刺繍をする守衛さん

刺繍をする守衛さん
 日本経済新聞17年6月26日「文化」欄。
刺繍をする守衛さん
 先日、ゆめタウン高松のL.L.Bean(エルエルビーン)に買い物に行ったら、面白い車が来ているからスターバックスの前に行ってみて下さい、と勧められた。
刺繍をする守衛さん
 この種のクルマは5歳ごろのカバヤ製菓のカバ以来。輪投げならぬブーツ投げを勧められ投げたら、見事ストライク。2割引きのクーポン券とL.L.Beanのステッカーをくれた。





  刺繍をする守衛さん


 日本経済新聞の最終面は「私の履歴書」「文化」欄。2017年6月の「私の履歴書」は香川県とも馴染みの深い谷口 吉生(よしお)さん。「丸亀市猪熊(いのくま)弦一郎現代美術館」や「香川県立東山魁夷(ひがしやま・かいい)せとうち美術館」を設計した。最近の仕事としては「GINZA SIX」がある。

 「文化」欄は、それこそ様々な人々の営みがうかがえる。6月26日の美術家・奥村 綱雄(つなお)さんの回も面白かった。それにしても色々な人生があるものである。抜粋してご紹介します。


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 奥村さんは、美大卒業後、グラフィックデザイナーとして働き始めたが、自分の作品をつくるための時間がない。そこで30歳ごろから夜間警備の仕事をするようになって25年が経つ。

 最も多い勤務体系は平日午後5時から翌朝8時まで。職場に着くと制服に着替え、3~6時間おきに建物を巡回する。監視カメラのモニター画面を眺めている時間が作品の制作時間。その間も設備異常への対応などでやることは多く、勤務中に制作できる時間は限られるという。

 作品は刺繍で作る。1日の作業量は5時間が限界。新書のブックカバー大の作品を仕上げるのに平均1年かかるという。これまでに延べ7200時間を作品に費やしてきた。


 次のエピソードは何度読んでも可笑しい。

 「制作に集中しすぎて一度、深夜、新宿の立体駐車場で来客に気づかなかったことがあった。こわもての男性にすごいけんまくで怒られたが、正直に刺繍をしていたと答えると、相手は気勢をそがれた様子で、安堵した。作品の説明をすると面白がってくれて、最後は『頑張れよ』と言って去って行った」


以上


金田一春彦の初恋

金田一春彦の初恋
 毎日新聞17年7月8日
金田一春彦の初恋
 讀賣新聞17年7月13日
金田一春彦の初恋
 金田一春彦さん(1913・4-2004・5)
金田一春彦の初恋
 「世界屠畜紀行」を読んで以来ファンになった内澤旬子さんが、小豆島に鹿や猪の解体処理施設を作るための資金300万円をクラウドファンデイングで募集していた。僅かではあるが応募したところ本日、返礼品が送られてきた。害獣として殺処分された動物のほとんどは地中に埋められているという。きちんとした処理施設を作り、ジビエとして経済を回し、動物たちの命のためにも有効利用してほしい。「本の雑誌」8月号によると目標金額は十分クリアしたとのこと。喜ばしいことである。
金田一春彦の初恋
 朝日新聞17年6月25日
 国も遅まきながら乗りだした。
金田一春彦の初恋
 近所でもこの花が咲いているがまだ名前が分からない。





 金田一春彦の初恋


 先日懐かしい名前を新聞で見つけた。「うたのおばさん」として私がちいさいころラジオでよく聞いていた安西愛子さんが、老衰のため100歳で亡くなったという。

 小学生低学年のころ、最初に買ってもらった三省堂の「明解国語辞典」の編纂者として「金田一(きんだいち)」という名前を知った。お父さんの京助さんだったか、息子の春彦さんだったかは忘れた。京助さんはアイヌ語の研究者として教科書にも載っていた覚えがある。石川啄木の親友でもあり、金にルーズな啄木に随分悩まされたようである。

 孫の秀穂(ひでほ)さんも言語学者で、よくテレビに出ている。

 その金田一春彦さんの初恋の相手が安西愛子さんだったという。

 讀賣新聞7月13日の「編集手帳」をご紹介します。


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 国語学者の金田一春彦さんに初恋の回想がある。旧制浦和高校に入ってまもない初夏のこと。学生寮から東京に帰省したとき、近所の道で可憐な少女ににっこり挨拶された。

 〈魂が宙に飛ぶというのはこういうときだろうか〉(東京書籍『ケヤキ横丁の住人』)。恋文をしたため、少女宅の郵便箱に託した。やがて返信が届いた。

 〈私の娘は、まだ女学校の1年生である。貴下の手紙にお返事を書くようなものではない。貴下は立派な学校に入学された前途ある方である。どうか他のことはしばらく忘れて学業にいそしまれよ。少年老い易く…〉

 
 何年かして応召するとき、見送りの人垣の中に少女の顔を見つけた。金田一さんが少女と初めて言葉を交わしたのは、それから30年余り後のことである。「あの日、理由も告げず、父は言いました」。きょう出征する人の見送りには必ず参列しなさい、と。かつての少女は、「うたのおばさん」として親しまれる童謡歌手になっていた。

 安西愛子さんの訃報(享年100)に接し、金田一さんの失恋談義を読み返している。謹厳にして情けあり。昔は立派な父親がいた。


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(感想・意見など)

 最近のドロドロした話が洗われるような甘酸っぱいいい話である。


以上



猛獣たちのララバイ

猛獣たちのララバイ
 毎日新聞17年6月15日
 「女子高は男いないと皆ゴリラ」 (東京 金成 茉緒さん)
猛獣たちのララバイ
 よく行くマック。生徒が多いか少ないかは自転車の数で分かる。土・日・祝日、試験の時は多い。
猛獣たちのララバイ
 フィットネスクラブのプール。オバタリアンが少ないとほっとする。
猛獣たちのララバイ
 週刊新潮の17年7月13日号新聞広告。
 左柱は「豊田真由子センセイ」
猛獣たちのララバイ
 週刊新潮17年7月13日号 「ヤメ秘書匿名座談会」 面白くない訳がない。
 結局は、人間性の問題。
猛獣たちのララバイ
 週刊文春17年7月13日号新聞広告。
 左柱は「松居一代」対「船越英一郎」のドロドロ。松居さんの暴言、DVが酷いという。
猛獣たちのララバイ
 ヤモリのほうがよっぽどかわいい。





 猛獣たちのララバイ(子守歌)


 先日、毎日新聞の仲畑流万能川柳に、「女子高は男いないと皆ゴリラ」と載っていた。私は「さもあらん」と思った。

 よく行くマックでは、女子校生がスカートのまま椅子の上で胡坐(あぐら)をかいていたり、3・4人で騒いで全館中に「ギャハハハ」という声が響いている。傍若無人(ぼうじゃくぶじん)。逆に男子生徒は全般的におとなしい。

 フィットネスクラブでは、オバタリアンが傍若無人。水中ウォーキングのコースで、前後2人ないし3人でウォーキングそこのけでしゃべり回っている。多いときは何組も。まともにウォーキングできない。10年くらい前までは、クラブ側に何とかしてくれと何度か申し入れたが、近ごろはあきらめの境地。オバタリアンの身内の話(旦那がどうの、大阪の孫がどうの)など聞きたくもないので、耳栓をきつく入れて歩いている。


 そうこうしているところに豊田真由子衆院議員の話が舞い込んできた。「このハゲ~~~!!」は、わたしはハゲていないのでまだ許せる(笑)。「娘の顔をぐしゃぐしゃに…」とか暴行は許せない。それにしても秘書を4年半で100人も辞めさせておいて、このような行為が世間に漏れないと考えていたとはよほどのバカに違いない。スマホの時代になって、誰もがたやすく録音・録画できるようになっている。築城40年、落城一瞬!それでも、ミュージカル調とか赤ちゃん言葉とか、変化があって、第三者的には少しは楽しませてもらった(号泣兵庫県議は居たたまれず、聞くに堪えなかったが)。


 極めつけが松居一代。私は彼女がテレビに出ているとチャンネルを変えるほど大嫌い(フルタチも)だが、週十年前から知っている。確か、読売テレビ(大阪)系の11PMにカバーガールとして出演していた。嫌いな理由はむつごいから。「私、私、私、私、私……」。「むつごい」とは、香川の方言では「脂っぽい」「濃過ぎる」の意。わたしはあっさり生きたい。

 彼女は、住んでいたマンションが水漏れ事故を起こし、スーパーゼネコン相手に訴訟を起こし、完勝したこともある。その際、証拠として、録音・録画を多用したと聞いている。読んではいないが、その件に関し本も出版しているはずである。

 船越英一郎さんが出演しているテレビ・映画などをまともに見たことはないし、全くといっていいほど存じ上げないが、松居さんの敵ではないと思われる。猛獣ライオン(松居)対インパラ(船越)の闘いという感じ。恥知らずのライオンが圧倒的に有利なように思える。

 わたしは「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立」(憲法24条)するものだと思っている。相方(あいかた)が別れたいと言っているなら受け入れるほかなく、後は双方がそれぞれその後の生活が成り立つ方向で調整するしかない。何を好んでドロドロにしたがるのかが分からない。「みっともない」の極み!


 週刊文春17年6月29日号には、田中角栄首相は「真紀子はゴリラみたい」と言っていたとか。100%同意。親の欲目があってでさえこれだもの。


 学生時代、京都の友人が、厚かましいおばさんのことを「ずつない」と言っていたのを思い出した。また、これは全く関係ないことであるけれども、大学の寮に入っていた大分の同級生が「よだきい」をしょっちゅう連発していた。


以上


久田 恵(ひさだ・めぐみ)さんの人生

久田 恵(ひさだ・めぐみ)さんの人生
 産経新聞17年5月27日
 久田恵(ひさだ・めぐみ)さん(69)は、室蘭市生まれ。現在はノンフィクション作家。「フィリピーナを愛した男たち」で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。
久田 恵(ひさだ・めぐみ)さんの人生
 産経新聞17年6月3日 「家族がいてもいなくても」 500回目
久田 恵(ひさだ・めぐみ)さんの人生
 産経新聞17年6月1日 500回記念インタビュー
久田 恵(ひさだ・めぐみ)さんの人生
 本津川の堰





 久田 恵(ひさだ・めぐみ)さんの人生

 
 久田恵さんの人生が面白い。直感と思い込みと、好き嫌いに彩られているが、数10年後にはそれらすべてがノンフィクション作家という仕事の肥やしになっている。

 産経新聞「家族がいてもいなくても」から、適宜抜粋してご紹介します。


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 NHKの朝の連続テレビ小説「ひよっこ」を欠かさず見ている。
 目下、放映中の昭和40年。私は高校生で、翌年に大学生(上智)になった。その3年後、学生運動に巻き込まれて大学を中退。家出を決行。生活のために働き始めたのが、ドラマの主人公と同じトランジスタ工場だった。

 若い女子工員がベルトコンベヤーの前に並んでラジオを組み立てている姿を見ると、当時を思い出し、胸がバクバクしてしまう。
 素手で自分の人生を切り開いて生きよう、と考えた私にとって、そこはまさに実人生のスタート地点だったから。

 働いた工場は家電大手の下請けの工場だったが、私はベルトコンベヤーのラインで、部品のハンダ付けをやっていた。

 でも、工場はドラマのようにのどかではなかった。コンベヤーの速度が、すぐ速くなる。息をつく暇もなく手を動かしていないと、目の前の部品がたまってしまう。まさにチャプリンのモダン・タイムスのような世界だった。

 当時は、仕事の欠陥をゼロにする「ZD運動」というのが導入されていて、「会社がつぶれたら、困るのは自分たちなんだから、欠陥ゼロに向かって必死で働こう」と、何かにつけて呼びかけていた。

 給料も低く、月末には銭湯代もなく、ろくなご飯も食べられず、独りぼっちだった。そして1年後に工場は倒産してしまった。

 短い期間だったが、この体験は、「私は自立の時を、たった1人で生き始めたんだ」という自信につながり、今も自分の人生を、深いところで支えている気がする。


     〇     〇     〇    


 転職人生を送ってきた。
 女子工員、ウェイトレス、人形劇役者、放送ライター、家庭教師、舞台衣装の縫子、キャバレーの衣装係、広告会社嘱託、放送ライター、サーカス団炊事係、女性誌ライター など…。

 1つの仕事では生計が成り立たないので、たいてい3つぐらいの仕事を一度にしていた。

 最終的には、取材をして原稿を書くノンフィクションライターになったが、それがやっと40歳ぐらいからである。
 なんでこんな落ち着きのない人生を、私は送ってきてしまったのだろうと思う。

 そもそも、私は好きで転職人生を送ったわけではなかった。「定収入、定収入…」とうわごとのように言って履歴書を書き、会社に就職したいと願っていた時期もあった。けれど、ことごとく落ちた。なぜ、面接を通過できなかったのか、今もよく分からない。

 当時は、物書きとして自立できるとは夢にも思っていなかったが、結果として、こういう雑多な体験が一番役に立つ仕事に就いた気がする。

 それは、私の人生に起きた奇跡のようなものなので、運がよかったということしかない。


     〇     〇     〇 


 ――トランジスタ工場で働き始めてノンフィクション作家になるまで波瀾万丈だ。

 「倒産とか給料の不払いとか、大抵ひどい目に遭って次の仕事を探すのよ。ミシンもかけられないのにキャバレーの衣装係になったり、怪しげな出版社で中小企業社長の一代記を書いたり。切羽詰まれば何でもできる。どんなことでも、後で役立つスキルになっていくと学んだかな」

 《その後、一緒に暮らし始めたのは、映画製作に没頭する無収入の青年。だが、久田さんが妊娠し…》
 「彼が『ぼく、お父さんになるから就職する』って。それで、別れたの」

 ――え、別れたの?

 「貧乏でも『映画を作りたい』って言うから頑張って稼いできたのに、なんでここで夢を捨てて安定なの?って納得できなかった。それで離婚して、また仕事を転々として、彼はその後、別の人と再婚し安定した穏やかな生活に。人って相手次第で変わる」

 ――ご自身はお子さん連れでサーカスの賄い係に。なぜサーカスに?

 「レイ・ブラッドベリーの小説にサーカスの話があって、ずっとあこがれていた。今考えるとめちゃくちゃだけど、その時々には理屈があるのよ」

 《1年のサーカス暮らしの後、子供の小学校入学を機に帰京。女性誌のライターに。生活に疲れていた久田さんは親と同居し、本格的に執筆を始める。だが、署名原稿を任されるようになった途端、母親が脳卒中で倒れ在宅介護が始まる》

 「女性は育児や介護で生きる環境が変わってしまう。私は介護や子育てで遠出の取材ができなくなり、1日現場に行って見たまま書くならできると思って、童話作家志望だったのがノンフィクションを書くようになった」


 「取材の現場には面白いことやびっくりすることがあるから、『びっくりした』と書く。どんな条件でも書いていけると思った」  


 (聞き手 佐藤好美さん)

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(感想・意見など)

 いくらポヤポヤしている男の人でも、父になると分かれば、自分の夢を脇に置いてでも、定収入を得るためきちんと働こうと思うだろう。 それが嫌だという。ましてや離婚までするとは…。その後、子連れでサーカス団で働こうという発想もぶっ飛んでいる。

 久田さんの場合、才能もあり、運もあり、ノンフィクション作家という天職を見つけて結果オーライだが、直感と思い込みと好き嫌いだけで生きて、あっちで頭を打ち、こっちで膝をすりむき、惨めな晩年をおくる人も多いと思われる。それこそ自己責任だが…。


以上



岡田英弘先生を悼む

岡田英弘先生を悼む
 岡田英弘・淳子御夫妻




 先日のブログでも触れましたが、尊敬する岡田英弘先生が亡くなりました。

 倉山満先生のブロブから、奥様である宮脇淳子先生の哀悼文を転載いたします。


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 夫・岡田英弘を悼む
  岡田(宮脇)淳子


 私の最愛の夫・岡田英弘は、平成29年5月25日(木)早朝、自宅で亡くなりました。うっ血性心不全という診断です。86歳と4ヶ月でした。

 18年前68歳のとき脳梗塞を患って失語症になったあと、人前に立つことは少なくなりました。10年前には心筋梗塞で五個所の心臓バイパス手術と僧帽弁にリングを埋め込む開腹手術を受け、5年前には重い心不全と腎不全で長期間入院し、除細動器を埋め込んで退院したときは要介護4でした。遠出はできなくなり、食事制限も一層きびしくなりましたが、それでも、一年後には要介護2、三年後には要介護1に改善し、昨年、平成28年6月には、岡田英弘著作集全八巻(藤原書店)の完結記念シンポジウムとパーティーで皆様に元気な姿をお見せすることができました。

 今年の正月も、自宅に弟夫妻や友人を招いて私の手作りのお節料理とお雑煮を食べ、1月22日には自宅マンションの理事長夫妻と、西巣鴨の大正大学鴨台食堂(おうだいじきどう)にタクシーで出向き、大好きな肉料理をいただくこともできました。

 2月になって急に身体がむくみ、体重が増えてきました。18年前の脳梗塞以来お世話になっている千駄木の日本医科大学付属病院にうっ血性心不全で2月9日に入院したあと、何度か誤嚥性肺炎になりましたが、新薬が効いて3月20日に40日ぶりで退院することができました。ふたたび要介護4でしたが、念願の自宅に戻って10日間過ごしたあと、今度は大腸憩室炎で大量に下血し、貧血のため3月31日に再入院になりました。

 最後は自宅で看取りたくて、昨年の夏以降、訪問の医師と看護師と契約し、定期的に往診や訪問リハビリを受けていました。日医大付属病院のほうでも退院支援の看護師たちが在宅医療の方法を工夫してくれ、何度も病院でカンファレンスを持ちましたが、心不全が重く、誤嚥を繰り返して、なかなか退院するところまで行きません。一時は自宅に帰ることをあきらめ、私が泊まり込めるように個室に移りましたが、本人が自宅に戻る意志が強く、苦しい治療を本当によく頑張って耐えて、5月24日午前11時、50日ぶりにとうとう自宅に帰ることができたのでした。

 お昼には訪問看護師が来て、エンジョイゼリーというプリン状の栄養補助食品を、飲み込みを確認しながら食べさせてくれました。午後には往診の医療チーム、訪問看護師、ケアマネージャー、ヘルパーたち多数が取り囲んで、今後の介護方針についてにぎやかに相談しているとなりで、安心したのか自動で寝返りを打たせるベッドの上でぐっすり眠っていました。

 みんなが引き揚げたあと目を覚ましたので、いつも病院でつきそっていたように会話を交わし、私は食事をして風呂に入りました。酸素を吸引していましたので、ベッドの脇で「痛くない?苦しくない?」と聞くと、「ううん」と首をふります。「そばにいてほしい?」と聞いたら「うん」と言ったので、「私、お酒飲むよ」と言うと、また「うん」と答えました。マグカップに入れた焼酎のお湯割りを持ってそばに座り、彼の手を握って、半時間ほどかかって飲み終えたときには、すやすや眠っていました。

 となりの部屋で私も安心して眠りました。夜中に三度ほど起きて見に行くと、同じ姿勢でベッドにゆられながら眠っています。翌5月25日の朝6時半、私がベッドに行って額に手をあてたら、冷たくなっていたのです。

 すぐに前日来てくれた24時間態勢の在宅医療法人と訪問看護師に電話をしました。午前7時前にはいつもの看護師がやってきて、私と二人で身体を清めると、まだあたたかかったので、ほんの少し前、明け方に息を引き取ったのだということがわかりました。まもなく医師もかけつけてくれ、聴診器をあてたあと、すぐに死亡診断書を書いてくれました。警察にも病院にも行く必要がなかったことが何よりと思いました。

 寝息が聞こえるくらいの距離に私は寝ていましたが、夜中に声をあげることもなかったので、苦しむこともなく、眠ったまま逝ってしまったのだと思います。


 じつは今年1月、自宅から徒歩15分の、本駒込三丁目にある浄土宗の常徳寺にお墓を買いました。私たちには子供がいませんから、和歌山市にある私の実家の浄土真宗の浄徳寺(たまたま同じ発音です)に葬ってもらおうと考えていたのですが、副住職をしている私の弟に「東京に墓を買ったほうがいい」と言われ、友人たちも「和歌山は遠すぎて墓参りに行けない」と言います。昨年、親友二人のご主人たちのお葬式に出て、自分たちのときのことを真剣に考えはじめたときに、新聞広告で見つけたのです。

 私が最初一人で見に行ったあと、すぐに主人と一緒に行き、住職にも面談して寺の檀家になり、墓石も字体も主人が自分で選びました。そのあと入院してしまい、できあがったお墓を見ていないことが心残りだと病室で訴えるので、私は住職にお願いして病室に来ていただき、「南無阿弥陀仏」を唱えていただきました。主人は、自宅に近くて私がいつでも会いに行けるお墓に入れることを、心から喜んでおりました。

 
 岡田は、18年前の脳梗塞の後遺症で話をすることは上手ではありませんでしたが、頭のよさは変わることなく、最後まで意識はしっかりしており、判断力も衰えませんでした。日本尊厳死協会に入っておりましたので、胃ろうや延命措置は取らないようにと、入院直後から医師に申し渡してありました。病室では、自分の言いたいことが伝わらないと大声をあげることもあったようですが、私には最後までおだやかでやさしい人で、残される私の心配ばかりしていました。

 私が病院に行きベッドのそばに何時間でも座っていると、「本当はこんなことさせたくなかった」「こういう風にしていることが君の役に立っているならいいんだけど」と、私の仕事の邪魔をしていると心配します。病気が一向に治らないことを「ふがいないね」「こんなにいろんなところを見せてごめんね」と言います。「お互い、つらいね」と、先に逝ってしまう自分と、残される私のことを思いやり、「もうすぐ、ずっと一緒にいてあげるよ」とも言いました。ふさわしい言葉がすぐには出てこないので、何時間もの間に、ぽつぽつとしか話しませんが、何を言いたいのか私が確認し、当たっていると満足そうにうなずくのです。最後には「何か言いたいことある?」と聞くと「ない」と返事しました。
 
 日医大付属病院に、延べ90日間入院していた間、看護師たちには、こんなに相手のことばかり考えているカップルは滅多にいないと言っていただき、すべての看護師に本当によく面倒を見てもらいました。医師にも看護師にも、ビジネスの範囲を超えた人間味のある思いやりを示してもらい、日本は何ていい国だと、あらためて思った次第です。

 主人は自分の意志を貫いて自宅に戻り、でもこれ以上私の負担になりたくなくて、自分の人生を自分の思い通りに終えました。最後までカッコよくてダンディで、なんて精神力の強い人なんだと、心から敬意を覚えます。


 四日後の5月29日まで自宅のベッドに安置し、マンションの友人たちに見守られながら自宅で納棺しました。29日の通夜と翌30日の葬儀・告別式は町屋斎場で行ないましたが、新聞社への通知は待ってもらい、主人を直接知っている友人と親族だけで見送りました。それでも40もの生花が並んで、寂しくない旅立ちだったと私はほっとしています。

 40年近く前、最初に知り合ったときにはすでに高血圧で、あまり長生きしそうには見えませんでした。21歳年上でしたから、いつでも見送る覚悟はしていましたが、後悔しないように、できるだけ一緒にいようと思いました。60歳を無事に越えたときにはとても嬉しくて、そのあとも70歳を越えて、さらには80歳も迎えることができて、はじめに想像をしていたよりもはるかに長く一緒にいられたことを、私はいつも感謝していました。

 人生の三分の二近く一緒にいた人がいなくなって、私の人生最大の危機だと思いますが、主人が私に惜しみなく与えてくれた愛情を拠り所に、これからも岡田史学を継承・発展させることを私の使命と考え、残りの人生を悔いのないように生きていきたいと思います。


合掌


プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子ほか多数。

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