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怨霊信仰-崇徳院の鎮魂

怨霊信仰-崇徳院の鎮魂 白峯御陵(香川県坂出市)
怨霊信仰-崇徳院の鎮魂 週刊ポスト14年7月11日号
怨霊信仰-崇徳院の鎮魂
怨霊信仰-崇徳院の鎮魂 江戸期の錦絵(左上隅が怨霊となった崇徳院)




 怨霊信仰-崇徳院の鎮魂


 私が住んでいるところから30分も車を走らせれば坂出市の白峯御陵に着く。四国で唯一の天皇御陵で、崇徳(すとく)上皇が祀られている。このあたりには崇徳上皇西行法師佐藤義清のりきよ:元北面の武士)関係の史跡が多い。

 週刊ポスト14年7月11日号井沢 元彦さんの「逆説の日本史」に崇徳院のことが載っていた。明治改元に先立って崇徳院の鎮魂が公式行事として行われたことはほとんど知られていない。抜粋してご紹介します。


 「明治改元」に先立って行われた「日本一の大魔王」崇徳院の鎮魂

 慶応4(1868)年7月、江戸を東京と改称する詔(みことのり)が発令されたが、8月に入っても、明治天皇はまだ正式に即位していなかった。
 慶応2年に孝明天皇が崩御された後、皇太子であった睦仁(むつひと)親王は践祚せんそ)はしたが即位はしていない。

 践祚とは内々に天皇の位を引き継ぐことで、そのことを内外に明らかにすることを即位という。
 明治天皇は先代が亡くなって2年近くもたつのに即位はしていなかった。当然、即位に伴う改元もなかった

 本当なら約2年前に新天皇は即位し、元号を慶応から明治に改めるべきだったのだが、なぜこの時点でそれらがまだ行われていなかったのか?
 崇徳天皇の怨霊のタタリを恐れていたのである。


 崇徳天皇(上皇)とは、どういう人物であったか。「日本一の大魔王」として恐れられた天皇である。

 保元(ほうげん)の乱(1156年)で覇権をかけて後白河天皇(のち上皇)と戦ったが敗れ、遠く讃岐国(香川県)の地に流された。しかし、己の行動を後悔し都へ自ら写経した五部大乗経を送ったところ、朝廷に突き返され、怒りのあまり「皇(おう)を取って民とし、民を皇となさん」という「天皇家を没落させる」という呪いの言葉を残して憤死した人物である。

 そして、その「呪い」は実現した。
 長寛2(1164)年8月26日に配流先の讃岐で崇徳上皇は無念の死を遂げたが、それから数年もたたないうちに賤しい身分であった武士出身の平清盛が天下を牛耳るようになり、その平家が滅ぶと今度は源氏の世の中になった。その体制に反旗をひるがえした後鳥羽上皇は、武士たちの手によって島流しにされた。
 まさに「天皇家は没落した」のである。

 朝廷は政権を失ったことを自らの責任だとは思わず、崇徳上皇の怨霊のせいだ、と考えた。

 これがいかに固い信仰であったか、国民文学ともいえる『太平記』には、世を乱す怨霊会議の主座として崇徳上皇が登場するし、江戸期を代表する文学『雨月物語』には大怨霊崇徳上皇と西行(さいぎょう)法師の問答が語られている(引用者注:西行は実際に白峯御陵を参っているし、西行と平清盛は御所の北側を警護していた北面の武士の同僚であった)。

 崇徳上皇(崇徳院)が、天皇家から政権を失わせた張本人だということは「日本人の常識」だったのである。

 朝廷は幕府が崩壊をし始めた頃から、政権が確実に恒久的に戻ってくるように一大「霊的プロジェクト」を進めていた。
 それは崇徳院の霊に詫びを入れ、その神霊に京都に帰還して頂く、というものである。

 これは朝廷の公式行事として立案・実行されたことで、宮内庁発行の公式記録である『明治天皇紀』にも載せられている歴史的事実である。


 「怨霊信仰」から「護国神道」へ

 この計画は孝明天皇の時代から進められていた。天皇は、国学者中瑞雲斎(なか・ずいうんさい)の怨霊鎮魂計画書を読み、ただちに計画の遂行を命じたが、間もなく「病死」してしまった。
 孝明帝の跡を継いだ睦仁(むつひと)親王は践祚はしたが即位はせず、改元もしなかった

 天皇は慶應4年8月に大納言源通富みちとみを勅使として讃岐へ派遣し、26日に御陵の前で、宣命(せんみょう:天皇のメッセージ)が読み上げられた

 この宣命の読み上げられたのは、8月26日、崇徳院の命日である。

 そして、天皇はその翌日の27日正式に即位したのである。

 勅使は崇徳院の神霊を「輿(こし)」に乗せた
 これが海路を経て京に入ったのは、9月6日のこと。
 ただちに神霊は京都の今出川に今もある白峯神宮に祀られた


 正式に即位した明治天皇が、元号を明治と改めたのはいつなのか?
 この崇徳院が白峯神宮に遷座して2日後の9月8日に、新帝は明治と改元している。

 この間に何があったか。新帝は実に7百年ぶりに戻ってきた神霊を白峯神宮において参拝した。それを済ませてから、初めて元号を明治と改めた。 

 この甲斐あって、結果的に戊辰(ぼしん)戦争は新政府つまり朝廷の勝利に終わる。
 鎮魂は成功したのである。

 謝罪と京への遷座、それをもって崇徳院は、朝廷を呪う怨霊から朝廷を守護する御霊に変身した。そして、それはこの国が生まれて以来、常に為政者が心掛けていたことだった。

 崇徳院没後8百年にあたる昭和39(1964)年は、東京オリンピックが開かれた年だ。
 この年、昭和天皇は勅使をこの式年祭に派遣している。その甲斐あってかオリンピックは無事開催された。
 次回9百年の式年祭は2064年である。


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 日本史はディープだ。


以上

プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子、足立康史、竜崎伸也ほか多数。

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