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三捨六入すれば……。

三捨六入すれば…。



  三捨六入すれば……。


 昨日のブログにも書いたが、現在のところ、私は1920年ごろ以降の日本の歴史(暗殺、満州事変、日中戦争など)は肯定できない。他の途もあったのではないかと思っている。しかし、「虫の目」ではなく「鳥の目」で見て、歴史も50年単位くらいで見ていけば、こういう考え方もありえるとも思っている。四捨五入ならぬ三捨六入すれば……。


 『連合国戦勝史観の虚妄』の著者ヘンリー・S・ストークスさんは、1938年英国生まれ。オックスフォード大学修士課程修了後、フィナンシャル・タイムズ社入社。64年東京支局長、ザ・タイムズ、ニューヨーク・タイムズ東京支局長を歴任。記者歴50年に及ぶ東京外国特派員協会最古参のジャーナリストである。

 この本の一部を抜粋してご紹介します。


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 2012(平成24)年12月、文京シビック・ホールで、日印国交樹立60周年を祝う集会が催された。
 主催者は「自由アジア」を訴え、アジアの民主化を推進していこうという団体だった。
 会場には、インド代表の他にも、「自由アジア」を切望するチベット、ウィグル、南モンゴル(中国側呼称で内モンゴル)、台湾、北朝鮮からの代表や、支援者たちが集まった。

 基調講演を、私が行なった。タイトルは「日本はアジアの光だった」である。

 その講演の内容を、紹介したい。

 20世紀で最も驚く展開は、500年続いた植民地支配、その呪いが終焉を迎えたことにあります。白人による支配が霧消してしまいました。誰もまったく予想しなかったことでした。

 1940年代初頭になると、インド人たちから独立の気運が高まりました。なぜ独立の気運が高まったのでしょうか。
 第二次大戦が勃発し、500年のドラマの中の新興勢力が、白人植民地支配に痛烈な打撃を加えたからです。その新興勢力が、日本でした。

 
 インドでは、イギリスが1600年に東インド会社を設立し、植民地支配に着手しました。1857年から59年にかけて反イギリス民族闘争である有名なセポイの反乱が起こりました。

 イギリスがインドを抑圧する中で、日本で1868年に、明治維新が起こりました。同じ頃に、インドでは独立のために戦った、歴史的な人物が生まれています。1969年にマハトマ・ガンジー、1897年にチャンドラ・ボースが誕生しています。
 ボースは、日本の支援を得て、INA(Indian National Army:インド国民軍)を結成しました。

 ボースは1943年5月に来日し、嶋田海軍大臣、永野海軍軍令部総長、重光外務大臣などと面会し、東條英機首相と会談しました。

 ボースは日比谷公会堂で講演し、そのメッセージは当時のアジアの人々の気持ちを代弁していました。
 
 「約40年前、小学校に通い始めた頃に、アジア人の国が世界の巨人・白人帝国のロシアと戦いました。このアジアの国はロシアを大敗させました。その国が日本だったのです。このニュースがインド全土に伝わると興奮の波がインド全土を覆いました。インドのいたるところで、旅順攻撃や、奉天大開戦、日本海海戦の勇壮な話によって、沸き立っていました」
 
 「日本はアジアの希望の光だった

 「このたび日本はインドの仇敵のイギリスに宣戦布告をしました。日本はインド人に、独立のために千載一遇の機会を下さいました。われわれは自覚し、心から日本に感謝しています。一度この機会を逃せば、今後100年以上にわたり、このような機会は訪れることはないでしょう。勝利はわれわれのものであり、インドが念願の独立を果たすと確信しています」

 1943年10月、自由インド仮政府が樹立されました。ボースは満場の拍手をもって、仮政府首班に推挙されました。
 ボースは「チャロ・デリ!ー」つまり「デリーへ!」と進撃を宣言し、人々はそのメッセージを掲げ行進しました。祖国インドへ向けた歴史的な進撃の開始でした。
 自由インド仮政府は、日本とともに、イギリス、アメリカに対して宣戦布告しました。


 同年(1943年)11月5日より6日間にわたって、東京で大東亜会議が開催されました。
 これは人類の長い歴史において、有色人種によって行なわれた最初のサミットとなりました。

 東條首相、満州国の張景恵国務総理、中国南京政権汪兆銘行政院長、フィリピンのラワレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、タイのピブン首相代理のワイワイタヤコン殿下と、アジアの首脳が一堂に会し、ボースはインド代表を務めました。

 会議では大東亜共同宣言が満場一致で採択されました。ボースは「この宣言がアジア諸国民のみならず、全世界の被抑圧民族のための憲章となることを願う」と訴えました。ボースは、日本は「全世界の有色民族の希望の光だ」と宣言しました。


 この500年の世界史は、白人の欧米キリスト教諸国が、有色民族の国を植民地支配した壮大なドラマでした。
 そのなかにあって、日本は前例のない国でした。第一次世界大戦の後のパリ講和会議で、日本は人種差別撤廃を提案したのです。

 人種差別撤廃提案が提出されると、白豪主義のオーストラリアのヒューズ首相は、署名を拒否して帰国すると言って退室しました。

 イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアなどが反対しましたが、出席16カ国中11カ国の小国が賛成し、圧倒的多数で可決されました。しかし、議長であるアメリカのウィルソン大統領は「全会一致でない」として、この採決を無効としました

 人種差別撤廃提案が11対5の圧倒的多数で可決されたにもかかわらず、ウィルソン大統領はこの議決を葬りました。今日の文明世界では、ありえないことです。


 インドネシアの植民地支配は、1596年にオランダが艦隊をインドネシアに派遣したことに始まります。
 オランダの350年以上に及ぶ植民地支配に終止符が打たれたのは、1942年の日本軍の進攻によるものでした。

 ジョージ・カナヘレは『日本軍政とインドネシア独立』という著書で、日本の功績として次の4点を掲げています。

 1.オランダ語、英語の使用を禁止。これにより公用語としてインドネシア語が普及した。

 2.インドネシア青年に軍事教練を施した。これにより青年が厳しい規律や忍耐、勇猛心を植え付けられた。

 3・オランダ人を一掃し、インドネシア人に高い地位を与え、能力と責任感を身につけさせた。

 4・ジャワにプートラ(民族結集組織)やホーコーカイ(奉公会)の本部を置き、全国に支部を作り、組織運営の方法を教えた。

 この事実は、侵略したのが日本でなかったことを証明しています。日本はアジアの国々を独立させるあらゆる努力を惜しまなかった

 ジャカルタの中心にムルデカ(独立)広場があります。独立記念塔が立っています。そこに独立の日が『17・8・05』とハッキリ書かれています。17・8は8月17日の独立の日を示しています。05年は、日本の「皇紀」です。

 1945年は日本の「皇紀」では2605年にあたるのです。独立の英雄ハッタとスカルノは日本に感謝して皇紀を採用したのです。インドネシア独立の生みの親は日本だったのです。

 
 皆さん、こうした西欧の500年に及ぶ植民地支配は世界中で広く認知されたことであります。われわれは今日、植民地支配の禍の終焉をこうしてここに集い祝福しています。

 日本は「日の昇る国」です。真に自由なアジアを求めるみなさんと手を取り合ってゆきましょう。民主的なアジアの連帯を実現する重要な役割を日本が果たすことを願っています。
 日がまた昇ることを願って、締め括らせていただきます。


以上

プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子、足立康史、竜崎伸也ほか多数。

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