2020年 新聞は生き残れるか
ZAITEN14年2月号
2020年 新聞は生き残れるか
インターネットの時代を迎え、新聞、テレビ、出版業界などが大揺れに揺れている。企業の広告費はある程度一定で、インターネット広告が増える分、それ以外の広告費は減っている。それ以外の業界の経済基盤が揺らいでいる。
新聞を購読せず例えばYAHOOニュースで済ませている若者も増えている。しかし、YAHOOニュースの大本のニュースは誰が取捨選択(情報処理)し、分かり易いように加工するのか(情報編集)、という問題は残る。変化の激しいこの時代にニュースから無縁でいることはコンパス(羅針盤)なしに航海するに等しい。
東京新聞・中日新聞論説副主幹の長谷川 幸洋(はせがわ・ゆきひろ)さんがこのほど『2020年 新聞は生き残れるか』(講談社)1470円を出版した。
その長谷川さんがZAITEN(財界展望)14年2月号の著者インタビューに応じている。抜粋してご紹介します。
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読者不在の新聞ジャーナリズム
―――新聞ジャーナリズムの劣化がテーマです。記者はなぜ「ポチ化」してしまうのでしょうか。
新聞社に入社すると、新人記者はまず地方のサツ回りから始めます。上司から「君の調べなんかどうでもいい。警察が何をしているかを聞きだすのが君の仕事だ」と徹底的に訓練されます。
記者は取材相手のことを第一に考えながら記事を書きます。取材相手に気に入られない限り、特ダネは手に入らないと思ってしまう。役人から話を聞いて記事を書き、翌日、その役人からホメてもらえるかどうかが大きな関心事なのです。記者は取材相手に気に入られようと一生懸命になる。それが「ポチ化」の始まりです。
――記者自らが、役人にとって都合の良い記者になろうとする。
ある意味、「ポチ」は選良記者です。役人の側が「こいつは使える」と「ポチ」を選ぶからです。役人は、自分の言っていることを正確に理解できるか、社内で評価されているかなどを考慮し、記者を自分の政策を売り込むツールとして使おうとする。自分の担当する政策を新聞で大きく扱ってもらえるかどうかは、役人の世界では非常に重要なのです。
――「ポチ」と役人は、互いに持ちつ持たれつの関係にあって、肝心な読者の方を向いていない。
記者にとって一番大事なのは役人に気に入られることです。2番目は他社を出し抜くこと、3番目が同僚、デスクの評価です。読者のことは2の次、3の次になっている。
――では、報道から独立した論説はどうなっていますか。
論説は報道とは異なり、意見や主張を述べるところです。役所の情報からはいったん切り離されていなければならないと私は考えています。政府の方針について、論説は世界の状況や日本の現状を評価したうえで、こう考えると主張すべきです。しかし、論説委員は編集局の〝上がりポスト〟になっていて、役所や政府の意向に沿ったことを書くということが惰性で続いているわけです。
例えば、憲法改正を安倍政権が提起していますが、安倍政権を選んだ2012年末の総選挙が違憲であれば、衆院議員が違憲であり、安倍政権は違憲なわけです。違憲の政権が改憲を唱える正当性はどこにあるのか。「ない」というのが論理的な帰結ですが、この問題を提起した論説は皆無です。
なぜかというと、新聞社の組織が縦割りで、司法担当の論説委員は違憲判決だけを取り上げて「1票の格差」はおかしいとは言いますが、安倍政権が違憲であることは政治部の領域だからと触れようとしません。思考停止と同じです。
――法相の指揮権発動の一件にも触れられています。
東京地検特捜部検事による捜査報告者偽造記載問題で、小川敏夫元法相は指揮権発動を検討していたと退任会見で述べました。これについて多くの新聞は「政治の不当介入」と書きました。しかし、デタラメな報告書を作った法務検察に対し、国民が選んだ大臣が指揮をするというのは、民主主義の原理から言って、まったく正当なことです。検察を長く担当してきた社会部出身の論説委員が検察の「ポチ」になっているために、こんな馬鹿げたことが起きるのです。
――報道の中立、客観性という問題はどうでしょうか。
この問題を突き詰めていけば、新聞やジャーナリズムに〝立場〟はないのか、という問いが生じます。相手の言っていることをそのまま伝えるのが中立、客観性だとするならば、相手の言っていないことは書けないのか、という問題です。
相手の言わないことも書くというのが、言論の自由だと私は思っています。記者の責任において、相手の言っている内容の辻褄が合わない部分、論理矛盾を突く。そのためには、「相手が何を言っていないか」を自分の頭で考える必要があります。
――復興予算の流用問題を「週刊ポスト」でスクープしたのは、フリーランスの記者でした。
福場ひとみ記者は役人と直接会わずに、公開された生データを読み込んでスクープ記事を書いています。役所は昔と違って相当な量の行政情報を公開しています。データを丹念に読み込んでいれば、かなりのことがわかります。問題なのは、新聞記者が公開情報をしっかり見てないことです。
――「取材相手に信頼される記者」になるのをやめよう、と提案されています。
役人に信頼されるというのは、役人の「ポチ」になるということ。取材相手に信頼されようとしている限り、ポチのワナから抜けられません。
ジャーナリズムが目指すべきは、読者の信頼を得ることです。記者自身が頭でモノを考え、取材対象に迫ることなのです。最後は、商品(新聞)を欲しいと思う人がいるかどうかが、生き残れるかどうかを決めるのです。
以上
2020年 新聞は生き残れるか
インターネットの時代を迎え、新聞、テレビ、出版業界などが大揺れに揺れている。企業の広告費はある程度一定で、インターネット広告が増える分、それ以外の広告費は減っている。それ以外の業界の経済基盤が揺らいでいる。
新聞を購読せず例えばYAHOOニュースで済ませている若者も増えている。しかし、YAHOOニュースの大本のニュースは誰が取捨選択(情報処理)し、分かり易いように加工するのか(情報編集)、という問題は残る。変化の激しいこの時代にニュースから無縁でいることはコンパス(羅針盤)なしに航海するに等しい。
東京新聞・中日新聞論説副主幹の長谷川 幸洋(はせがわ・ゆきひろ)さんがこのほど『2020年 新聞は生き残れるか』(講談社)1470円を出版した。
その長谷川さんがZAITEN(財界展望)14年2月号の著者インタビューに応じている。抜粋してご紹介します。
...........................................
読者不在の新聞ジャーナリズム
―――新聞ジャーナリズムの劣化がテーマです。記者はなぜ「ポチ化」してしまうのでしょうか。
新聞社に入社すると、新人記者はまず地方のサツ回りから始めます。上司から「君の調べなんかどうでもいい。警察が何をしているかを聞きだすのが君の仕事だ」と徹底的に訓練されます。
記者は取材相手のことを第一に考えながら記事を書きます。取材相手に気に入られない限り、特ダネは手に入らないと思ってしまう。役人から話を聞いて記事を書き、翌日、その役人からホメてもらえるかどうかが大きな関心事なのです。記者は取材相手に気に入られようと一生懸命になる。それが「ポチ化」の始まりです。
――記者自らが、役人にとって都合の良い記者になろうとする。
ある意味、「ポチ」は選良記者です。役人の側が「こいつは使える」と「ポチ」を選ぶからです。役人は、自分の言っていることを正確に理解できるか、社内で評価されているかなどを考慮し、記者を自分の政策を売り込むツールとして使おうとする。自分の担当する政策を新聞で大きく扱ってもらえるかどうかは、役人の世界では非常に重要なのです。
――「ポチ」と役人は、互いに持ちつ持たれつの関係にあって、肝心な読者の方を向いていない。
記者にとって一番大事なのは役人に気に入られることです。2番目は他社を出し抜くこと、3番目が同僚、デスクの評価です。読者のことは2の次、3の次になっている。
――では、報道から独立した論説はどうなっていますか。
論説は報道とは異なり、意見や主張を述べるところです。役所の情報からはいったん切り離されていなければならないと私は考えています。政府の方針について、論説は世界の状況や日本の現状を評価したうえで、こう考えると主張すべきです。しかし、論説委員は編集局の〝上がりポスト〟になっていて、役所や政府の意向に沿ったことを書くということが惰性で続いているわけです。
例えば、憲法改正を安倍政権が提起していますが、安倍政権を選んだ2012年末の総選挙が違憲であれば、衆院議員が違憲であり、安倍政権は違憲なわけです。違憲の政権が改憲を唱える正当性はどこにあるのか。「ない」というのが論理的な帰結ですが、この問題を提起した論説は皆無です。
なぜかというと、新聞社の組織が縦割りで、司法担当の論説委員は違憲判決だけを取り上げて「1票の格差」はおかしいとは言いますが、安倍政権が違憲であることは政治部の領域だからと触れようとしません。思考停止と同じです。
――法相の指揮権発動の一件にも触れられています。
東京地検特捜部検事による捜査報告者偽造記載問題で、小川敏夫元法相は指揮権発動を検討していたと退任会見で述べました。これについて多くの新聞は「政治の不当介入」と書きました。しかし、デタラメな報告書を作った法務検察に対し、国民が選んだ大臣が指揮をするというのは、民主主義の原理から言って、まったく正当なことです。検察を長く担当してきた社会部出身の論説委員が検察の「ポチ」になっているために、こんな馬鹿げたことが起きるのです。
――報道の中立、客観性という問題はどうでしょうか。
この問題を突き詰めていけば、新聞やジャーナリズムに〝立場〟はないのか、という問いが生じます。相手の言っていることをそのまま伝えるのが中立、客観性だとするならば、相手の言っていないことは書けないのか、という問題です。
相手の言わないことも書くというのが、言論の自由だと私は思っています。記者の責任において、相手の言っている内容の辻褄が合わない部分、論理矛盾を突く。そのためには、「相手が何を言っていないか」を自分の頭で考える必要があります。
――復興予算の流用問題を「週刊ポスト」でスクープしたのは、フリーランスの記者でした。
福場ひとみ記者は役人と直接会わずに、公開された生データを読み込んでスクープ記事を書いています。役所は昔と違って相当な量の行政情報を公開しています。データを丹念に読み込んでいれば、かなりのことがわかります。問題なのは、新聞記者が公開情報をしっかり見てないことです。
――「取材相手に信頼される記者」になるのをやめよう、と提案されています。
役人に信頼されるというのは、役人の「ポチ」になるということ。取材相手に信頼されようとしている限り、ポチのワナから抜けられません。
ジャーナリズムが目指すべきは、読者の信頼を得ることです。記者自身が頭でモノを考え、取材対象に迫ることなのです。最後は、商品(新聞)を欲しいと思う人がいるかどうかが、生き残れるかどうかを決めるのです。
以上