『満州国の真実』①



『満州国の真実』から①
今日夕刻、安倍内閣は、集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈変更を閣議決定した。
歴史を学ぶことは非常に重要である。近代日本史において満洲事変は非常に重要なターニングポイントである。
ムック誌 『満州国の真実』に明治以降の日本の歩みについて歴史探偵の半藤 一利さんがインタビューに答えている。抜粋してご紹介します。
日本はなぜ満洲をとろうとしたのか
朝鮮半島は列強の脅威に対抗する生命線
――日本はどういう理由で満洲を手に入れようと考えるようになったのでしょうか?
「関東軍が柳条湖事件にはじまって武力で満洲を制圧したのが昭和6(1931)年。日本が満洲に進出していった背景には、明治時代からの国防意識があります。
当初考えられたのは、朝鮮半島を日本の防衛線にするということです。明治の元老で、陸軍の創設者山縣有朋は、日清戦争の前から『主権線』と『利益線』という概念を主張しています。主権線とは国境のこと。それを守るだけでは不十分で、日本の国益に直結する朝鮮も守らなければならない。それが利益線という考え方ですね」
――日本はそれで朝鮮を手にいれようと考えたわけですね?
「最初から手にいれようとしたわけではなくて、当初は朝鮮と同盟しようとしたのです。同盟することでロシアなど列強の脅威に対処しようとした。
けれども当時の朝鮮は、あまりアテにできなかった。清国と朝鮮の主導権をめぐって日清戦争が起きて日本は勝利し、朝鮮を自分たちの勢力圏とします。正式に併合してしまうのはずっと先ですが。
今度は、ロシアが大韓帝国を狙って迫ってくる。それで日露戦争が起きるわけですが、その結果、ロシアが持っていた満洲の権益を獲得します」
ソ連邦の誕生が日本の国防意識を高める
――それまでは朝鮮半島のみが日本の興味の対象だったのですね?
「そう思います。しかし、日露戦争で日本は満洲の権益を得た。ここから日本は、満洲に『見果てぬ夢』を持つようになっていくわけです。
ところが戦勝国といっても、実際にはかろうじて講和したにすぎず、賠償金もとれませんでした。巨額の戦費と20万もの死傷者のうえに得たものが、満洲の権益だけですから、これは何がなんでも守り通さなければならないと、その後は誰もが考えるようになっていきました。
ところが、明治の末期から大正にかけて、国際的な環境が変わってきます。
ひとつは、中国で辛亥革命が起き、清朝が打倒されて中華民国が成立したこと。その中華民国が、日本が満洲に持っていた権益を白紙に戻そうと画策するのです」
――日本とすれば、それは承服できない、と。
「もうひとつは、ロシア革命が起きて、ソ連邦という国が誕生したことです。ソ連は社会主義の国ですから、日本にとっては大きな脅威です」
――社会主義は国際主義ですから、必ず勢力拡大してくるだろうということですね。
「日本は、ソ連はおそらく満洲を、次には朝鮮を狙ってくるだろうと考えたのです。この中華民国とソ連という2つの新しい相手の出現で、日本は国防の危機意識を高めた。とくに脅威だったのはソ連ですね。
そこ頃はすでに朝鮮は日本が併合して日本領土になっていましたから、当時の日本の指導層は、朝鮮半島のさらに外に防衛線を敷かなければならないと考えました。そこで満洲進出と言う考えが出てきます。
2つの国を相手にしながら満洲における日本の国益を守り、しかも日本の国防の最前線としなければならない。それが大正から昭和にかけて、日本が置かれた地政学的につらい状況だったのです」
次回に続く…