドのように大きな馬ではなかった。サラブレッドは、18世紀初頭に、イギリスでアラブ馬と英国在来種をかけ合わせて作り出した競走馬で体高は160-170cm、日本在来馬はせいぜい120-135cmでほぼポニー。

 実は、昔から「石」はあり得るだろうと思っていた。少し練習すれば誰(雑兵)でもこぶしの半分くらいの石を50m先の直径1.5mの的(つまりは敵兵や敵の馬)に当てるのはたやすく、当たり所によっては相当なダメージを与えられるからである。調達も容易で、腰か背中の袋に数十個は入る。使わない手はない。


 日経新聞2019年7月23日文化蘭に、日本甲冑合戦之会代表の横山 雅始(まさし)さんの文章が載っていた。抜粋してご紹介します。


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 甦る甲冑合戦 かく戦えり
 ◇戦国時代の武芸とは?真剣勝負で検証してみた◇


 戦国時代の合戦の実態を今に伝える史料は少ない。それなら、やって確かめればいいじゃないか。そう思い立ち、私は実際に甲冑(かっちゅう)を着けて当時の合戦を再現する「ガチ(本物の)甲冑合戦」を6年前に始めた。そこから様々なことが見えてきた。

 たとえば「槍はたたくもので、刀は突くもの」。戦国時代の槍は硬質の木材の芯に、そいだ竹を巻いた物だ。3.6~6mとかなり長い。しなりを利用してたたくと、突いたときの10倍以上の威力がある。

 私の本業は護身術や武術の指導。日本にはたくさんの武術流派が存在するが、多くは平和な江戸時代に発展したものだ。では戦国時代の武芸とはどのようなものだったのか?

 実際にやってみて検証するしかない。私は芸大出身で、舞台の小道具などは得意だ。鋼板や耐衝撃性プラスチックを調達し、様々な業者さんの協力を得て試行錯誤を重ね、プロトタイプを作製した。今は改良型の甲冑と武器が約120人分そろっている。

 1年以上かけて準備し、最初の合戦を2014年5月、大坂夏の陣の道明寺合戦を模して大阪・藤井寺市で行った。

 日本とフランスの門下生らを中心に100人余りで戦ってみて実感したが、とにかく甲冑が重い。現代の素材だから当時よりかなり軽量のはずが、機動力は普段の6割。

 武器の使い方も、現代の一般的なイメージとは異なることが分かった。しなる槍でたたき伏せた後、相手の懐に入り、短刀で甲冑の隙間を刺す、というのがよくある流れだ。時代劇とは違い、刀にはほとんど出番はない。刀や脇差は、天井の低い室内で、片手で使う武器だったのではないか。


 昨今の歴史ブームもあり、興味を持ってくれる人は増えている。自治体や企業から声がかかることも増えた。欧米からの参加者や見学者も多く、歴史の検証だけでなく、観光振興の価値があることも実感している。

 年に数回、各地で歴史上の戦いをテーマに合戦を開催している。

 私は3年前から、三重県伊勢市の歴史テーマパーク「伊勢忍者キングダム」の企画・運営にも関わっている。原寸大に再現した安土城の天守閣や砦などがある。ここで来場者に参加してもらい、戦術を考えて砦を攻める「戦国サバイバル」を秋に行う予定だ。


以上


70年前の隣国

70年前の隣国
 朝鮮半島の西側は平野のため、北から攻め込まれるとあっと言う間に釜山(プサン)まで追いつめられる。事実、朝鮮戦争ではそうなった(アメリカ軍を主力とする国連軍がソウル西の仁川(インチョン)に上陸し押し戻したが…)。
 
 日本はロシアに朝鮮半島を押さえられることを恐れて、1904年日露戦争を戦った。

70年前の隣国
 朝日新聞2019年7月25日 詩人の金 時鐘(キム・シジョン)さん。

70年前の隣国
 朝日新聞2019年7月26日

70年前の隣国
 韓国最大のタブーになっている補導連盟事件

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70年前の隣国
久しぶりに県立図書館に行ったら、アキニレはすっかり裸になっていて、鳥の巣が見えた。





  70年前の隣国


 朝鮮戦争は、1950年6月、北朝鮮が38度線を越えて韓国に侵略したことで始まった。3年間に及ぶ戦争で半島全土が戦場と化した。1953年7月に休戦した(現在も休戦中)が、韓国側約150万人、北朝鮮側約250万人、計400万人が死亡したと言われている。

 また、朝鮮戦争の最中に李承晩大統領は補導連盟員や南朝鮮労働党関係者を処刑するよう命令、韓国各地で虐殺が起き、その数100万人前後と言われている(「補導連盟事件」)。

 その少し前に済州島で起きた事件が「済州島四・三事件」。軍・警察によって島民の5人に1人が虐殺され、村々の7割が焼かれ、日本に何千人かが密入国した。


 朝日新聞2019年7月25・26日 詩人・金 時鐘(キム・シジョン)さんの記事を抜粋してご紹介します。
 (聞き手 論説委員・中野晃さん)

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  両親おいて脱出 今生の別れに


 済州島(チェジュド)の沖合の孤島を深夜離れて、夜が白み始めたころ五島列島(長崎県)の明かりが見えました。日本の領海に入って安堵したのもつかの間、闇船のエンジンが止まりました。豪雨で機関室まで水につかったのです。

 幸い船は日本の領海を漂流し、天運のように船のエンジンも動きだしました。もし韓国側に流されていたら、私が「在日」を生きることもなかったでしょう。

 《南朝鮮の単独選挙に反対する1948年の武装蜂起「済州島4・3事件」に参加。官憲の虐殺を逃れ、49年初夏に島を脱出する》

 親や親類、友人や知人の助けをかりながら身を潜めていましたが、明日をも知れない自分の命におびえ通しの私でした。

 父はあらんかぎりの手を尽くして済州島から私を逃がすことに懸命でした。サーチライトが交錯する中、私は、調達された小さな漁船で済州島を離れ、日本に向かう闇船が来るという沖合の小さな岩礁の無人の島を目指しました。

 夜闇にまぎれて小船に乗り込むとき、「たとえ死んでも、わしの目の届くところでだけは死んでくれるな。お母さんも同じ思いだ」と言って父は顔をそむけました。それが今生の別れでした。


 李承晩の反共独裁政権が続いた韓国で「赤色逃亡者」を息子にもった両親の暮らしが、いかほど過酷なものであったかは想像するに余りあります。再会を果たせぬまま、父は57年、母はその3年後に亡くなりました。年老いた父母をすて、「4・3」から逃げを打った私は日本で生きながらえているのです。私の「在日」は罪深い日々の重なりでもあります。


 《二十歳のとき、虐殺が続く韓国の済州島から海を渡り、大阪の「猪飼野(いかいの)」で暮らし始める》

 猪飼野(大阪市生野区、東成区)は、本国でさえ廃れてしまった生活習慣が民族遺産のように受け継がれていました。在日同胞の集落地であり、その源流のようなところです。

 1949年6月、猪飼野にたどり着いた私は、ろうそくを作る小さな工場の住み込み工員になりました。間もなく工場の廃業で引っ越し「鶏舎長屋(タクトナリ)」と呼ばれる、共同便所近くの板間ひと間の家の同居人になったりもしました。

 生活は困窮を極めましたが、済州島のように生命の危機に追われることがないのは幸いでした。

 ただ、両親をおいて逃げを打ったという後ろめたさが日増しに募り、民族団体の活動家になり、閉鎖されていた朝鮮小学校の再建にも打ち込みました。

 猪飼野かいわいで10年余り暮らしましたが、済州島と縁のある人が多く暮らしていることもあって、故郷で見かけた人ともよく出会ったものです。


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(感想・意見など)

 70年前の出来事ではあるが、日本以外の東アジアのどの国・地域(中国、香港、台湾、北朝鮮、韓国)で明日起こるやもしれないことである。現に今現在、中東、ユーラシア各地、アフリカ、中南米など世界各地で起こっていることである。


以上


日米構造協議の一断面

日米構造協議の一断面
 日経新聞2019年6月20日「私の履歴書」は7代の首相に仕えた元内閣官房副長官・石原信雄さん。

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日米構造協議の一断面
 週刊東洋経済2019年12月14日号

 日立に限らないが、企業は猛烈な勢いで変わろうとしている。そうしないと生き残れない。
 昔のように、大企業に就職したからといって安心していられる時代ではなくなった。65歳~70歳まで働くとすると、40年から50年間働くことになる。その間所属企業が安泰である可能性はまずほとんどない。

日米構造協議の一断面
 朝日新聞2019年12月19日

 世界は急速に変化し続けている

 日立は、日立化成を昭和電工に売却医療用画像診断機器事業を富士フイルムに売却

 いすゞ自動車は、スウェーデンのボルボと提携、UDトラックスを買収する。

 フィアット・クライスラー(FCA)とPSA(フジョー、シトロエン)グループは21年春合併する。世界第4位のグループができる。

 日本の自動車メーカーは、日産、三菱はルノーグループに、ホンダは今のところ独立独歩、それ以外はほとんどすべてトヨタグループに。変化、変化、変化、変化……

日米構造協議の一断面
 四国新聞2019年12月19日
日米構造協議の一断面
 四国新聞2019年12月19日

 造船では、中韓とのし烈な競争のため、今治造船とJMUが資本提携三菱重工業は長崎造船所香焼工場を大島造船所に売却中国は政府の強力な後押しで1位と2位が合併、韓国も金融機関が後押ししてさらに強大になろうとしている。

日米構造協議の一断面
 日経新聞2019年12月19日

 日立は、火力発電事業から撤退する。三菱日立パワーシステムズ(MHPS)の全株式を三菱重工に譲渡する。

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日米構造協議の一断面
 香東川東岸
日米構造協議の一断面
 こういう道を走るのが好き。
日米構造協議の一断面
 おかげでクルマの左側はスリ傷だらけ。





 日米構造協議の一断面


 1945年、日本は太平洋戦争でアメリカに敗れたGHQ最高司令官のマッカーサーは、「日本は四等国に転落した。再び世界の強国に復活することは不可能である」と述べ、日本弱体化政策をとった。

 しかし、先人の並々ならぬ努力で、日本経済は、それから10年余で日米貿易繊維製品が問題になるまでになった。1970年ごろからは鉄鋼、カラーテレビ、半導体が問題に。

 1985年のプラザ合意以降、1ドル=240円→200円→120円と、日本は急激な円高に苦しんだ。

 1989年ごろになると、アメリカは個々の製品だけではなく、日本の構造にこそ問題があるとみなし、日米構造協議が始まった。日本は構造に問題があるので国内消費、公共投資を増やすべきだ、日本人の働き方にも問題がある、等々とのアメリカからの強い要求があり、無理を重ね、その後のバブル経済の生成→崩壊→不良債権の増加と、今に至る問題を発生させた。

 わたしは、カラーテレビ、半導体のころから興味を持ってきた。しかし、当時の様子が今一つよく分からなかった。


 2019年6月の日経新聞「「私の履歴書」は元内閣官房副長官の石原信雄さん。

 当時は政権がコロコロ変わっていたので、それを補うべく官僚のトップとして請われ、7代の首相に仕えてきた。墓の中まで持っていく話も多いのだろうが、ある程度当時の雰囲気が分かる。相当強いプレッシャーがかけられていた。

 2019年6月20日の日経新聞「私の履歴書」を抜粋してご紹介します(強調は引用者)。


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  日米構造協議

 大統領から連日の催促
 党高政低での外交 難しさ


 宇野内閣の退陣を受けて、1989年(平成元年)8月10日、海部内閣が発足した。

 まず直面したのが米国の通商問題での厳しい姿勢だ。ブッシュ大統領は「日米間の貿易不均衡は牛肉・オレンジなど個別の交渉ではらちが明かない、日本経済の構造そのものが問題だ」として日米構造協議を急ぐよう求めていた

 9月1日、日米首脳会談に臨んだ海部俊樹総理大臣は、大統領が「日米構造協議を早く進めよう。90年春に成果を出したい」と迫ってきたのに驚いた。

 米側は①流通制度②貯蓄・投資バランス③系列取引―など6項目の見直しを求めていたが、大統領の思い入れは想像以上だった。

 流通制度の焦点は、大型店の出店を規制する大規模小売店舗法(大店法)の廃止だ。米トイザラスが新潟に出店しようとしていたが、大店法に基づく地元との出店調整が壁になっていた。大店法は中小事業者を代弁する自民党の商工族議員が主導してきた法律で一筋縄ではいかない。

 貯蓄・投資バランスは、貯蓄に比べて投資が少ないのが問題だとして、公共投資を国民総生産(GNP)の10%に引き上げるよう求めてきた。

 系列取引は本来、商慣行の問題で政府が関知するものではないというのが日本側の立場だが、米国は「非関税障壁だ」と主張していた。

 いずれも各業界につながる自民党の族議員や所管する各省が絡む問題である。族議員や各省の反応は「1年で解決できるはずがない」「そもそも内政干渉だ」と冷ややかだった。しかし、ブッシュ大統領からは海部総理に頻繁に電話が入る。危機感を強める官邸と、各省や族議員との温度差が広がっていた。

 竹下派が主導して発足した海部内閣は明らかな「党高政低」の権力構造だ。自民党を仕切るのは47歳で就任した竹下派の小沢一郎幹事長。アマコスト駐日大使は官邸には寄らずに「小沢詣で」を繰り返し、幹事長は日米構造協議への米側の強い意志を感じていた

 私は旧知の幹事長の下にしばしば通い、族議員は幹事長、各省は私がそれぞれ説得にあたることにした。90年2月、加藤六月政調会長、西岡武夫総務会長が就任して党側は一段と強力な布陣になった。

 大店法に関して当初、箸にも棒にもかからないといった風だった自民党商工部会は幹事長の説得で軟化し、規制の緩和を容認した。私は通産次官を呼んで協力を要請した。

 最後までもめたのは公共投資だ。GNPの10%という枠をはめるのは予算編成に支障をきたすと大蔵省が猛反対した。ブレイディ米財務長官はGNP比にこだわったが、橋本龍太郎大蔵大臣が粘って比率での目標設定を回避。10年間に総額430兆円の公共投資をすることで合意し、日米構造協議は6月に決着した。

 海部総理は連日の「ブッシュホン」に悩まされた時代はベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終結した時期である。党高政低の権力構造で激変する国際情勢に対処する難しさを感じ始めていた。


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(感想・意見など)

 USTR(アメリカ通商代表部)がガンガン言ってきているのは知っていた。しかし、アメリカ大統領までもが日本国首相に直接頻繁に圧力をかけてきていたというのは初めて知った

 自由、人権、民主主義、市場経済、法の支配といった価値観が同じ国同士であってもこれだけ長い間もめ続けてきた。

 日本の新聞は、日経新聞を除いてほとんど問題にしなかったが、2018年10月のペンス米副大統領の中国非難演説を聞いたとき、これから長い米中摩擦が起きると瞬時に悟った。

 アメリカはやわな国ではない


以上


プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子、足立康史、竜崎伸也ほか多数。

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