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御師(おし/おんし)について

御師(おし/おんし)について

(伊勢神宮)

 1週間ほど前に書いたが、いま佐伯泰英さんの「居眠り磐音(いわね) 江戸双紙」中毒にかかっている。本の中に伊勢御師(普通はオシと呼び、伊勢の場合だけオンシという)がチラッと出てくる。

 以前からこの「御師」が気になっていたので調べてみた。


 「広辞苑」では、①祈祷に従う身分の低い神職または社僧、②伊勢神宮神職で、年末に暦や御祓(おはらえ)を配り、また参詣者の案内や宿泊を業とした者、とある。

 
 「神道史大辞典」の「伊勢講」の欄から―「…民間における伊勢講は、部落共同体に根をおく素朴な信仰形態を基盤にしながら成立し、やがて参宮方式をとる組織へと発展したものと思われる。そしてその媒介役を果たしたのが伊勢御師であった」

 「伊勢神宮は、もともと民間の私幣(贈り物、お供え物)をかたく拒んでいた。そのため律令体制下の古代では民衆の参宮は不可能であり、ほとんど無関係な存在であった。それを民間に紹介し国民の各層に浸透させ日本列島の各地に普及させたのが伊勢御師であり、その時期は中世以降であった」

 「古代国家によって生活が保障された神宮の祠官たちは、その崩壊によって自活の道をえらばねばならなくなった。そこで多くは、伊勢神宮の霊験を説き、その信仰を伝道するための御師となって諸国を巡回し、神符・神札・暦などを配布し、その代償として米銭などの初穂料を徴収した。これらが神宮経営の経済を支え、祠官の活計を維持することとなった」

 「一方、御師の地方檀回によってはじめて神宮の存在を知った民衆は、その指導のもとに伊勢神宮崇拝の信仰集団を組織するとともに、御師との間に緊密な師檀関係を結ぶに至った。この傾向は戦国時代から江戸時代にかけてますます強まり、地方住民の遠隔地参詣の要求とも合致して、伊勢参宮の風を助長した」

 「特に六十年ごとに訪れる御蔭年(おかげどし)を期してのお蔭参りや、青年子女・小前・奉公人などの抜け参りが流行し、江戸時代中期には参宮道者の往来で道路が狭くなるほどの盛況を呈したといわれる」



 御師は、信者獲得のため全国各地に派遣され(もちろん徒歩)、現地の伊勢講の世話や、彼らが伊勢参りに訪れた際は自分の宿坊でこれを迎え入れて参拝の便宜を図った。全盛期には1000軒近くあったとも言われる。

 今でいえば、宣伝マン、旅行代理店、ホテル経営、神宮出張所を兼ねていた。マーケティングという横文字は知らずとも、我々のご先祖様は千年も前からやっていた。そのほか、 機織り技術の伝播(殖産興業コンサルタント)やそのための技術者派遣の仲介(人材派遣業)、学問の普及、文化の伝播に貢献した事例もあったようである。師壇関係は相続・譲渡・売買の対象となった。

 明治時代になり、政府主導の神祇制度が整備され、御師は急速に衰退した。


 伊勢信仰の隆盛は、江戸時代中期以降、①経済が安定して庶民が経済力を持ち、②御師が信仰と遊興をうまくプロデュースして流行を作りだしたことにある。自然発生的なものではないその裏には大勢の仕掛け人の長い地道な努力があった

 もうひとつの教訓は、「民営化」である。国家による生活の保障がなくなって、下級の神職が自活すべく布教のため全国を巡回するようになったのが御師のはじまりである。国鉄がJRになって、サービスが良くなって利用者に喜ばれ、駅ナカ活用などで優良企業になったように、民でできることは民に任せるべきである。


以上


 
プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子、足立康史、竜崎伸也ほか多数。

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