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軍師黒田勘兵衛に学ぶ

軍師黒田勘兵衛に学ぶ 四国14年7月1日‐2日
軍師黒田勘兵衛に学ぶ 鳥取のかつえさん
軍師黒田勘兵衛に学ぶ 鹿の井出水
軍師黒田勘兵衛に学ぶ (しかのいですい





 軍師黒田勘兵衛に学ぶ


 四国新聞14年7月1日‐2日、静岡大名誉教授 小和田 哲男さんの講演の内容が載っていた。抜粋してご紹介します。


 決断の裏には情報あり
 冷静沈着な側近が必要


 信長秀吉を播州へ派遣した。黒田勘兵衛は、秀吉の軍師竹中半兵衛とともに、播磨平定を進めていく。

 天正9年には因幡鳥取城攻めにかかる。

 天正6,7年にかけて三木城攻めは1年10カ月を要した。「なぜ2年もかかったのか」。次善の策を打っていなかったからだ。兵糧を絶つような作戦を取っていなかったと分析した。

 鳥取城を攻める際は、戦いのはるか前に若狭の商人を因幡に送り込み、米を時価の何倍もの値段で買い占めさせた。

 もう一つ、城攻めを前に秀吉の軍勢が村々を襲っていった。殺しはしないが乱暴をする。皆が殿様のいる安全な城へと逃げ込む。ただでさえ少ない米がみるみる食べ尽され、最後は凄惨な食料飢餓に陥り、鳥取城は開城せざるを得なくなった。


 備中高松城の水攻め。平城(ひらじろ)は周りがぬかるにに囲まれた難攻不落の城が意外と多い。毛利方の清水宗治は2千ほどの兵で持ちこたえていた。秀吉と勘兵衛は、足守川に2.6キロ、高さ8メートルの土手を12日で作るという離れ業を行った。城そのものを水に沈める壮大な作戦

 重要なのは、水攻めの途中でも毛利との和平交渉に動き出している点だ。これが柴田勝家との運命の分かれ目となる。柴田は魚津城を6月3日に落とすが、前日2日の「本能寺の変」の情報を知った上杉方が巻き返しを図り、柴田は4日間足止めを食らう。この差が大きい。

 一方の秀吉は3日夜にその情報を知る。その少し前から勘兵衛を使って毛利方と和平交渉に入っていた。「信長死す」の情報を隠したまま、交渉を急がせた

 秀吉は信長の死を知りぼうぜん自失で泣き崩れたが、勘兵衛は「信長の死によって光秀さえ討てば、あなたが信長の後継者になれる」と秀吉を励ました。ナンバー2として冷静沈着な人がそばにいるかどうかは大きい

 そして「中国大返し」。勘兵衛は小早川隆景の毛利の旗を20本ほど借り、尼崎のあたりでその旗を秀吉軍の先頭に立てた。、周りの武士は「毛利も秀吉に加勢したのか」と考え、茨城の中川清秀や高槻の高山右近が秀吉陣営に加わってきた

 兵力は4万に膨れ上がり、一方の明智は1万程度に減っていた。勢いは秀吉にあり、山崎の戦いは秀吉の勝利となる。

 この後、秀吉が若い家臣を呼び集めて勘兵衛を絶賛した。「戦いというものは、力で戦うんじゃない。頭で戦うんだ」。いかに頭を使って戦略を進めるのが大事かを物語っている。

 秀吉と勘兵衛のコンビによる天下統一は、ほとんど大きな抵抗なく進んだ。戦国時代という長い戦乱を終わらせた2人の功績は大きい


(以上)

プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子、足立康史、竜崎伸也ほか多数。

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