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因島村上氏

因島村上氏 讀賣14年6月14日
因島村上氏 四国14年4月21日
因島村上氏 (新潮社)




 因島村上氏

農山漁村歴史に興味がある。人々はどうやって生計(たつき)をたててきたのか?どのように変化に対応してきたのか?それがどのように現在とつながっているのか?

 讀賣新聞14年6月14日に芸予諸島のひとつ広島県の因島いんのしま)が載っていた。抜粋してご紹介します。


 因島  (広島県)
 水軍が残した造船技術


 瀬戸内海に浮かぶ、周囲32キロ、人口2万5000人の広島県の因島は、かつて村上水軍の本拠地だった。

 周囲は古くから海上交通の要衝で、奈良時代には西日本各地から朝廷に租税を届ける船が行き交った。それを狙う海賊がルーツとされる。

 室町時代、村上義顕よしあき)、吉房よしふさ)、吉豊よしとよ)の兄弟が「能島のしま)」(愛媛県今治市)、「来島くるしま)」(同)、「因島」の3島にそれぞれ根拠を設け、勢力は瀬戸内海全域に及んだ。

 中でも因島村上家は、中国・明に出向いて貿易するなど野心的だった。

 村上水軍は1576年の木津川口の戦いで、毛利家の主力として織田信長軍を破り勇名をはせたが、わずか12年後、豊臣秀吉が「海賊禁止令」を出すと弱体化。一族は全国に散らばった。


 だが、造船技術は島に残された。島の船大工らは1896年、現在の因島土生(はぶ)町で「土生船渠(ドック)合資会社」を設立し、近代的な船造りを始めた。他の造船会社も作られ、日露戦争では輸送船を盛んに建造した。

 高度成長期の1960年代、島の造船業も好況に沸き、飲食店や商店、演劇場が軒を連ねた。「尾道や周辺の島からも工員が通い、昼間は人口6万人、『島が人の重みで沈む』ともいわれた」。

 だが、オイルショック後の70年代以降、造船は勢いを失う。99年のしまなみ海道開通で人口流出が加速する中、旧因島市は2006年、尾道市と合併した。


 今年は作家和田 竜りょう)さんの歴史小説「村上海賊の娘」が本屋大賞に選ばれ、島を訪れる若者が増えているという。


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 773年に創建された大山神社の宮司さんによると、近年、自転車でしまなみ海道を通る人たちの参拝が急増し、「自転車神社」として、自転車のおはらいも受け付けているとのこと。


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(感想・意見など)

 瀬戸内海の島々の生計の基本は、漁業、畑作、海賊(水軍)、交易などであったと思われる。島によっては石材業もある。江戸時代には、天下の台所といわれた大阪と、瀬戸内海を通り下関を経由して日本海地域(北陸・東北)を結ぶ西廻り(北前)航路が開かれた。問屋・仲買人、船頭・水夫としても活躍した。幕末咸臨丸でアメリカに渡った50人の水夫の内7割の35人が香川の塩飽(しわく)諸島出身である。造船業も盛んで、和船が廃れるとその腕を活かして宮大工として各地の神社仏閣造りに活躍した。

 明治30年代には、香川の粟島あわしま)、山口の大島広島、愛媛の弓削ゆげ)など各地の村立、郡立、県立の商船学校が作られた。昭和15年ごろ戦争が近づくと国立になった。

 その時代時代で人々は懸命であった。中には廃れたものもあるが、ほとんど現在とつながっている。

 ・13年10月29日ブログ 「瀬戸内国際芸術祭・本島に行ってきた」
 ・13年11月9日「粟島(あわしま)と志々島」 を見て下さい。



以上

  
プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子、足立康史、竜崎伸也ほか多数。

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