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Sony History ②

Sony History ②
 ソニーの電気自動車(EV)の試作車「VISION-S」

Sony History ②
 週刊エコノミスト2020年2月4日号

 ソニーは1月、ラスベガスのCESで電気自動車(EV)の試作車「VISION-S」を公開した。現在、「電子の目」となる半導体CMOS(シーモス)イメージセンサーの世界シェアは55%。いまや、電子立国日本で唯一気を吐いている半導体。
 
 今後、車の自動運転化により車載用イメージセンサー部門が爆発的に伸びるのは確実で、この分野の競争は激烈を極める。

Sony History ②
 日経ビジネス2020年1月27日号

 このグラフの縦軸は時価総額、横軸は営業利益率(2011年3月期と2020年3月期の比較)。
 ソニーは急伸、日立も堅調に伸びているのに対し、パナソニックは低成長にあえいでいる。

Sony History ②
 日経新聞2020年2月15日

 東芝の半導体部門は一昔前はすごかったが、いまやほとんど脱落した。心配なのは、子会社群が循環取引435億円をしていたこと(左下の記事)。「病膏肓(やまい・こうこう)」に入っている可能性がある。歴代経営者がボロで、重要な判断を何度か誤るとこういうことになる。


 Sony Historyの半導体部分を抜粋してご紹介します。


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 Sony History ②


第4章 第1話 初めての渡米

 「これは、ものになるだろうか」
 「いや、こんなものでいけるとは、とうてい思えませんね」

 先ほどから井深岩間(和夫)がアメリカの雑誌を見ては、何やら話し込んでいる。2人が見ていたのは、アメリカのベル研究所がトランジスタを発明したことを伝える記事だ。これには、ポイントコンタクト(点接触)型トランジスタの写真に加えて『ゲルマニウムの結晶片に2本のタングステンの針を立てて……』という説明が載っている。

 「将来性はないな」。この記事を読んで、井深はすぐにそう思った。というのも、井深が無線を始めたばかりの頃使っていた、鉱石検波器のことが脳裏に浮かんだからだ。この鉱石検波器は、方亜鉛鉱という結晶に針を立てて無線電波を検波(放送電波から信号成分を取り出す)する装置で、これに受話器をつなげば無線を聴くことができるというもの。確かにトランジスタとよく似ている。しかしこちらは、そんなに高級な機械とは言い難い。クシャミをしたり、ちょっと体を動かしただけで針が動いてしまう。そうすると、また聴こえる所まで針を動かして探していくのだが、これがえらい苦労である。井深はそれを連想して、こんなものは大して役に立たないだろうと思ったのだ。

Sony History ②

 1952年3月、井深は3カ月の予定で、海外視察調査のため渡米することになった。日本では、テープレコーダーの売れ先が学校を中心にした教育関係に集中しており、これ以外にもっと広い売れ口があるのではないだろうか。アメリカの人たちはテープレコーダーをどういうふうに使っているのだろう。できることなら、作っている所を見て製造過程も学んできたいというのが、井深の渡米の目的であった。

 羽田で家族や会社の人たちに見送られて、ノースウエストの飛行機に乗り込んだ井深は、少なからず緊張していた。初めての海外旅行である。その上、井深は英語に自信がなかった。

 それでも、アンカレッジからシアトルで乗り継ぎ、何とか無事ニューヨークに着いた。
 やはり、アメリカはすごい。何しろ夜中までこうこうと電気がついている。街に出れば車があふれている。
 「これは大変な国だ!」

 見るもの聞くものすべてが驚くことばかりである。車好きの井深は、中古車販売店の店頭に並べられた車を見ては、ため息をついていた。500ドル、800ドルもするのではとても手が出ない。それでなくても、外貨の持ち出しが厳しく制限されていて、1日当たり10ドルか20ドルしか使えず、タクシーにも下手に乗れない状態なのだ。


第2話 眠れぬ夜の決断

 ニューヨークに着いて、まず井深は、かつて貿易会社に勤務していた山田志道(やまだしどう)に会った。

 山田は貿易会社をやめた後、戦前・戦中を通して株の仲買人をやっていて信望も厚く、英語はむろんのことアメリカの事情に詳しい。井深にとっては、打って付けの案内人であった。あちこちと引き回してもらって見物したり、「外貨持ち出しの制限があるので、ホテルに泊まるのがもったいない」と言えば、下宿のような所を紹介してくれたり、「あそこの工場が見たい」と言えば、その労をとってくれたりと、井深が滞在している間中、山田には世話になりっ放しだ。

 そんなある日、井深にアメリカの友人が訪ねてきて、「今度、ウエスタン・エレクトリック社(以下、WE社)がトランジスタの特許を望む会社にその特許を公開しても良いと言っているが、興味はないか」という話をした。トランジスタは、1948年、ベル研究所の研究者のショックレー、バーディーン、ブラッテンの3人によって発明された。このトランジスタ製造特許を、ベル研究所の親会社であるWE社が持っている。特許使用料を支払えば、その特許を公開してくれるという情報だった。

 ところで、その頃井深は、アメリカに来て以来、忙しい毎日を過ごしているにもかかわらず眠れない夜が続いていた。そんな折、いつも井深が思うのは遠く日本にいる仲間たちや、会社の事であった。

 東京通信工業(ソニーの前身、以下東通工)はその頃、テープの製造をするためにいろいろな分野から人を集めてきたため、社員数が急激に増えていた。テープの仕事に一応目鼻が立った今、何とかしてこれらの人たちを有効に生かすことはできないか、興味を持って活躍できる仕事はないものか……井深が考えるのは、いつもそのことだ。

 突然ひらめきがあった。「トランジスタをやってみよう。これには、技術屋がたくさんいるに違いない。研究者も必要になるだろう。それに、あの連中も新しいことに首を突っ込むのが大好きだ。これは打って付けじゃないか」

 トランジスタなどというものは、今回の渡米の目的には全然入っていなかった。井深も、会社のこのような事情でもなければ、WE社の話になど耳を貸さなかったかもしれない。それに、特許料が2万5000ドル(約900万円)というのも、東通工にとっては、大き過ぎる金額である。しかし、今や、やってみるだけのことはありそうだという気持ちのほうが強くなってきていた。トランジスタも発明されてから4年が経ち、当初、井深が考えていたような鉱石検波器とは違うということも分かっていたし、何よりもトランジスタ自体も初期の点接触型から接合型へと進歩を見せていた。

 さっそく、山田に頼み込んだ。「トランジスタの話を、よく聞いて帰りたいんだ」。山田は、WE社の特許を担当しているマネージャーに会えるようにと、何度もコンタクトを取ってくれた。しかし、なかなか面会の約束が取れない。心残りではあったが、事後のことを山田に託し、井深は帰国の途に就いた。さて、この時の井深のアメリカ土産は、ゲルマニウム・ダイオードと、当時日本にはまだなかった、ビニールのテーブルクロスであった。


第3話 町工場なんかでできるものか

 帰国後すぐに井深は、この決断を盛田に伝え、東通工でやれるかどうか相談をした。「やるだけのことは、ありそうですね」と盛田も賛成してくれた。

 次に社内のコンセンサスも得られると、井深はアクションを起こし、通産省にトランジスタ製造の許可を求めに行った。「ちょっとやそっとのことで、トランジスタなんかできないよ」と通産省の返事はつれなかった。町工場に毛のはえた程度の東通工なんかで、難しいトランジスタができるわけがない、そんなことで高額な特許料を支払い、貴重な日本の外貨を使われてはたまらないと、まったく問題にもされない。

 その頃、日本でもトランジスタの開発を始める会社がいくつか現れていた。いずれも日本を代表する大会社である。これらの会社の方法は、アンブレラ契約といって、アメリカのRCA社からすべての技術を供与してもらう代わりに、すべての商品に対して特許権使用料を支払わなくてはいけないというものだ。これら日本を代表する会社でさえこうした契約でやろうとしているのに、東通工がWE社から特許権だけを買い取ろうというのは、いかにも無謀なことというのが、通産省の見解であった。

 ところで、井深の渡米の目的であるテープレコーダーの市場調査のほうであるが、これに関しては、アメリカでも民生用としては日本ほどの普及を見せていないというのが結論であった。つまり、日本では裁判所から放送局といった業務目的から、学校の学習用に使われ、なおかつ一般家庭にも普及しようかという時期に来ているのに対して、アメリカではいまだ講演の速記とか報道機関のメモ用として使われている程度に過ぎなかったのである。

 実際、日本ほど教育におけるテープレコーダー活用の浸透率が高い国は、世界中見回してもどこにもない。これは、学校に販路を開拓していった東通工の大きな功績であった。学校の授業での活用から始まって、各種のけいこ事に使われ、今日のようにテープレコーダーが普及していったことを考えれば、その市民生活に及ぼした影響の大きさは、計り知れないものがある。


第4話 届いた手紙

 トランジスタの特許取得のための努力は、井深から後のことを託された山田の骨折りによって、着々と進められていた。

 山田は、井深がニューヨークを離れた後もたびたびとWE社に通い、行くたびに"東通工は、こういう会社である"と説明してくれた。また、ある時は、山田の得意のスケッチを生かしてオフィスで働く秘書の女性を描いてやったりして、すっかり先方の人たちと仲良くなっていた。そうしたWE社との交渉の詳細を、山田は詳しく報告してきてくれた。

 山田自身とは、さほど関わりもない東通工のために、なぜこれほどまでに面倒を見てくれるのか……永くニューヨークで株の仲買人をやっていた山田の直観によほど東通工という会社は響くものがあったのか、山田は家庭にあっても夫人のまきゑに、「まきゑ、見ていてごらん。あの東通工という会社は、名もない小さな会社だが、きっと今に大きな会社になるよ」と言うのが口癖だった。

 そうした山田の努力が実を結ぶ日が来た。その実は、アメリカから井深の所に届いた一通のエアメールが運んできた。『あなたの会社に特許の使用を認める用意がある。代表者が来てサインをしなさい』。WE社では、東通工がどこの会社とも技術提携をせず、またアドバイスも受けずに独力でテープをこしらえたことに非常に感心し、そういう会社であれば、トランジスタの特許を使わせても大丈夫であろうと判断したらしい。

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 1953年8月、3カ月の予定で欧米の業界を視察することになっていた盛田が、このWE社との契約を任されることになった。盛田にとっても、初めての海外である。今回も、英語をほとんど話せない盛田のために、ニューヨークに着いてから山田がずっと連れて歩いてくれている。「どうして、こんな国と戦争なんかしたんだろう」というのが、盛田の率直なアメリカの印象であった。日本と全然スケールが違う。何を見ても圧倒される。盛田は、少なからず自信を失いかけていた。

 いよいよ明日、WE社に行くということになった。
 盛田は、「東通工といっても、どこの馬の骨ともしれない日本人が来たと言って、WE社は相手にしてくれないんじゃないだろうか」と、いつになく弱気になっていた。WE社に行って、東通工が独力でテープやテープレコーダーを完成させたという事実を、データで示して説明する予定になっているのだ。しかも相手は、東通工とは比較のしようもないくらい大きなWE社である。盛田が不安になるのも仕方のないことであった。

 それでも、山田が付いて行ってくれるという安心感で盛田は気を取り直し、WE社に行く決心がついた。


第5話 欧米視察旅行の成果

 東通工に対するWE社の返事は、「OK」だった。しかし、日本では、まだ通産省の認可が下りていない。そこで取りあえず、許可が下り次第正式に契約することにして、仮調印を済ませた。その折、WE社の技術者たちは「トランジスタというものは、非常におもしろいものだ。しかし、今の段階では可聴周波数帯域(ラジオの放送電波は、これよりもずっと高い周波数)にしか使えない。それにはヒアリングエイド(補聴器)を作ったらよい。日本に帰ったら、ぜひとも補聴器を作れ」としきりに勧めてくれる。盛田は「どう考えても補聴器では大きなマーケットになりそうもないな」と思いつつ、「はあ、はあ」と聞いておいた。

 東通工がWE社と結んだ契約は、ノウハウ契約とは違う。そのため、盛田は調印を済ませると日本に帰ってから役立つようにと、トランジスタに関わるいろいろな資料を集めて回った。とにかく、これで渡米の目的を無事果たした盛田は、次なる視察地ヨーロッパへ向けて旅立って行った。

 最初に行ったのはドイツだ。ドイツは日本と同じく戦争には負けたけれど、素晴らしい技術力を持っているし、その技術力には長い伝統がある。盛田はアメリカで感じたような劣等感を、ここドイツでも感じていた。

 「果たして、アメリカやドイツといった国と同じように、東通工が世界中にマーケットを広げていけるものだろうか」。あれほど、いつかは東通工製品を世界のマーケットに乗せるんだと考えていた盛田も、次第に悲観的になってしまっていた。

 そんな気持ちを抱えたまま、ドイツから汽車に乗りオランダに向かった。ここには、世界的な大企業フィリップスの本拠地がある。この地を訪れて、盛田はひと息ついた気がした。ご存じのように、オランダは農業国だ。町へ入ると、皆自転車に乗っている。「何だか、日本に似た国だな」と、郷愁さえ覚えた。この国には、ほとんどと言ってよいくらい工業というものがない。何しろヨーロッパ中で食べる卵に、オランダという印が付いているくらいの農業立国である。盛田にしても、フィリップスがいかに世界中に大きな力を持っているか知らないわけではない。そのフィリップスが、この小さな国にあるのだ。

 盛田は、ヨーロッパに来てからというもの、日本は何と広い国であろうかと思っていた。確かにアメリカに比べれば、日本は小国だ。しかし、ヨーロッパでは、ひとつの国の首府から、次の国の首府まで飛行機に乗れば、1時間で行ってしまう。オランダであれば、汽車で4時間走ると、国境から隣の国に突き抜けてしまうのだ。 それほど狭い国土のオランダの、しかも、農業国の片田舎にあるフィリップスという会社が、世界のエレクトロニクス産業において素晴しい力を発揮している。アイントホーヘンという町は、ドクター・フィリップスが出てくるまでは、本当に片田舎であった。何ら工業的なバックグラウンドのないこの土地で、ドクター・フィリップスはフィリップス王国を築き上げたのだ。

 「ドクター・フィリップスにできたことが、我われにできないはずはない。自分たちにも、チャンスがあるはずだ」。盛田はここに来て急に勇気が湧いてきた。そして、オランダから井深に手紙を出した。

 『オランダを見て非常に勇気が湧いた。私たちにも、我が社の製品を世界中に売り広めるチャンスがあるという決心、決意を持つに至った』。そう、書いて出した。

 3カ月の旅行を終え、日本に帰った盛田は、さっそくWE社とのやり取りを井深に話した。
「トランジスタを使って何かやりましょう。トランジスタができれば、我が社のチャンスとなるはずです。WE社では、補聴器をやれと言っているけれど、どうでしょう……」
 井深も補聴器には否定的であった。


第5章 第1話 「大丈夫、必ずできる」

 「ラジオをやろう」。これが、社長の井深が出した答えであった。
 「トランジスタを作るからには、広く誰もが買える大衆製品を狙わなくては意味がない。それは、ラジオだ。難しくても最初からラジオを狙おうじゃないか」

 まだ、アメリカでも補聴器くらいにしか使えない、低い周波数のトランジスタしか作られていないのだ。これは、大胆な発想だった。しかし、井深は強気だ。

 「大丈夫だ、必ずラジオ用のものができるよ」。この言葉で、東京通信工業(ソニーの前身、以下東通工)の技術者たちの挑戦が始まった。

 技術者から見れば、挑戦する相手が難しければ難しいほど、張り合いがあるというものだ。しかし、東通工の中でも一部には、果たしてできるかどうか分からないようなトランジスタを、社運をかけてまでやる必要があるのかという先行きを危ぶむ声があった。それは、外部の人たちの大部分も、やはり同じように感じていたに違いない。東通工のような小さい会社が、いまだアメリカでもできないトランジスタラジオをやるなんてことは、無謀な冒険であるという意見が圧倒的に多かった。NHKのも、そう思っていた一人だ。

 「今度、うちでトランジスタをやるよ。それもラジオを作ることにした」。井深が少し誇らしげに言った。

 「ラジオなんて大丈夫か?アメリカだって、お金に糸目をつけない国防用にしか使われていないじゃないか。トランジスタのような高価なものを使って民生用の機械を作ろうたって、誰も買いやしないよ」。古くからの友人への忠告のつもりで島は反論した。

 「そうじゃないよ。確かにトランジスタの製造の歩留まりというのは、今のところは、アメリカでも、せいぜい5%あるかないかだ。だから、皆はトランジスタは商売にならないと言っている。僕は、歩留まりが悪いから面白いと思うんだ。歩留まりが悪いというのなら、良くすればいいんだろう」。井深はムキになって答えた。正論である。島は昔から、こうした井深の敢闘精神ともいえる積極的な姿勢を好ましく思っていた。

 島は理解してくれた。しかし、どうしても理解してくれない相手もある。通産省だ。井深は再度、通産省に足を運んだ。「実は、当社ではWE(ウエスタンエレクトリック)社から製造特許使用者としての許可をもらいました。ついては、通産省のほうでも何とかこの件に関して認可をお願いいたします」と言う井深の言葉に、通産省は「勝手にサインしてくるなど、もってのほかだ。けしからん」と、カンカンである。

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 仕方がない。当面は通産省の出方を見ながら、自分たちでできることをやるしかないというので、社内ではすぐに精鋭たちが集められ、トランジスタ開発部隊が編成された。リーダーには、テープレコーダーの製造部長をやっていた岩間和夫が志願した。岩間は以前、井深からアメリカの『フォーチュン』誌に載ったトランジスタの記事を見せられた際、一晩読んで、「これなら、できないことはないな」と軽い気持ちでいた。それで、井深が「誰にやらせようか」と言った時にも、「私がやりたいです」と自ら買って出たのだ。そして、岩間と一緒にトランジスタに取り組むため、社内のいろいろな職場から腕に自信のある人間が集められた。

 とにかく、ラジオをやろうという前に、トランジスタそのものを作ることが先決である。しかし、東通工には、その製造ノウハウどころか、ほとんど資料と言えるものがない。唯一の拠り所は、専務の盛田がアメリカから持ち帰ってきた、トランジスタのバイブルともいえる『トランジスタ・テクノロジー』という本だけであった。岩間たちは、この本を手がかりに勉強を始めていった。

 そうして1953年も暮れかけようという頃、通産省の電子工業関係部門の大幅な人事異動が行われ、これが、東通工に幸いした。急転直下、トランジスタの認可が下りそうな気配となったため、1954年、年が明けるとすぐに、岩間はトランジスタ研究のためアメリカへと旅立って行った。遅れて1月末には、井深もWE社のトランジスタ工場を視察するため、再度アメリカに向かった。

 これで、いよいよ本格的にトランジスタに取り組む態勢が整った。


第2話 岩間レポート

 岩間がトランジスタの研究のためWE社へ行ったのは、35歳の時である。仕事に脂の乗り始めた頃だ。そういうことだけではないが、アメリカに渡ってからの岩間の働きぶりはすさまじかった。岩間が持っているトランジスタの知識は、わずかに『トランジスタ・テクノロジー』を読むことによって、製造にまつわる基礎的な部分を身に着けたという程度のものでしかない。

 とにもかくにも、ここアメリカで、できる限りの情報を集めて帰らなくてはいけない。WE社からは、製造装置の仕様書などの資料はもらえない。しかし、工場の中は割と自由に見せてくれた。岩間は、工場見学の際に、これはと思われる装置を前にしては、怪しげな英語を駆使して質問して回り、その印象なり答えてもらったことなどを報告書にまとめて、東京に書き送った。とはいっても、その場で装置の図面をノートに取ることはゆるされない。その分、全部が全部正確とは言えないが、ホテルに帰ってから、一所懸命見たこと聞いたことを思い出しながら、スケッチにしたり、レポートにして書きに書いた。最初がレポート用紙に9枚……2月19日が8枚、2月21日9枚……4月7日5枚、4月9日5枚、4月13日8枚と、毎日ではないが、それでも驚くほどの量だ。

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 東京では、定期便のように送られてくる岩間からの手紙と『トランジスタ・テクノロジー』を参考にして、岩間が帰って来るまでにトランジスタを作っておこうじゃないかと話がまとまった。

 まず、やらなくてはならないのが、トランジスタ製造のための工作機械を作ることだ。その当時、半導体の製造設備といっても既製品などあるわけがない。しかも、いくら『トランジスタ・テクノロジー』を読んでも、製造装置の図面など載っていない。何もかも、自分たちで一つひとつ図面を引いて作り出していくほかはないのである。その上、東通工の機械作業場には小型の加工装置が数種類ある程度で、これではとても社内で作るのは無理である。そこで、社外の協力工場に加工を依頼し、それこそゼロから出発して、水素でゲルマニウムを還元する酸化ゲルマニウム還元装置、それの純度を上げるためのゾーン精製装置、切断機(スライシングマシン)と、一連の製造装置を作り上げていった。

 初めて東通工のトランジスタが動作したのは、岩間がアメリカから帰って来る1週間前だった。ベル研究所のショックレー博士たち(ウィリアム・ショックレー、ジョン・バーディン、ウォルター・ブラッテンの3人が、1947年にトランジスタを発明)が最初に作ったのと同じ型の、ポイントコンタクト(点接触)型のトランジスタである。測定に使う装置は手製のものである。

 電流計の針が振れた時の皆の喜びは、大変なものであった。しかし、「こんな早くにトランジスタができるとは……」。誰しもが持った感慨であった。続いて、すぐにジャンクション(接合)型ができたが、帰国した岩間も、初めは半信半疑であった。ゲルマニウム結晶を見ても、「これが、本当にゲルマニウムか?」と、どうもピンと来ないようだ。正直な話、発振器のメーターが振れるのを見て、「ああ、これならどうやらトランジスタらしいな」と、やっと認識できたようであった。


第3話 社運を賭けて

 それにしても、大した決断であった。井深や盛田が「トランジスタをやろう」と決意した時には、東通工はテープレコーダーでは多少名前は知られていたが、会社設立から6年しか経っておらず、資本金も1億円に満たない小さな会社なのだ。果たして、ものになるかどうかも分からないトランジスタに、東通工は当時の会社規模としては、思いも及ばないほどのお金と人手をかけてスタートしたのだ。

 とにかく、お金がかかった。経理の担当部長が研究・開発費を工面するため、銀行に説明に行くことになったが、トランジスタをどう説明して良いか分からない。盛田は、困ったようすの経理部長を見て、アメリカの雑誌など方々から集めてきた文献をドサッと持ってきてくれた。「これを先方に見せて、説明してこい」というわけだ。仕方なく、それを持って銀行に行ったが、これには先方の支店長も頭を抱えてしまった。支店長としては、貸さないで、東通工の新事業の機会をなくすようなことはしたくない。しかし、いくらアメリカの文献をたくさん持って来られても、トランジスタとはいかなるものか分からないうちは、貸してもよいという理由が見当たらないのだ。結局、銀行の本店の審査部へと、この件は回されることになった。

 今度は、上司の太刀川が同行し、説明のため審査部まで出向いて行った。
「トランジスタというのは、真空管の代用品でしょう」。明らかに軽蔑したような口振りで審査部の担当者は言う。“代用品”というのは、戦後物資が不足していた折、本物に代わるものとして出てきた類似品のことを言う。太刀川たちは何度も「真空管とは違うものだ。代用品ではない」と説明した。それでも、分かってもらえない。とうとう、井深を引っ張ってきて説明させた。井深の説明は、大変オーソドックスなものだった。

 「物が動くことを動作すると言う。動くということには摩擦が付きもの。摩擦が起こると物質は減る。この減るということが、故障の原因になる。トランジスタは、物が動いて動作するのではない。分子が変わることによって真空管と同じ働きをするものだ。そのため、トランジスタには故障がない。真空管に比べて数段も小さく、構造が簡単な上、頑丈である。しかるに、真空管とは全然別のものである」。そういったことを、延々3時間近く話した。こうして審査部の人たちを口説きに口説いて、やっと納得してもらうことができた。

 岩間がアメリカから帰って来るのと前後して、ジャンクション・トランジスタができた。ここまでできれば、基礎研究の段階を抜け、いよいよラジオ用のトランジスタが目標となる。ラジオとなると、トランジスタは途端に難しくなる。もっと高い周波数を扱えるトランジスタ、つまりグロン(成長)型のものをめざさなくてはならないのだ。そのため、これまでは半自動であったり、人の勘に頼っていたゲルマニウム結晶の引き上げ、表面研摩といった操作を、より正確にするため、それぞれの装置の製造に取りかかっていった。


第6章 第3話 幻の“国連ビル”ラジオ

 盛田は、2ヵ月の渡米中に、アメリカ向けマイクロホン1,000個、放送取材用テープレコーダー10台の輸出契約を完了した。さて、サンプルとして持って行ったTR-52であるが、こちらのほうは、アメリカの大きな時計会社「ブローバー社」から引き合いが来た。

 「その値段で当方はOKだ。10万台のオーダーを出そう」。即座に商談は成立するかに見えた。ところが盛田は、相手の出した条件が気に入らない。「SONYでは売れない。当社の商標を付けさせてもらうよ。何しろアメリカでは、SONYといっても誰も知らないんだからね」。これが条件だった。「絶対に断るべきだ」。盛田の気持ちは決まっていたが、こんな大きな商売だ。盛田の一存で断るわけにはいかない。ホテルに帰って、すぐ日本に電報を打った。「10万台の注文を受けた。しかし、それには彼等のブランド名を付けなければならないという条件が付いているので、断るつもりだ」。

 折り返しすぐに返信が来た。「10万台の注文を断るのは、もったいなさすぎる。名前なんかいいから契約を取ってこい」という内容だ。盛田にもこの気持ちは痛いくらい分かる。だからといって説を曲げることはできない。もう一度「断りたい」と打電した。それでも結論が出ない。ついに盛田は日本に電話をかけた。「絶対に向こうの商標を付けるべきではない。せっかくSONYという名を付けたんだ。われわれはこれでいこうじゃないか。第一、10万台の注文をもらったって、現在の東通工の態勢ではできやしないじゃないか」。手持ちの少ない米ドルを使って、電話までかけて説得したのだ。やはり、断ることにして、盛田は注文先の会社に行き、その旨伝えた。

 「誰がSONYなんか知っているんだ。自分の所は50年かかって、世界中で知られるようなブランドにしたんだ」。先方の社長は盛田のことを、いかにも「商売を知らないやつだ」というかのように笑って言った。「それでは、50年前、何人の人があなたの会社の名前を知っていたのでしょう?」。盛田は反論した。「わが社は、50年前のあなた方と同様に、今50年の第一歩を踏み出したところだ。50年経ったら、あなたの会社と同じくらいにSONYを有名にしてみせる。だから、この話はノーサンキューだ」。東通工の将来を考えると、目先の利益だけを考えていても仕方がないのだ。この話は、結局なかったことにして、盛田は帰路に就いた。1955年4月のことであった。

 ところで、このTR-52、愛称を"国連ビル"と言った。キャビネット前面の白い格子状のプラスチックが、国連ビルをイメージさせるところから命名されたものだ。そして盛田が北米から帰国してすぐの5月、思わぬ事件が起きた。

 5月といえば、初夏である。気温もだんだん上がってくる。その気温の上昇とともに大事件が勃発したのだ。キャビネット前面の格子(国連ビルの窓々)の部分、白いプラスチック全体が黒色の箱から次第に浮き上がってきた。1台だけではない。これまで作った100台のうちのほとんど全部が曲がり始めている。これには、井深たち全員が色を失ってしまった。これでは売り物にならない。無念ではあったが、この東通工製トランジスタラジオの1号機・TR-52は、正式発売を目の前にして断念せざるを得なくなったのである。

Sony History ②

 このキャビネット事件を良い教訓に、外形や色のみのデザインから本格的な材料研究に着手し、きれいで強く、永久的に変形しないものへの実現に努力が重ねられていった。その年の9月、装いも新たにTR-55が、日本初のトランジスタラジオの栄誉を担って発売されたのである。


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(感想・意見など)

 たまたま見つけたSony Historyの一部だけご紹介しました。東京通信工業(ソニーの前身)は70数年前に確か29名で創業しました。いろいろ面白い話が満載です。興味のある方は「Sony History」で検索してください。


以上


Sony History①

Sony History①
 朝日新聞2019年8月20日

 「終戦後に宮内庁の初代長官を務めた故・田島道治(みちじ:1885~1968)が昭和天皇との約600回に及ぶ面会のやりとりを詳述した文書を残していた」

 この記事を読んで、「田島道治」という名前にひっかかった。聞き覚えがある。ネット検索してみると、後藤新平の秘書、銀行頭取、貴族院議員、宮内庁長官などのあと、ソニーの初代会長をしている。

 そこで、「田島道治 ソニー」で検索してみると次の文書が出てきた。転載します。

Sony History①
 日経新聞2020年2月15日

 2020年3月期日本の電機業界の連結業績は、売上高①日立8兆7千億円、②ソニー8兆5千億円、③パナソニック7兆7千億円、④三菱4兆5千億円。営業利益①ソニー8800億円、②日立6690億円、③パナソニック3000億円、④三菱2600億円。

 日立と並び称された東芝は、売上高が3兆4300億円で6位、営業利益1400億円で6位。昔、評論家の大宅壮一は、東芝とソニーを比較して、「ソニーはモルモット」と言った。それが逆転。経営者が悪いとこうなる。栄枯盛衰。


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Sony History①



第3章 第1話 テープレコーダーに惚れた男

 「東京通信工業(ソニーの前身。以下、東通工)という会社があります。ここには若くて優秀な人材が大勢いて、しかもしゃべるとそれが記録され、すぐに聴くことができるというおもしろい機械の研究をしています。この会社は、現在は名もなく小さな会社ですが、将来きっと伸びるに違いありません」

 倉橋正雄(くらはし まさお)は、田島道治(たじま みちじ。東通工の初代社長である前田多門の親友で、後にソニーの初代会長)から東通工の話を聞き、この会社に少なからず興味を覚えた。

 倉橋は、尾張徳川家の財産管理をしている「八雲産業」の社員である。尾張の殿様とはいえ、戦後の暮らしは楽ではない。財産の売り食いのようなタケノコ生活が続いていた。いつまでもこんなことではいけない、何とか財産を効率良く運用して、徳川家のために役立てたいと、倉橋は前々から思っていた。このことを、当時同じ八雲産業の相談役をしていた田島に相談した折に出たのが、先の東通工の話であった。

 ちょうどその頃(1950年)、東通工は資本金を360万円から、1,000万円にしようとしている時であり、田島は自分も相談役として籍を置いている東通工の将来性を見て、倉橋にその増資の話に応じてみてはどうかと勧めたのだ。

 取りあえず50円株で1万株、50万円の出資をすることに決めた。「出資するからには、東通工がどんな会社か見ていらっしゃい」という田島の言葉で、倉橋は品川・御殿山のバラック工場に井深と盛田を訪ねて行った。

 出資の話も一段落し、G型テープレコーダーの試作機や、その他の東通工製品を見せてもらった後、雑談に移った。その時倉橋は、この人たちなら何か良い知恵を貸してくれるのではないかという期待から、「徳川家のためになるような、新しい仕事を何かやりたいと思っているのです」と率直に心中を明かしてみた。その時、倉橋の頭の中は、先ほど見せてもらったばかりのG型のことでいっぱいだった。『何とか、あのテープレコーダーを八雲で売ることはできないか……』。そして会社に戻ってからも、思うのはG型のことばかりだ。

 一度ならず二度三度と、東通工に足を運んでは話し、「ぜひ、これを売らせてください」と頼んでもみた。しかし、東通工ではなかなか「うん」と言ってくれない。井深たちにしてみれば、増資したばかりといっても、そんなにお金に余裕があるわけではない。倉橋に本当に支払い能力があるのかどうか不安である。それを察した倉橋は「尾張徳川家は、名古屋に代々の財宝を集めた美術館を持っています。ここには、国宝として素晴らしい物がたくさん置いてあります。これを担保にすれば、1億や2億の金はすぐにできます」と大きく出てみた。

 倉橋には、それらの美術品を担保にする気などさらさらない。しかし、この言葉で井深たちの不安が拭い去られれば、それに越したことはないのだ。「この機械が完成した時には、どうぞ50台当社で買わせてください」という倉橋の願いがかなって、1台12万円で、50台やっと買うことができた。600万円の小切手を切って、すぐに50台のテープレコーダーを、東京・目白の徳川家の倉庫に運び込んだ倉橋は大喜びであった。

 翌日から、徳川侯の紹介状を携えて倉橋はあっちこっちとG型を見せに回った。さすが、徳川家で紹介してくれただけのことがあり、立派な所ばかりだ。売値は16万8,000円。誰も「高い」と言う人はいない。

 「これは、見たこともない面白い機械ですなあ」と口々に、感心の言葉を語ってくれる。しかし、売れない。倉橋が足を棒にして回っても、やはり1台として売れなかった。


第2話 てごわい相手

Sony History①


 ところで、倉橋同様、増資の話で東通工を訪れた人間がもう1人いた。東京芸術大学の学生、大賀典雄(おおが のりお)だ。

 大賀は、音楽学校の生徒でありながら、メカには結構うるさい。海外のいろいろな文献をよく読んでおり、外国製のテープレコーダーの事情をよく知っていた。それで、メカはどうなっているだの、アンプはどうだ、テープの性能はどの程度かと、いろいろと質問をした上、テープレコーダーはこうあるべきではないかという話までして帰った。この時には、井深のほうに時間がなく、ちょっと話をした程度であった。

 大賀は「音楽学校にはテープレコーダーは必需品である。バレリーナが鏡を見てレッスンをするように、音楽家は鏡の代わりにテープレコーダーを使って練習をしなくては駄目です」と、しきりに説いて回っていた。しかし、当時の貨幣価値からいくと、テープレコーダーは高額商品である。そうやすやすと買ってもらえるようなものではない。それでも、やっと買っても良いという許可が下りた。

 G型は、当時のテープレコーダーのレベルからすれば、そこそこの性能を示していた。しかしそれはスピーチや普通に人がしゃべる言葉を録音するのなら差し支えないという程度のものだ。大賀たちのような音楽を志す人間にとって、G型の"音"では不満足な部分が多い。一番致命的なのは、ピアノの音のようなトランジェントといった立ち上がりのある音を録ると、皆かすれてしまうということだ。これでは、音楽的なものを録るのに限界がある。そこで、大賀たちは協議し、東京芸術大学で使う際に改良すべき箇所を挙げて、仕様書を作り、倉橋を通じて東通工に提出しておいた。周波数特性はこのくらいなくてはいけない、特にワウ・アンド・フラッター(速度の変動。大きな周期のものをワウ、小さな周期のものをフラッターと呼ぶ)についてはこれ以下でなくては使い物にならない、といったようなことを書いておいた。

 この仕様書の打ち合わせのために、大賀は再度、東通工を訪れた。この時には井深ともゆっくり話をする機会が持て、音を録音する際の必要条件だとか、ワウという音の触れをより少なくするためにはインピーダンスローラーを付けてもらわなくては困るといった要求を、岩間(和夫)、樋口(晃)を加えて十分に話し合うことができた。

 井深は、音楽学校からかなり面倒な注文が来て、その学生が会いに来ているというので、大賀に会ったのだが、見ると体重70kgはあろうかという音楽家らしからぬ大男。しかし所せんは"音楽学校の学生さん"だろうと、井深は、専門用語でまくしたてていい加減にあしらうつもりでいたところ、反対にすっかりかみつかれてしまった。「こりゃあ、テープレコーダーの知識は玄人(くろうと)以上の本物だ」。井深は、この世話好きで、親分肌の大賀が気に入ってしまった。それ以来、大賀は誰が任命した訳でもないのに、無給の監督官として東通工に出入りするようになっていった。


第3話 できるまで帰って来るな

 盛田や倉橋は、これまでの販売方法を省みた。いくら井深や盛田らが技術的興味を持って、新しいものと思って開発しても、お客さまにとって使い方の分からないものは、いくら良いものでも買ってくれないということが分かってきた。そこで、需要を喚起するためにはどうすべきかと、使い方の勉強を始めた。たまたま、アメリカのテープレコーダーに付いてきたパンフレットで『テープレコーダーの999の使い方』という小冊子が手に入った。これは簡単なパンフレットであったため、詳しくは書いてないが、アルファベット順にAなら航空機、Bなら美容院というように、いろいろな使い方が書いてある。盛田と倉橋は、連日これで研究し、テープレコーダーは極めて広い社会層で使えるという確証をつかんでいった。

 さて、それと並行して機械の改良もなされていった。G型は一般商品としては考えられないくらい大きく重い上に、値段も高い。井深、盛田たちが集まって、テープレコーダーを学校や一般家庭に普及させるには、どこを改良していくべきか相談を始めた。「G型のように、あんな大きなものではいかん。もっとポータブルなものを作れば必ず売れるよ」。井深のこの言葉で、木原(信敏)はその晩家に帰って徹夜で考えた。このレバーをこうすればこうなると、考え出したら眠れなくなった。翌日、会社に着くとすぐ図面を引き、それを基に、不完全ながら試作機を2台作った。それを井深に見せにいくと、「完成しないうちは、帰ってきちゃいかん」と厳命され、木原たちはこの未完のテープレコーダーを抱えて、熱海にカン詰にされてしまった。会社にいれば電話もかかってくる、人と応対もしなくちゃいけない。そんな雑事から解放して、仕事に専念させてやりたいという気持ちからの言葉であった。この時の、"熱海のカン詰"ででき上がったのが、本格的普及型テープレコーダーのH型であった。


第4話 溝を掘って水を流せ

Sony History①

完成が待たれた普及型の1号機、H型は1951年3月に発売の運びとなった。重さ13kg、木製のトランク型のケースに入っている、なかなかしゃれたデザインだ。それもそのはず、このH型、東通工としては初めて、社外の工業デザイナーに依頼した作品である。

 H型の完成により、学校への需要が増していった。これには、倉橋たちのテープレ
コーダーの使い方の普及・啓蒙活動が功を奏していったことも一因であった。

 その頃、日本では進駐軍の政策の一環として、オーディオ・ビジュアル・エデュケーションということが盛んに言われるようになっていた。オーディオはNHKラジオの教育放送で、ビジュアルのほうは映写機を全国の教育施設に貸し出して、戦前の観念教育から視聴覚教育に切り替えていこうという試みだった。

 その波に東通工も乗ることにした。ラジオの放送は不特定多数の人を対象に、一定の時間流される。これを、音の缶詰にして学校のカリキュラムに合わせれば、本当の学校教育になる。ちょうどタイミングよく、全国で放送教育研究大会が開かれていた。これは文部省とNHKが中心になって、全国の先生方により良い学校放送の指導をしていこうという趣旨で開かれたもので、東通工では、この大会にH型テープレコーダーを貸し出すことにした。東通工は金のない会社だが、井深も盛田もこういうことには理解がある。喜んで何十台も貸し出した。

 一方では、学校放送だけではなしに、もっといろいろな教科にテープレコーダーは使えるのではないか……。倉橋たちは、どうしたら最も有効な使い方ができるかを、文部省や学校の先生方と一緒になって勉強し始めた。そしてしばらく経った頃、倉橋は盛田に呼ばれた。「あなたのやっていることは、大変良いことだ。しかし、ただ勉強しているだけでは惜しい。ひとつ全国を歩いて、今まで勉強してきたことを話してみないか」

 倉橋は、東通工でつくった録音教育研究会の常務理事として、全国の教育の現場で"視聴覚教育のあり方"というテーマで講演をして回ることになった。この会は、財団法人でも何でもない、ただの会だ。実際どの講習会でも、倉橋は東通工のテープレコーダーをお買いくださいとは、ひと言も言わない。単に、視聴覚教育の重要性を説き、その教育上での録音機の使用法を説明し、講演して歩いたに過ぎない。

 この方法が良かったのか、講演の依頼がひっきりなしに続いた。現場から教えられることも結構多い。たとえば、ソロバンの読み上げ算では、均一な授業ができる上、テープレコーダーが読み上げている間、先生は生徒の間を回って指の使い方を指導できる。教室が騒がしく、何度注意しても収まらない時、テープレコーダーにその騷ぎを吹き込んで聴かせたら、一度で静かになったという報告もあった。この後も録音機があれば、これだけ活用できるという事例がたくさん出て、学校の必需品となっていった。

 『溝を掘って、水を流せ』の言葉通り、こうした普及活動の成果が実を結び、東通工のテープレコーダーは、瞬く間に全国の学校に広まっていった。このことから盛田たちは、本当の市場、最上の市場というのは市場開拓にほかならない。つまり、マーケットクリエーションがいかに企業にとって大事かということを体得していった。


第5話 盛田がつかんだ販売の教訓

Sony History①


 盛田たちの努力により販売体制も整い、東通工製品の全国販売が行われるようになった。ある日、盛田はおかしなことに気が付いた。九州地区に限ってテープレコーダーがよく売れるのだ。調べてみると、九州は炭鉱ブームで非常に景気が良く、そのため九州全域で金回りが大変良かったということが分かった。これはありがたいことではあったが、それが突然バッタリと売れなくなってしまった。国内炭の需要が減って経済状態が悪くなってきたのだ。

 これまで九州の売り上げがたくさんあったので、東通工ではそれにすっかり頼りきっていた。それが突然なくなってしまって、会社の規模の小さい東通工では大慌てである。どうやって、これをカバーしていくか。結局その時は、他の地域の売り上げを少しずつ上げていくことで、何とかしのぐことができた。「もしも、九州にだけ頼っていたら、東通工は潰れていたかもしれない」

 同じように、もしも、東通工が東京だけに頼っていて、大震災でも起きたらと思うと、盛田は、1地域にだけ頼った販売がいかに会社に危険であるかを考えざるを得なかった。「マーケットは広いに越したことはない。それなら日本だけでは危ない。日本より世界中に頼ったほうが安全だ。今はまだ、そんなことができる時期ではないが、いずれは世界にマーケットを広げなくては……」

広いマーケットさえ持っていれば、どういう状況が起きても、何とか自分たちの製品を消化してもらえる場所を見つけることができる。企業にとっては、マーケットが広いほうが安全だという考えに行き着いた。しごく簡単明瞭な答えのようではあるが、これまで販売の経験のない盛田たちにとってみれば、これさえも非常に貴重な教訓であった。

 東通工が、テープレコーダーをやってこられたのには「高周波バイアス法」という特許が大きく物を言っていた。特許があればこそ、市場を独占できる立場にあったのだ。ところが、特許には期限がある。盛田たちにとって、これは大問題であり、特許の期限の切れることを非常に恐れていた。しかし、その日は来る。期限が切れるという頃になって、大手の家電メーカーがテープレコーダーの生産を始めるという話が入ってきた。東通工とは比べものにならないくらい大きな会社がテープレコーダーを始めるとなると、これは、もう脅威以外の何物でもない。またしても、東通工は潰れてしまうのではないかという懸念が、盛田の脳裏をよぎった。

 ところが、奇怪な現象が起こった。その会社がテープレコーダーを売り出してキャンペーンを始めると、東通工の売り上げもどんどん上がっていったのだ。これには、一同首を捻るばかりだ。1年が経った頃には、東通工の売り上げは飛躍的な伸びを示していた。さらに、他の企業がこの市場に参入してくれば、してくるほどに売り上げの伸びがますます高まってくる。

 ここで、盛田たちは奇妙とも不思議とも思える教訓を得た。マーケットというものは、1企業が独占でやっていたのでは駄目だ。たくさんの企業が参加してきたほうが、市場はエキサイトする。東通工は、常に新しいものを作っていく企業だ。それだからこそ余計に、マーケットづくりは東通工1社の手で簡単につくり上げられるものではないということを確信した。

 むろん、東通工の製品が他社のものより、性能が劣っていたのでは話は別だ。しかし、少なくとも5年は早く取りかかっている。その間、他社よりも余計に努力をし、良い経験を積み重ねてきた分、東通工製のほうが優秀であり、値段の上でも対抗できるという自信があった。それさえやっていれば、競争相手が入って来ても恐れることはないのだ。いや、むしろ競争相手がいてこそ、自分たちも助けられるというものだ。 この2つの教訓を得て、次第に盛田にも"販売"とか"マーケット"ということが分かってきた。


以上


『イノベーションのジレンマ』

怖い『イノベーションのジレンマ』
 翔泳社 2160円

『イノベーションのジレンマ』
 日経新聞2020年1月26日

なぜ成功した企業ほど新興勢力によるディスラプション(創造的破壊)に弱いのかなぜ創造的破壊は大企業から生まれにくいのか――」

 「IT(情報技術)業界などで繰り返されてきた業界リーダーの歴史を分析した『イノベーションのジレンマ』を1997年に著して以来、経営者の教祖的な存在だったクレイトン・クリステンセン米ハーバード大経営大学院(HBS)教授が23日、死去した」

『イノベーションのジレンマ』
 日経新聞2020年1月26日

 「企業のイノベーションに関する研究で知られる米ハーバード大経営大学院教授のクレイトン・クレステンセン氏が1月23日、米東部マサチューセッツ州ボストンで死去した。67歳だった。米メディアによると、白血病にため闘病生活を送っていた」 (合掌) 

怖い『イノベーションのジレンマ』
 週刊ダイヤモンド2020年1月25日号 『パナソニック凋落』

『イノベーションのジレンマ』
 日経ビジネス2020年1月27日号 『どうなってる? Panasonic』

『イノベーションのジレンマ』
 週刊現代2020年2月1日‐8日号 『名門・パナソニックの苦悩を考える』

 「出口はあるのか?27万人を率いる津賀体制8年目の真実」

 日本のためにもパナソニックに立ち直ってほしいが、成果が見えるまでに5~6年はかかるだろう。

『イノベーションのジレンマ』
 日経新聞2019年8月4日

 マイクロソフトCEO サティア・ナデラ氏

 「クラウド」貫き巨艦復活


 「2019年6月期決算は売上高、営業利益ともに過去最高。『クラウド』と唱え続けた成果は明確に表れた。ビル・ゲイツ、スティーブ・バルマー両氏に続く米マイクロソフトの3代目の最高経営責任者(CEO)に就いて5年あまり。『GAFA』の陰で停滞していた巨艦を完全復活に導いた

 「インドのハイデラバード出身。大げさなパフォーマンスやジョークで場を盛り上げるタイプではない。大事なことは目を見開いて率直な言葉で繰り返す」

 「クラウドを軸にした事業の再構築と同じぐらい心血を注ぐのが『傲慢』だった企業文化の変革だ」

 「問題はここから。『すべて学んだと思って立ち止まったらそこで終わり』」 (シリコンバレー=佐藤浩実さん)

『イノベーションのジレンマ』
 日経新聞2019年8月5日 論説委員 西條 都夫さん

 再起動するマイクロソフト
 文化は戦略にまさる


 「変転の激しいテクノロジー市場で『落ち目』になった企業が再浮上するのは至難の業だ。一世を風靡した米国のDECやサン・マイクロシステムズは再編の海に沈み、かつてのヒューレット・パッカードや日本の富士通にも往時の勢いはない。一時は『奇跡の復活』と言われたIBMも近年は息切れの印象が濃い」

 「そんな歴史に照らすと、過去数年の米マイクロソフトの復活劇には驚嘆せざるを得ない。『ウィンドウズ』で世界のIT市場を牛耳った1990年代。グーグルやアップルに主導権を奪われ、輝きを失った21世紀の最初の15年。そして近年の再加速――」

 「2019年6月期の売上高、純利益ともに過去最高を更新した。足元の株式時価評価額は1兆ドルを超えGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)を抜き世界一に返り咲いた。業績だけでなく、社会性も身につけた。今では理非をわきまえた大人になった。フェイスブック、グーグルが個人情報の扱いや競争制限行為で各国当局から目をつけられているのとは対照的に、マイクロソフトを『悪の帝国』とみなす論調はほぼ皆無だ」

 「この変貌の裏に何があるのか。株価チャーと経営者の任期を重ね合わせれば、インド出身のサティア・ナデラ最高経営責任者(CEO)が14年2月に3代目トップに就任してから快進撃が始まったことが分かるだろう。同社の幹部によると、ネデラ氏が部下に声を荒げたり、怒りのメールを送ったりする場面は想像できないという」

 「そんなナデラCEOが信奉するのが、ピーター・ドラッカーの残した『文化は戦略にまさる』という言葉だ」

 「社員一人ひとりが難題に立ち向かい、乗り越えようとすることで、個々人が伸び、その結果、会社も伸びる


 「マイクロソフトの歩みを紹介したのは、一時はライバルに置いていかれ方向性を見失った企業でも、適切なリーダーを得て、企業文化を変革できれば、再浮上は不可能ではないと、日本の企業人に訴えたかったからだ」


以上


怖い『イノベーションのジレンマ』

怖い『イノベーションのジレンマ』
 翔泳社 2160円

怖い『イノベーションのジレンマ』
 週刊ダイヤモンド2020年1月25日号 『パナソニック凋落』

 わたしは元来、アンチ巨人、アンチトヨタ、アンチ松下であった。しかしそうも言っておられなくなった。巨人はともかく、日本のためにトヨタ、松下(パナソニック)には頑張ってもらわなくてはならない

 サラリーマン時代、BS付きの大型テレビ、BS付きのビデオを買い、BS,CSのアンテナも買った。しかし、見ることはなかった。考えてみると、1日十数時間仕事をし、しょっちゅう休日出勤をしていたのでは、見る時間がなかった。合計10万円ほどもどぶに捨てたようなもの。買ってはいないが、4K・8Kテレビも同じようなものではないか。医療用(手術)などには有用だとは思うが、ふつうに家庭でテレビを楽しむには必要ない。それよりいいコンテンツ(中身)がほしい。こういうことはザラにある。

 家にアイリスオーヤマ(以後AOと略)の製品が増えてきた。AOでは東京と大阪に開発拠点を設け、東京では東芝やソニーなど、大阪ではパナソニック、旧三洋、シャープなど一流メーカーを退職した社員を安く雇っている。また大手メーカーが4~5人で開発するところをAOでは1人で担い、決断も早く、機能も本当に必要と思われるものだけに絞り、中国の工場で作るので、相当安く製造できる。開発者は、転勤がないので少々給与が安くても問題ないし、口出しする者も少なく、裁量の幅が広いのでやりがいがある。

 一流メーカーには「オレはこうやって成功した」だの「コンプライアンスがどうのこうの」など、小うるさい小舅(こじゅうと)がワンサカいるからね。

怖い『イノベーションのジレンマ』
 現在エコキュートの相見積もりを依頼している。

 いまは灯油ボイラーを使っている。今の家を建てた最初からのはずなので35年にもなる。ノーリツの人に型番を伝えると、かなり稀なケースで、「それは当たりですね」と言われた。急に故障してそれから手配したのでは〝風呂なし〟が10日以上も続く可能性があるので、エコキュートに換えることにした。

 2社に見積もりを依頼したが、エコキュートといっても色々な機能、容量、やり方があり、現在のところ、41万円から72万円と相当な幅がある。メーカーはどれも一流なので、機能、容量、やり方などを比較考量して、数日中に決めるつもりである。9月にエアコンを2台換えたばかり。物入りである。

怖い『イノベーションのジレンマ』
 昨日、ブログを書こうとしたらコンパクトカメラが動かなくなった。

 今朝、カメラのキタムラへ持っていったら、「落としたか何かして筐体(きょうたい)が歪み、レンズが出なくなったものと思われます。修理するよりも買い替えたほうがいいですよ」と言われた。即決で同一機種に買い替えることにした。

 機種はソニーサイバーショットDSC-WX350。20倍ズーム等機能に文句はない。付属品はそのまま使えるし。これで3台目。発売は2014年3月なので約6年間経過。コンパクトカメラは競争分野ではなくなったのだろう。値段は税込み23540円、少しづつ値段は下がっているようだが、この分野ではソニーは儲けている。

 ソニーのカメラはミラーレス分野で健闘している。






  怖い『イノベーションのジレンマ』


 血のにじむような地道な努力を重ねて一流企業になったとしても、そこには陥穽(かんせい:おとしあな)が待ち受けている。

 池田信夫さんのブログを転載いたします。
 

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『イノベーションのジレンマ』
2020年01月25日14:00 池田信夫


著者クレイトン・クリステンセンが死去したので更新。


経営学に古典と呼べる本はほとんどないが、本書は1997年に出版された後、むしろ年とともに評価が高まっている稀有なビジネス書だ。ジョージ・ギルダーやアンディ・グローブが絶賛し、『ビジネスウィーク』などが特集を組み、多くの賞を受賞した。
 
本書の特色は、企業の成功ではなく失敗を分析した点にある。特に印象的なのは、著者がくわしい実証研究を行ったハードディスク業界のケースだ。大型コンピュータ用の14インチ・ディスクのトップ・メーカーは、ミニ・コンピュータ用の8インチ・ディスクの開発に遅れをとってすべて姿を消し、8インチの主要メーカーのうちパソコン用の5インチで生き残ったのは一社だけ、そして3.5インチでも…というように、ディスクの世代が変わるごとに主要メーカーがすっかり入れ替わってしまった。
 
それは、決して経営者が怠慢だったからでもなければ、技術が劣っていたからでもない。むしろ、すぐれた経営と高い技術を持った企業ほど、こうした落とし穴に落ちやすい。その原因は、新たに登場する「破壊的技術」が単価が安く、技術的にも劣ったものだからである。
 
たとえば、5インチのハードディスクとパソコンが登場したとき、それは8インチのディスクを使うミニコンとは性能面で比較にならない「おもちゃ」であり、用途もはっきりせず、利益も少なかった。それを相手にせず、在来の「持続的技術」の付加価値をさらに高めるという経営判断は、それなりに正しかったのである。
 
また技術者も「登れるが、降りられない」。高品質・高価格の製品は開発意欲をかきたて、経営者にも通りやすいが、低品質・低価格の技術を提案する技術者は少ない。それを開発するのは、新しいベンチャー企業だ。
 
では、在来企業は顧客の要求を無視したのだろうか? 逆である。ミニコンの顧客は、容量の少ない5インチのディスクよりも、既存の8インチ・ディスクの大容量化を望み、メーカーはそれに忠実に従っただけだ。つまり破壊的技術は、企業と顧客からなる「バリュー・ネットワーク」のアーキテクチャ(構成)そのものを破壊するのだ。
 
現実に企業間で行われている競争は、経済学の教科書に出てくるような同じ市場の中での対等な競争ではなく、異なるアーキテクチャどうしの「制度間競争」である。ところが既存企業の経営者は、それを市場の中でしか見ることができないために没落するのである。
 
こうした事例は、ハイテクだけでなく、小売店、オートバイなど、あらゆる業界に見られる。そこで「法則」といってよいほど繰り返される失敗のパターンと、何度それを見ても歴史に学ぶことのできない企業の悲劇は、ほとんど物語のようである。
 
そして今、インターネットは、電話会社が軽蔑しているうちに低品質・低コストの通信によって電話を飲み込み、情報通信のあらゆるモデルを破壊しつつある。次の犠牲者は放送局だろう。HDTV(高精細度テレビ)は時代錯誤の持続的技術の典型であり、それを破壊するのはモバイルとインターネットだ。
 
著者も日本語版への序文でのべているように、かつての日本製品は肥大化した米国企業を倒す破壊的技術の役割を果たしたが、今では倒される側に回ってしまった。残念ながら、既存企業が自己改革によって危機を乗り越えた例はきわめて稀だ。日本経済が復活する道は、新しい世代の企業による「創造的破壊」しかないだろう。


(以上)


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【内容紹介】

米国の経営手法に革命を起こした「現代の古典」が、増補改訂版として刊行

「偉大な企業はすべてを正しく行うが故に失敗する」

業界トップ企業が、顧客の意見に耳を傾け、新技術に投資しても、なお技術や市場構造の破壊的変化に直面した際、市場のリーダーシップを失ってしまう現象に対し、初めて明確な解を与えたのが本書である。

著者、クリステンセン教授が掲げた「破壊的イノベーションの法則」は、動かしがたいほどに明晰な事例分析により、米国ビジネスマンの間に一大ムーブメントを引き起こした。

この改訂版では、時代の変化に基づく情報更新と破壊的イノベーションに対応するための組織作りについて、新章が追加されている。
【原書タイトル】The Innovator's Dilemma


クリステンセンは、優良企業が合理的に判断した結果、破壊的イノベーションの前に参入が遅れる前提を5つの原則に求めている。

1.企業は顧客と投資家に資源を依存している
既存顧客や短期的利益を求める株主の意向が優先される。

2.小規模な市場では大企業の成長ニーズを解決できない
イノベーションの初期では、市場規模が小さく、大企業にとっては参入の価値がないように見える。

3.存在しない市場は分析できない
イノベーションの初期では、不確実性も高く、現存する市場と比較すると、参入の価値がないように見える。

4.組織の能力は無能力の決定的要因になる
既存事業を営むための能力が高まることで、異なる事業が行えなくなる。

5.技術の供給は市場の需要と等しいとは限らない
既存技術を高めることと、それに需要があることは関係がない。


 以上


日産低迷の責任の大半はゴーンにある


 日産低迷の責任の大半はゴーンにある


 先日のブログにこう書いた。

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中東・東アジア情勢まとめ
 テレビ朝日コメンテーター・玉川徹氏。

 私は中学生からの日産ウォッチヤー。先日、玉川氏は、「経営者は結果がすべて。日産の現経営陣になってから、トヨタの株は上がり、ホンダは横ばい、日産は大幅に下落している」と2度発言、ゴーンを持ちあげた

 真正のアホ。クルマの開発には3~4年はかかる。私は車好きであり、また、マイカーが15年以上となり買い替えを考えている。しかし、現在の日産には検討に値するまともなクルマがない。古いクルマばかり。このところ新車がほとんど出ていない。これはゴーンの責任である。


 玉川氏はコメンテーターでありながら、経営ということが全く分かっていない。無知。

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日産低迷の責任の大半はゴーン氏にある
 日経新聞2019年7月25日

 日産、営業益9割減
 4~6月人員削減積み増しへ
 主力の米国で不振

日産低迷の責任の大半はゴーン氏にある
 日経新聞2019年7月26日

 日産、戦略迷走のツケ
 新興国低迷→米で値引き依存
 拡大路線が裏目に

日産低迷の責任の大半はゴーン氏にある
 毎日新聞2019年7月26日

 ゴーン拡大路線と決別
 日産1.2万人削減へ
 過剰能力200万台分

日産低迷の責任の大半はゴーン氏にある
 産経新聞2019年7月26日

 日産、世界で1万2500人削減
 拡大路線 転換に痛み
 販売低迷、回復は険しく

日産低迷の責任の大半はゴーンにある
モーターファン別冊「ヤリスのすべて」より

 トヨタ・ヤリスの開発陣。1車種を百人以上の開発陣が3~4年かけて開発する。
 費用は数百億円と言われている。エンジンも含めすべて新開発すると五百億円!?
 現在の日産にはその余裕がない。開発陣や販売陣がかわいそう(売れるタマを作れない、売れるタマがない)。

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日産低迷の責任の大半はゴーン氏にある
 ソニーハンディカムCCD-TR55(1989年6月発売)

 一般にはあまり知られていないが、ソニーは半導体メーカーである。創業間もなくから半導体に注目していた。半導体開発を率いたのがのちにソニー第4代社長となった岩間和夫である。1970年からCCDイメージセンサ開発の指揮をとった。数百億円と8年間の歳月をかけ1978年、開発に成功。岩間は1982年に腸がんにより63歳で亡くなったが、1989年からのCCD-TR55の爆発的ヒットをもたらした。フェリカ(非接触型ICカード)もソニーが開発した。

 日本は1980年代~1990年代半ばに半導体王国を築いたが、その後没落。現在日本メーカーで唯一気を吐いているのは、ソニーのイメージセンサーのみである。世界シェアの過半を取っている。今後、自動運転車の普及がみこまれ、激烈な競争環境下にある。

 岩間和夫の墓にはCCDチップが埋め込まれているという。今年は岩間がCCD開発を志してから半世紀になる。CCDの開発に成功していなかったなら今のソニーはなかった。一流の経営者とはそのようなものである。





 日経新聞2019年7月25日一面トップ記事を抜粋してご紹介します(強調は引用者)。


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日産自動車の業績悪化に歯止めがかからない主力市場である米国での販売が振るわなかったうえ、自動運転や電動化といった次世代技術に向けた開発費もかさんだ業績悪化を受け、人員と生産能力の削減に踏み切る人員削減の規模は、1万人を超える可能性がある。


 米国で自動車販売が総じて減速し、欧州でも環境規制の強化が痛手となった。自動運転など自動車の新潮流を示す「CASE」の影響で開発費がかさみ、米中貿易摩擦の余波による原材料高や円高も響いた。


 逆風のなか、(日産)独自の弱さもあらわになった。日産はモデルチェンジから年数がたった「高齢」の車種が多い米国で「値引き依存」から脱却しようと、販売奨励金を減らしたところ、客足が予想外に落ち込んだ

 元会長であるカルロス・ゴーン被告の指揮で、米金融危機後に業績回復を急ごうと新興国での生産能力を大幅に拡大した。この反動で新車開発にかける資金は細り、自動車に求められる環境・安全性能が高まるなかで、日産車の商品力の相対的な低下が進んだゴーン元会長の不正問題でブランド力も悪化した。

 中国事業は営業損益には影響しない。日産は中国事業を現地メーカーとの合弁会社で運営し、持ち分法投資損益として扱うためだ。

 早期退職も含めて人員削減の規模を拡大し、生産能力は新興国を中心に約1割減らす


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(感想・意見など)

 結局は玉(クルマ)である。魅力的なクルマを出すしかない。新興国を中心に過剰能力(人員・車種・取引先・工場など)を削減するにしても時間も金もかかる。一方で「高齢」の車種を新しくしていかねばねらない。それにしても1年間にモデルチェンジできる数は限られる(3~5車種か?)。すべてを正常に戻すには5年はかかる。一方、自動運転などの新潮流(CASE)にも対応していかねばならない。これは日産単独では不可能。トヨタでさえいろいろな企業と提携している。極めて厳しい道である。

 ゴーンは日産に18年間君臨した。現在の日産低迷の責任の大半はゴーンにある


以上


プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子、足立康史、竜崎伸也ほか多数。

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