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李朝末期の総理大臣・金弘集

李朝末期の総理大臣・金弘集
李朝末期の総理大臣・金弘集
李朝末期の総理大臣・金弘集



 「世界のなかの日清韓関係史」 岡本 隆司(おかもと・たかし)さん (講談社) 1575円 のプロローグが興味深い。抜粋してご紹介します。


 
 ある宰相の死

 ほぼ110年前のむかし、1896年2月11日、光化門の外で、ときの総理大臣金 弘集きん・こうしゅう)が、とりかこんだ群衆にうちころされた。享年55。

 不意の暗殺ではなく、群衆に虐殺される、しかも殺害された当の宰相が、殺される運命を十分に知りながら、なおかつ「天命である」と言い放って、自ら死地に赴いた。

 
 日清戦争直後のこの当時、金 弘集は日本の支持をえて、くりかえし内閣を組織し、近代化の改革政治(*)にとりくんでいた。しかしその政策の一環として、国王と王妃を政府から切り離して政治に関与させないようとしたことは、かれらの大きな反撥をまねいた。

 さらに改革のひとつとして、断髪令を出したことは、自らの伝統習俗を尊しとする保守派の在地有力者たちの反感を買った。

 こうしたなか、高宗こうそう:李朝第26代の王)と、政権から遠ざけられていた親露派の官人たちがむすびつく。ロシア公使館に避難し、そこで新政府を組織した(俄館播遷がかんはせん)。そのうえで金弘集ら旧政権の要人を罪人と断じて、捕縛を命じた。


 金弘集は、27歳のとき文科に合格して官界に入った。朝鮮が西洋諸国と否応なく関わりをもち、国際政治の荒波にむけて船出せざるをえない秋にあたっていた。第一の転機は、江華条約をむすんだ日本との折衝である。かれが日本へ渡ったのは1880年。対外折衝の専門家と目された金弘集は、以後ことあるごとに、外交交渉の重任にあたった。

 彼は、清朝と協調して日本に対抗し、また日本と提携する国内勢力を抑制しようとした人物であり、その存在と見識と力量は、清朝側からも高く評価されていた。親清派である。

 そんなかれが、およそ10年の後。いわば「親日派」の烙印を押されて虐殺される。日清戦争で清朝に勝利した日本の支持を獲て、内閣の首班になったのだから、かれは変節したわけである。かれをしてそうさせたゆえんは、いったい何だったか。

 宰相が横死したあげく、外国の在外公館に一国の宮廷と政府が存在する、そんな異常な事態は、金弘集ひとりの問題ではない。朝鮮一国だけの問題でもない。東アジアの歴史そのものの動きに、もとめるべきであろう。



 (*)近代化の改革政治

 ・政府機構の改革
 ・科挙を中心とした官吏登用法の改革
 ・近代的な学校制度の導入
 ・軍隊・警察の改革
 ・地方自治制度の導入
 ・徴税制度の改革
 ・幣制・度量衡の統一
 ・奴婢廃止・賎民解放など身分制の改革
 ・清朝の年号の使用禁止など清朝の「属国」であることを否定する措置
 ・太陽暦の採用
 ・断髪令、など


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(感想・意見など)

 世界の流れがよく見えていて、迷妄な圧倒的保守層=岩盤と戦った真の愛国者と言うべきか。


以上
プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子、足立康史、竜崎伸也ほか多数。

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