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日本文明の成立②


 日本文明の成立②

日本文明の成立
 産経新聞2019年6月12日「万葉賛歌」

 わたしはサラリーマン生活の約半分を松山で過ごした。しばしば「熟田津(にきたつ)」という言葉を聞いたがピンとこなかった。この記事を読んでハッキリした。現在の三津浜港(みつはまこう)ないし重信川(しげのぶがわ)河口付近らしい。

 額田王(ぬかたのおおきみ)は、「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮(しお)もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな」と詠んだ(熟田津で船に乗り込もうと月の出を待っていると、潮も、船出にちょうどよくなってきた。さあ、今こそ漕ぎ出そう)

日本文明の成立
 遠景は屋島(屋嶋城がある。源平の古戦場でもある)。手前は高松港のダイヤモンド・プリンセスと直島行きフェリー。

日本文明の成立
 復元した屋嶋城(やしまのき)。

日本文明の成立
 屋嶋城にある説明板。663年白村江の戦いに敗れ、唐軍の侵攻を恐れ、対馬から瀬戸内海沿岸にかけて山城(やまじろ)や烽火台(のろしだい)を設け、都を近江(大津市)に移した。屋嶋城はその山城のひとつ。

日本文明の成立②
 復元された遣唐使船

 律宗布教のため日本をめざした鑑真は、6度目にやっと渡日できた。その苦労のため失明した。阿倍仲麻呂は、帰国途中暴風雨にあってベトナムに漂着、唐の都長安に骨を埋めることになった。航海は、死亡率3割といわれるほど危険なものであった。

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日本文明の成立②
いつものマックは、日曜日と期末テスト直前のためか、家族づれと生徒でいっぱい。

日本文明の成立②
 高松中央図書館も生徒の自転車があふれている。ケヤキ並木も落ち葉が散りだした。





 産経新聞2019年6月12日「万葉賛歌」を抜粋してご紹介します。

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 緊迫「白村江」前夜

 大敗戦からの国づくり


 「万葉集」には古代国家への産みの苦しみに関連した歌がいくつかある。中でも最大の苦難は、第38代天智天皇の2(663)年、朝鮮半島西南部の白村江(はくすきのえ)で唐・新羅連合軍と対決しての大敗戦だろう。

 ここへ至ったのには、4世紀以降の長い歴史がある。日本(倭国)は国内で産しない「鉄」や最新の文化を求めて朝鮮半島に渡り、国々の抗争に巻き込まれていった。百済は西暦660年、唐・新羅連合軍に攻められ、都が陥落する。

 時の斉明(さいめい)天皇と嫡男、中大兄皇子(天智天皇)は長年の友誼を重んじ、百済を支援するため3万近い軍勢を派遣する決意を固めた。さらに女帝は68歳の高齢をおして、前線基地の九州に赴いた。

 別掲の歌はこの遠征の途中、滞在先の石湯行宮(いしゆのかりみや:道後温泉付近)を出発するおりに、額田王(ぬかたのおおきみ)によって歌われた名歌である。熟田津(にきたつ)の場所については諸説あるが、瀬戸内海に面した港湾だったのだろう。

 昼間ではなく、なぜ暗い夜に船出したのか。古代史家、直木孝次郎さんの論文「夜の船出」によると、瀬戸内海特有の陸風(海に向かう風)が吹き始める夜を待って出航したというのだ。

          ■          ■

 何より疑いないのは、この出航が緊迫感にあふれていたことである。石湯行宮での滞在自体、約2カ月にも及んでおり、軍勢の確保にも難航していたのだろう。歌には、ともすれば不安に駆られがちな兵士らを鼓舞し、奮い立たせる意味あいが込められていた。

 にもかかわらず、九州に着いた斉明女帝は間もなく体調を崩し、7月には崩御してしまう。中大兄皇子は即位式も挙げないまま指揮を執ったが、2年後の決戦では惨敗してしまう。

 「唐軍は勢いに任せて侵攻してくるかも…」。中大兄らは恐れ、亡命してきた百済人技術者らの指導で、対馬から瀬戸内海沿岸にかけて山城や烽火台を設けた。さらには、都を近江(大津市)に移している。

 亡国の危機を脱したのは偶然でしかなかった。朝鮮半島で新羅が唐を追い出す戦争を始めたからである。

 しかし天智天皇は敗戦を重くとらえ、唐にならった中央集権の国づくりに邁進した。そして彼の死後、志は同母弟である天武天皇やその皇后だった持統天皇に受け継がれる。  (客員論説委員 渡部裕明さん)

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(その後)

 663年の白村江の戦いのあと、遣唐使は、ほとぼりが冷めるまで休止していた。701年文武天皇の時代に再開した。

 遣唐使の目的は、唐の進んだ文化や政治制度、仏教を日本に持ち帰って活かすこと。

 しかし、755~763年の「安史の乱」により唐は急速に衰退。危険な航海も懸念。894年、菅原道真(すがわらのみちざね)の建議により廃止された(「遣唐使、白紙(894)に戻した道真公」とおぼえた)。
 その後、「国風文化」が栄えるよになった。


以上


日本文明の成立①

16世紀のヨーロッパ
 大変な名著!
日本文明の成立
 同上、関連部分。
日本文明の成立
 産経新聞2019年6月12日「万葉賛歌」

 わたしはサラリーマン生活の約半分を松山で過ごした。しばしば「熟田津(にきたつ)」という言葉を聞いたがピンとこなかった。この記事を読んでハッキリした。現在の三津浜港(みつはまこう)ないし重信川(しげのぶがわ)河口付近らしい。

 額田王(ぬかたのおおきみ)は、「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮(しお)もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな」と詠んだ。

日本文明の成立
 遠景は屋島(屋嶋城がある。源平の古戦場でもある)。手前は高松港のダイヤモンド・プリンセスと直島行きフェリー。

日本文明の成立
 復元した屋嶋城(やしまのき)。

日本文明の成立
 屋嶋城にある説明板。663年白村江の戦いに敗れ、唐軍の侵攻を恐れ、対馬から瀬戸内海沿岸にかけて山城(やまじろ)や烽火台(のろしだい)を設け、都を近江(大津市)に移した。屋嶋城はその山城のひとつ。

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日本文明の成立
 香東川のコサギたち。




 諸説あるとは思いますが、尊敬する岡田英弘さんの『歴史とはなにか』(文春新書)から抜粋して引用します。

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日本文明の成立事情
 日本文明は、七世紀に中国文明から独立して生まれた
   国際危機が生んだ日本
  

 日本列島の住人の倭人は、紀元前一世紀にはじめて記録に姿をあらわし、韓半島にあった中国皇帝の直轄地と関係を結んでいた。それが紀元四世紀のはじめに中国の統一が崩壊して、中国軍が韓半島から撤退してしまったので、倭人たちはいやおうなしに、自分なりの政治組織を作る必要に迫られた。

 こうして大阪湾を中心とした、倭王の政権が誕生したが、この政権はまだ、日本列島全体に支配権が及ぶようなものではなかった。

 ところが七世紀になって、唐朝が中国を統一し、黄海を渡って軍隊を韓半島南部に上陸させ、倭王の古くからの同盟相手だった百済(ひゃくさい)王を滅ぼした。当時の倭のタカラ女王(皇極天皇、斉明天皇)は、倭軍を韓半島に派遣して百済の復興を試みたが、663年、倭軍は白村江(はくそんこう)で全滅した。これで倭人たちは、アジア大陸から追い出され、海のなかで孤立した。

 当時の情勢では、いまにも唐軍が日本列島に上陸して、そこの住民を征服し、中国領にする危険が差し迫っていた。日本列島に住んでいた倭人たちと、出自がいろいろ違う華僑たちが団結して、倭国王家のもとに集結した。

 こうしてそれまでの倭王は、外国に対しては「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしろしめすやまとのすめらみこと)」と名のり、律令(668年)や戸籍(670年)を整備し、天皇の宮廷に太政(だいじょう)大臣、左大臣、右大臣、御史大夫(ぎょしたいふ)の中央官職を置き、冠位・法度(はっと)を施行する(671年)ということになった。この「日本天皇」の出現が、ふつうに日本の建国と言われる事件である。

 「天皇」という字面(じづら)は、「皇帝」の同義語だから、倭王が日本天皇と名のるということは、中国皇帝と同格だと主張したということだ。

 中国の史料には「倭国」は670年を最後にして姿を消し、「日本国」は701年、はじめて唐に使いを遣わしている。だから、このころに日本の建国があったことは間違いない。

 私(岡田)は、668年に即位した天智天皇が、同年に制定した近江令(おうみりょう)で、日本天皇という称号を規定したと考えている。701年文武天皇の時代になって、ようやく唐に使者を派遣し、日本名を名乗ったのだ。


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【注意】

 ここで岡田先生は便宜的に「中国」という言葉を使っているが、現在の「中国」とは全く違うことに留意する必要がある。例えば、隋、唐は鮮卑族(トルコ系?)の王朝だし、元はモンゴル族、清は満州族と支配層は変わっていて、「万世一系」の日本とは相当異なる。

 
以上


16世紀のヨーロッパ


  16世紀のヨーロッパ

16世紀のヨーロッパ
 憲政史研究家・倉山満さん。(ちなみに香川県出身)

 わたしはほとんどの本を持っている。

16世紀のヨーロッパ
 『ウエストファリア体制』 (PHP新書)

 最新刊 まだ購入していない。近日中に購入予定。「ウエストファリア体制」を理解することなく近現代のヨーロッパを語ることはできない

16世紀のヨーロッパ
 岡田英弘・宮脇淳子ご夫妻。岡田英弘さんは昨年亡くなられた。わたしは大ファン。

16世紀のヨーロッパ
 『歴史とはなにか』 (文春新書) 大変な名著、目からウロコぼろぼろ。
 われわれは、嘘ばかりの世界史を教わった!

16世紀のヨーロッパ
 『岡田英弘著作集』を読むのが老後の楽しみのひとつ。

16世紀のヨーロッパ
 宮脇淳子さんは、岡田英弘さんの弟子でもある。倉山満さんとの共著もある。

16世紀のヨーロッパ
 毎日新聞2019年10月28日「風知草」 特別編集委員・山田孝男さん。

 「王岐山に聞いてみたい」

 「王岐山(おうきざん)中国国家副主席。元は歴史学者。独創的な歴史解釈を示した異端、孤高の学者、岡田英弘(一昨年死去)を評価するという」「岡田はモンゴル史を重視し、中国共産党の公式史観とは全く異なる史観を著した。その岡田に共鳴するというから、懐が深い」。

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16世紀のヨーロッパ
 わが家の棒樫。時間が取れないので9月末に剪定してもらった。少し早すぎたか?
 それがこのところの小春日和で、新緑が出てきた。まさかこの季節に!!
 これが枯れ葉となってまた落ち葉掃除かよ~!

16世紀のヨーロッパ
 近所のおばあさんの孫が喜ぶということで、ドングリを見つけたら郵便受けの下に置いておくという約束ができている。
 1日後になくなっていた。






 世界史は好きであったが、16世紀ヨーロッパに〝国〟という概念はなかったとか、ハプスブルグ家とか、ローマ教皇とか、神聖ローマ帝国…だとか言われても、全く概念がつかめなかった。特に、日本人は宗教に疎い。

 ネットサーフィンをしていて、WEB VOICEの倉山満さんのブログを見つけた。ヨーロッパ理解に役立つ。転載いたします。


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「人殺しが日常」だった16世紀ヨーロッパ…権力者は何を奪い合っていたのか?
2019年11月18日 公開 WEB VOICE 倉山満(憲政史研究家)


憲政史研究家の倉山満氏は、今こそ日本は16世紀オランダの法学者、フーゴー・グロティウスの思想に学ぶべきと提唱する。

教皇、皇帝、国王、貴族という一握りの特権階級が支配者だった時代のヨーロッパは「人殺し」に明け暮れており、「戦争」とは異なる、単なる殺し合いの日々を続けていた、と倉山氏は自著『ウェストファリア体制』にて語っている。

そんな状況において「戦争にも掟(ルール)がある」という英知を著す信じ難い学者がグロティウスだったのだ。彼の思想はのちにウェストファリア体制として実り、国際法の原型となる。

そんなグロティウスが生まれた時代の「殺し合いが日常」だったヨーロッパの情勢について触れた一節を倉山氏の著書より紹介する。

※本稿は倉山満著『ウェストファリア体制 天才グロティウスに学ぶ「人殺し」と平和の法 』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです



「殺し合い」の合間にあった束の間の平和
フーゴー・グロティウスは1583年生まれ、約440年前の人です。

この年、日本では賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いが行われました。羽柴秀吉が柴田勝家を破り、織田信長の後継者の地位を確固としました。長く続いた戦国時代が、終わりを告げようとしている頃です。

日本の戦国時代は、割と平和です。平和が日常で、合戦は非日常です。今の国際社会で紛争が絶えませんが、日本や欧米は何十年も戦火に巻き込まれていません。日本の戦国時代も同じようなもので、慢性的に戦いが続いている地域はあるけれども、全体的には平和が日常なのです。

一方、ヨーロッパでは慢性的な戦争が続いていました。グロティウスが生まれた頃のヨーロッパは、戦争が日常です。裏を返せば、平和が非日常です。より正確に言えば、「戦争」なんて立派なものではなく、ただの殺し合いです。殺し合いの合間に、束の間の平和があるのです。

西ヨーロッパは1945年を最後に、戦火に巻き込まれたことはありません。この地域で平和が続いた、史上最長記録を更新中です。欧米の国々は、自分たちの国の外で毎年のように戦いを繰り広げていますが、自分の国は安泰です。ヨーロッパの歴史を見ても、戦乱か圧制が日常なのです。

しかし、この数百年かけて「平和が日常」の地域になりました。その起源をたどれば、グロティウスに行きつきます。


スペインのハプスブルク家の所領地に生まれたグロティウス
グロティウスはネーデルラントのホラント州デルフトに生まれました。つまりは、オランダです。しかしその当時、まだオランダという国はありません。

本当はネーデルラントと呼ばなければいけないのでしょうが、混乱すると困るので、本稿ではオランダで通します。

オランダは、しばしば「ベネルクス(Benelux)」で一括りにされます。ベルギー(Kingdom of Belgium)、オランダ(Kingdom of the Netherlands)、ルクセンブルク(Grand Duchy of Luxembourg)です。

現在のベネルクス三国の領域に加え、フランス北東部のはずれの地域を含む所は、「ネーデルランデン」と呼ばれていました。オランダ語で「低地地方」を意味する語の複数形です。

ネーデルランデンはドイツ地方にありながら、スペイン・ハプスブルク家の所領でした。

ネーデルランデンの北部が独立をめざし、単数形で「ネーデルラント」を名乗ります。ネーデルラントは1588年に事実上独立し、1648年、ウェストファリア条約が締結されたときに正式に独立します。

オランダ連邦共和国です。ちなみに、ネーデルランデンの南部はスペイン・ハプスブルク家の領地として残ります。一旦、1815年にオランダに併合され、ベルギーとして独立するのは1831年です。


"国"という概念はなかったヨーロッパ
グロティウスが生まれた頃、オランダはスペイン・ハプスブルク家に対し独立戦争を挑んでいました。

ただ、この時代のヨーロッパには、現在と同じような意味での"国"という概念がありません。教皇、皇帝、国王、貴族という一握りの特権階級だけが支配者で、それぞれがモザイク状に所領を持っているだけでした。

特権階級は宗教貴族と世俗貴族の二つに大きく分けられます。宗教貴族の最大権威がローマ教皇です。片や、世俗貴族の最大勢力はハプスブルク家です。

ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝とスペイン国王を輩出していました。本家のオーストリア・ハプスブルク家が皇帝を世襲していましたが、羽振りは分家のスペイン・ハプスブルク家の方が良かったのです。

スペイン・ハプスブルク家は新大陸に植民地を持ち「日の沈まない国」と称され、莫大な富を得ていました。さらに、ポルトガルを併合し同君連合を組み、イベリア半島全体を支配していました。

ヨーロッパの中心のドイツ地方を本家が、西の端のイベリア半島を分家が支配する様子は「双頭の鷲」に例えられます。ややこしいのは、本家のすぐ傍のオランダは分家の持ち物、というように、領地が飛び地だらけなことです。

分家の方はイベリア半島をがっちり抑えた上で、低地地方や新大陸を領有しています。それに対して、本家は皇帝とは名ばかり。ドイツ地方に、「三百諸侯」と言われる貴族がひしめき合っていました。

同時代の日本で、室町将軍家は存在するものの、全国に大小三百くらいの大名がひしめき合っているのと似ています。

戦国時代の日本を訪れた宣教師は、天皇をローマ教皇に、将軍を神聖ローマ皇帝に例えていました。似て非なる存在です。

足利将軍家の正式滅亡は、1858年です(通説は1573年ですが、最後の将軍の足利義昭が幕府再興をあきらめて引退するのは、この年です)。ただ足利将軍家は、最後の90年はマトモな軍事力を持っていませんでしたから、周りの実力者に振り回され続けました。

それに対しハプスブルク皇帝家は、ヨーロッパ最大の軍事力を持っています。言わば、皇帝自身が実力者なので、末期足利将軍のような哀れな存在とは違います。他の諸侯と対等以上に戦っています。

また、日本の天皇は自らが政治の渦中でプレーヤーとなることはありませんが、ローマ教皇は違います。独自の所領と軍隊を持ち、独自の発言権があります。それどころか、常に政争の中心に位置します。


宗教が殺し合いを日常にする
ヨーロッパで戦争が日常なのは、宗教問題で争っているからです。これにが絡みますから、常に命がけの殺し合いになるのです。

1517年、マルチン・ルターが宗教改革をはじめ、ローマ教皇に喧嘩を売ります。そしてルターと支持者たちは、カトリックに対しプロテスタント(抗議する者)を名乗ります。

世の中、最初から敵だった相手よりも裏切り者の方が憎いのが人情です。両者は、比喩ではなく血で血を洗う抗争を繰り返すこととなります。

カトリックの信仰を維持した地域は、西から今の国名で、スペイン、ポルトガル、フランス、ベルギー、ルクセンブルク、イタリア、ドイツ南部、オーストリア、ポーランド、エストニアです。

プロテスタントが主流の国となったのは、東から今の国名で、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、スロバキア、チェコ、ドイツ北部、スイス、オランダです。

ちなみにバルカン以東はギリシャ正教が多数派ですが、この時代は異教徒であるイスラム教のオスマン=トルコ帝国に支配されていました。

正教、旧教(カトリック)、新教(プロテスタント)が、今ではキリスト教三大宗派です。この中で仲が悪いのがカトリックとプロテスタントです。

バチカン(ローマ教皇)はプロテスタントの存在を許さず、徹底的に弾圧します。バチカン千年の歴史では、逆らった者は皆殺しにするまで戦うのが常です。

イスラム教相手の十字軍は連戦連敗で、最後は叩きのめされて終わりましたが、弱い相手には徹底します。たとえば、バチカンの教えに疑いを抱いたカタリ派などは、彼らの拠点の南仏のアルビジョアに十字軍を差し向け、本当に皆殺しにしました。プロテスタントも皆殺しにされては堪らないので、徹底抗戦するわけです。

プロテスタントのオランダが、カトリックのハプスブルクに対して独立運動を仕掛けた理由は二つです。

一つはもちろん、宗教問題。もう一つはです。オランダは経済力をつけたので、もうハプスブルクの支配を受けたくない、つまり自分で儲けた金を巻き上げられたくない、と戦いを挑んだのです。

1568年、オランダがスペインに仕掛けた独立運動は、のちに「八十年戦争」と呼ばれるようになります。最初から「80年戦うぞ」と始めたわけでもなければ、毎日連続して休みなく80年間戦っていたわけでもありません。結果として、オランダがスペインから正式に独立するまで80年間かかったので、名付けられました。

1588年にオランダ連邦共和国が成立し、事実上は独立しても、スペイン・ハプスブルク家は独立を認めません。オランダの独立運動が終わらないうちに、1618年に三十年戦争に突入してしまいます。

そして、1648年、ウェストファリア条約でオランダの独立戦争も終わりにしようとなった時、ちょうど80年が経過していたので、「八十年戦争」と呼ばれたのです。

グロティウスが生まれた時代のヨーロッパは、日本の戦国時代など平和としか思えないような、殺し合いが日常の世界だったのです。


以上



朝日新聞はゾルゲ事件を徹底検証し自己批判すべし

朝日新聞はゾルゲ事件を徹底検証し自己批判すべし
 ソ連のスパイ。リヒャルト・ゾルゲ尾崎秀実(ほつみ)

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朝日新聞はゾルゲ事件を徹底検証し自己批判すべし
 紫雲山ハイキングコース
朝日新聞はゾルゲ事件を徹底検証し自己批判すべし
 こういう道が大好き。
朝日新聞はゾルゲ事件を徹底検証し自己批判すべし
 この山の上にはいっぱい古墳がある。




 2019年10月24日のブログ「北朝鮮の一断面」に朝日新聞記者でソ連のスパイだった尾崎秀実(ほつみ)の名前を出した。尾崎は、日本を南進政策に誘導し米英との対立に導き、戦争の混乱の中で革命を成就する「敗戦革命」を目指していたと言われる。

 岸信介(のぶすけ)は、「支邦事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀実であった」と述べている。


 実のところ、いまだにこのあたりのことはよく分かっていないようであるが、わたしも知りたいと思っている。
 もし、あのとき南進政策でなく、北進してソ連の脇腹を日本が突いていたら、西からドイツ、東から日本と挟み撃つことになり、世界史は大きく変わった可能性が高いと思われる。

 そのような問題意識をもっていたところ、八幡 和郎氏(やわた・かずお:徳島文理大学教授、評論家)のブログを見つけた。転載します(強調は引用者)。


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朝日新聞はゾルゲ事件を徹底検証し自己批判すべし
2019年11月08日 17:00 八幡 和郎


 昨夜のロシアのテレビ・ニュースで、ウラジオストックでゾルゲの銅像の除幕式が行われたことを準トップニュースとして大々的に報じていた。ゾルゲは1941年10月に逮捕され、1944年のロシア革命記念日である11月7日に刑死したので、それを顕彰するものであった。

 報道では「日本はロシアを攻撃しないという電報をモスクワに送り、第二次世界大戦の勝利に貢献した」と功績を伝えていた。こうしたニュースは日本のマスコミも大々的に報じるべきだが、テレビも新聞もどこも報じてないのではないか。

 さらに「ゾルゲはスパイと言うだけでなく偉大な学者であり日本分析家だった。近衛(文麿)首相側近で朝日新聞記者の尾崎秀実と協力して情報を伝えるだけでなく、日本の作戦を南進に向けるために成功した」と正しい指摘も。来年には東京にある墓の土をモスクワに送る計画があるそうだ。

 ロシアのテレビ・ニュースでは、別の機会にも「あの情報がなければ極東軍団を西部戦線に投入できず、モスクワは防衛できたかどうか分からない」と伝えていた。


 もしゾルゲがいなかったら、太平洋戦争が起きたかどうか分からないほど大事なことだ。私はコミンテルン陰謀論的なものをすべて肯定するつもりはないが、ゾルゲ事件のようにロシアもその重大性を認めていることを日本国民に対して隠すというのはどういうことか。

 日本の教科書にも載せるべきことだし、あらためて真相と関与した人物の洗い出しをするべきだ。

 とくに、朝日新聞は率先して真相究明すべきだ。そして、国民に対して謝罪広告くらい出すべきだ。


以上


李登輝 秘録

李登輝 秘録
 李登輝(り・とうき)・元中華民国総統

李登輝 秘録
 産経新聞2019年4月30日
 写真:台湾先住民の男と肩を組む後藤新平
 (この時代の台湾には首狩り族もいた)

李登輝 秘録
 週刊エコノミスト2019年10月8日号


李登輝 秘録
 朝日新聞2019年10月3日

 私は大学は関西(京都)であった。関西は実にヤヤコシイところ同和、在日、ヤクザ、左翼など。京都・奈良はこれに寺社が加わる。それを取り締まる警察なども、しょっちゅう不祥事を起こしている。何か新しい制度ができて、それをかいくぐるやり方を始めるのはたいてい関西。中国人の言う「上に政策あれば、下に対策あり」みたい。

 そういえば、私の父(3度応召)も、中国兵は不利と思えばすぐ逃げると言っていた。「またも負けたか八連隊(大阪)」という俚諺(りげん)があったなぁ。

 今回の関西電力の件にしても、新聞・テレビを見ていても、関電の幹部がどうしてこういうことをしたのか、どうもしっくりこない。ネットで、高浜町元助役の森山栄治氏(故人)が同和のドン(部落解放同盟?)であったと書かれているのを見て、「やっぱり」とある程度納得した問題は根深く、関電を叩いただけでは解決しないと思われる。

 新聞やテレビはこういうことを報道しない

 沖縄・辺野古埋め立て反対運動過激派が潜り込んでいるのは確実なのに報道しない。「関西生コン」の違法行為もほとんど報道しない(立憲の辻本清美議員からの圧力?忖度?)。JR東日本労組が極左・革マル派に支配されていることもほとんど報道しなかった(そういえば立憲の枝野幸男議員は支援されていたなぁ)。JR北海道は?最近、極左・中核派の拠点「前進社」が警察の手入れを受けたが、これらのことと関係しているのか?

 新聞・テレビなどで分からないことは非常に多い朝日新聞、毎日新聞、テレビ朝日、TBSなどは意識的に誤導する都合の悪いことは報道しない(例えば、朝日新聞はこう言う。「事実を伝えるだけでは報道にならない」「角度をつける」)。読者を愚民視している。そのくせ、満州事変以降、国の重大な局面では間違えてばかりいる。共産主義を信じるし、慰安婦問題では30年以上嘘をつき続けるし。

 韓国でいま現在、数百万人規模の反文在寅(ムン・ジェイン)政権デモが行われているが、ネット以外ではほとんど報道されていない。反朴槿恵(パク・クネ)ロウソク・デモの時と大きく異なる。

 今回も消費税軽減税率でおかしなことをするし(それはそうと、軽減税率という面倒なことを推進したのが公明党だということは忘れずにおこう)。ロクなもんじゃない。

李登輝 秘録
 四国新聞2019年10月3日

 警察は、江戸川区の中核派の拠点「前進社」を約160人態勢で家宅捜査した。ここは要塞のようになっており、扉をエンジンカッターで切って踏み込んだ。飛行弾8発が発見された。

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李登輝 秘録

今年は早めに庭木の剪定をしてもらった。男性4人で夕方までかかった。ケヤキなど4本は根元から切ってもらった。





  李登輝 秘録


 産経新聞2019年4月30日の「李登輝 秘録」の「第2部 日本統治下に生まれて ⑥」をご紹介します(強調は引用者)。

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 後藤新平(ごとう・しんぺい)の生き方を追う


 台湾の元総統、李登輝は耳まで紅潮させながら、うれしさを隠せずにいた。

 2007年6月1日に東京の国際文化会館で行われた「後藤新平賞」授賞式のときだ。李はこの日、「私がこの光栄に浴し得たことを、一生の栄誉と深く感謝しております」と述べた。

 同賞は、日本統治時代の民生長官を務めた後藤新平(1857~1929)のように幅広い業績を挙げた人物を国内外から選んで顕彰するものだ。

 後藤は南満州鉄道(満鉄)の初代総裁や日本の外相などを歴任している。李は同賞における最初の受賞者に選ばれた。

 李は授賞式で「後藤新平と私」と題して行った講演の中で、後藤の台湾での業績として公衆衛生の改善や教育制度の整備などを挙げた。なかでも、中国大陸から持ち込まれ、台湾でも蔓延していた麻薬のアヘンを専売制にし、中毒患者を減らした行政手腕を評価した。


 取材で李は、後藤の業績に関し「台湾社会の基礎を作った」と強調した。わずか8年余りの民生長官の間に、それまでの台湾では1世紀近くはかかるであろう「近代化を成し遂げた」とたたえている。

        ◆        ◆      

 総統時代に台湾の民主化に腐心した李は、後藤の仕事ぶりに「強いつながり」を感じていた。

 山岡淳一郎の著書「後藤新平 日本の羅針盤となった男」(草思社)にこんな場面が紹介されている。

 日本本土の内務省で衛生局長だった医師出身の後藤が、第4代台湾総統の児玉源太郎(1852~1906)に民生長官に抜擢されたときの出来事だ。

 児玉から施政方針演説の起草を命じられた後藤は、「そんなもんは、やらんほうがいいでしょう」と返事をした。

 そして「皆が演説しないのを不審に思って訊きにきたら、俺は『生物学の原則でやる』とお応えください」と言ったという。

 「生物学の原則」とは、台湾の人々の習慣や生き方を重視して政策を考え、日本的な手法を押しつけないとの意味だ。後藤は「ヒラメの目が横についていて、それを鯛のようにしろといっても、できるものじゃない」とも訴えた。


 1988年に総統となった李は、国民党による独裁的な体制の変革を目指す中で、こうした後藤の理念が頭の中にあった。

 既得権益層だったヒラメ(独裁体制)をいきなり追いつめるべきではない。網を徐々にかけてヒラメをすくい上げ、鯛が泳げる民主社会を静かに築いていくという考え方だ。

        ◆        ◆          
 
 後藤を尊敬していた李は、満鉄総裁を務めた後藤と同じ道を歩もうと「京都帝国大学(現・京大)を出たら満鉄に就職したいと考えていた」という。ただ、その目標は日本の敗戦で実現しなかった。

 世代は異なれど、台湾という同じ空間で李は後藤の生き方を追い求めていた

 八田與一(はった・よいち)や新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)に限らず、李は日本統治時代の台湾に尽くした日本人に深い関心を抱き、それぞれの業績に学ぼうとしていた。  (敬称略)


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 * 週刊エコノミスト2019年10月8日号に載っていた「台湾の基礎知識」


 先史時代から16世紀前半まで複数の民族集団が暮らす島だった台湾には、16世紀後半に中国大陸から漢人が移入し始めた。

 17世紀にはアジアの植民地をもくろむオランダ、鄭成功(てい・せいこう)一族が相次いで台湾を占拠。1683年に清朝が制圧し統治下に入った。

 1895年、日清戦争に敗れた清は下関条約により台湾を日本に割譲1945年の第二次世界大戦終結までの約50年間、日本が統治した。

 終戦後、台湾は当時の中国である中華民国の1省として編入された。

 戦後、中国大陸では政権にある蒋介石の国民党毛沢東率いる中国共産党との内戦が本格化し、1949年10月1日に共産党が中華人民共和国成立を宣言すると、国民政府(国民党政権)は12月8日、台湾・台北遷都を決定した。

 その後、二つの政治実体が固定化している。


以上


プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子、足立康史、竜崎伸也ほか多数。

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