一党独裁 日独の教訓

先の参議院選挙の投票率は52.6%と極めて低かった。早くから自民党の独走が言われ、勝たせ過ぎても問題があると思っても野党が小党分立して互いに足を引っ張り合っていて、選びようがなかった。かつて日独とも同じような状況があったという。
愛媛新聞13年8月22日に作家・歴史家の半藤 一利(はんどう・かずとし)さんが一文を寄稿している。抜粋してご紹介します。
一党独裁 日独の教訓
小党分立抗争の果て
政治家諸公の歴史知らずのお粗末は毎度のことながらも、こんどの麻生太郎副総理の「改憲はナチスの手口に学べ」発言にはいささかあぜんとした。
また、それを報じた新聞はこぞって昭和8(1933)年3月の全権委任法(授権法)のことを書いていたが、私はヒトラーのナチス台頭の問題はその前にあったと思っている。
ヒトラーのナチスがドイツ政界で、経済不況と対外危機と不安を背景に大躍進を遂げたのが1930年9月の総選挙においてであった。12しかなかった議席がいっぺんに107に大激増した。
私は当時の選挙法がナチスに有利に働いたのではないかと推測している。比例代表制である。
亡き有沢広巳・東大教授の著書から引く。
「人物でなく、党名に向かって投票する比例代表制の選挙法にあっては、候補者リストに載った者は党が得た票数に応じて当選する。したがって未熟や無名の者でも、いな政治的暗殺者ハイネス(元陸軍少尉で政治的暗殺の罪で刑罰を受けた前科者)のような犯罪者さえ国会入りができた」(「ワイマール共和国物語」)
比例代表の効果
あのときも、短期の政権交代が続き、当時のドイツ国民の多くが、どうせすぐ失策するだろうから、いちど政権を委ねてみるか、と軽く考えてナチスと党名を書いた。比例代表制の効果テキメンで大躍進。ヒトラーは3年後に全権力を握る。選挙という民主主義の形式にのっとってひとたび権力を手にしたならば、民主主義的手段によって決してヒトラーがその権力を手放すことのないことをドイツ国民が知ったときには、もう遅すぎた。
それともう一つ、ヒトラー台頭の背景に、社会民主党を第1党としてドイツ政界は、共産党、中央党、人民党、国家人民党など多数の党に分かれ、互いに足を引っ張りあっていた。
戦前日本で、普通選挙制度始まって以来最低といわれた昭和11(1936)年2月の総選挙の投票率が79%、翌年4月のそれが73%。いまの日本国民は代表民主制に徹底的に不信、飽き飽きしているのかと疑わざるをえなくなる。
思考よりも気分
小党分立抗争、国民の政治不信、それらの行きつくところは一党独裁の強い国家体制。そのことは歴史的事実が証明している。
わが日本においても昭和15(1940)年10月の大政翼賛会の例がある。翼賛会の成立する前における政党は八つ。これが入り乱れて悪口を言い合い、政治を混乱させていた。
参院選が終わって思うことは、今の時代、政治とはイメージ操作だな、ということ。ナチスの宣伝相ゲッペルスが言ったように、活字よりは音声、理屈よりは印象、思考よりは気分が優先される。十分に議論を尽くして、としきりに叫ばれるが、そう言っている間にアッと言う間に時代の空気が変わる。
以上