大災害の教訓



大災害の教訓
毎日新聞に五百旗頭 真(いおきべ・まこと)さんが「大災害の時代」を連載している。10月16日の第29回に東日本大震災の忘れられない話が載っていた。一部を抜粋してご紹介します。
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極端なケースが宮城県名取市閖上(ゆりあげ)にあった。一人のあばあさんが、長く暮らした地から離れて生き延びることを頑として拒否した。自分はここで死んでいいという。
周りの人たちで懸命に説得し、親しくしていた友人まで加わって一緒に逃げようと説いたら、ようやく軟化した。では、その前にトイレへ、ではあれを持って、と要望すべてを容れて出発するのに30分を要した。
避難が遅れたところを津波に襲われ、一人が奇跡的に助かった以外、全員が犠牲となった(NHKスペシャル取材班「巨大津波―その時ひとはどう動いたか」岩波書店)。
欧米であれば、老人の自由意思をドライに尊重するであろう。日本的なやさしさ、ウエットなみんな主義が、逆に皆の命を奪うことになった。事に臨んで30分対話するのではなく、日ごろから万一の場合の避難について話し合い訓練しておかねば、その瞬間に逃れることはできないことを知るべきである。
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(感想・意見など)
石巻市の大川小学校の場合は、地震発生から津波襲来まで50分もあったが、校庭に児童を座らせて点呼をとったり、避難先についてその場で議論をしたりして時間を浪費(小田原評定)し、避難先の判断を誤ったこともあり、児童・教職員に多数の犠牲者を出した。
反対に釜石小学校では、日ごろから「てんでんこ」を合言葉に訓練しており、児童だけで自主的に避難して全員が助かった。
大川小学校は河口から4~5㌔遡ったところにあり、まさかここまでという油断があったと思われる。私は半年後に三陸海岸をクルマで走ったが、川の両岸の樹木は何キロも先の上流まですべて枯れていた。津波(海水)が川を何キロもさかのぼったものと思われる。相当上流でも川の近くは危険である。
五百旗頭さんはこういうことも書いている。
「押し波が引き波に転じ、板に乗った人が『助けて』と叫びながら飛び去った。どうすることもできなかった」
歴史家の磯田 道史(みちふみ)さんは、古文書などを調べてこういうことを言っている。
「津波は一波、二波、三波と何回もやってくる。兎に角、何もかも捨てて、高い場所に避難すること。押し波も怖いが、むしろ引き波のほうがもっと怖い。もの凄い力であらゆるものを引き剥がしていく」。
以上