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残酷な世界

残酷な世界 ①週刊新潮15年2月19日号
残酷な世界 ②
残酷な世界
 ③「社長 島耕作」第5巻
残酷な世界
 ④「憂国のラスプーチン」
残酷な世界
 ⑤アフガニスタンの部族に捕まったソ連兵
残酷な世界
残酷な世界
 福沢諭吉が支援した金玉均は暗殺され、五親等以内の親戚は凌遅刑に。
残酷な世界⑧高知15年2月23日
 最近も20代の日本人女性が2人強姦された。世界は残酷だよ。





 
 残酷な世界

 
 (残酷ものに弱い人は読まないでください。しかし、これは世界の現実です。)

 残念ながら、世界は残酷なことに満ちている。週刊新潮で必ず見るページのひとつが高山 正之さんの「変見自在」欄である。高山さんの本は、このコラムをまとめた本を含め、15冊持っている。2月19日号掲載分をご紹介します。


 東のイスラム国


 邦人2人に次ぎヨルダン人パイロットを焼殺したイスラム国について安倍首相は「非道」と言った。

 非道の一つは「捕虜は殺さない」ルールの違反だ。このルールは南北戦争をきっかけに生まれた。

 シャイアン族との戦いでは男たちが狩りに出た隙にサンドクリークの宿営地を襲い「白旗を掲げる幼女を撃ち殺し、その母親の腹を割き、頭皮を剥ぎ、指を切り落として指輪を奪った」(D・スタナード「米国のホロコースト」)。

 南北戦争も戦い方は同じ。両軍とも捕虜を殺し、敵の街では市民も殺し、トータルで62万人もが殺された。

 この反省から19世紀末のハーグ国際会議で、陸戦条約が話し合われた。捕虜は殺すな、非戦闘員も殺すなのルールが出来上がった。

 しかし同じ時期フィリピンの植民地戦争をやっていた米軍はすぐ抜け道を作った。「陸戦条約は正規軍のみが対象でゲリラには適用されない」
 発案者はあのマッカーサーの親父のアーサー。

 彼は抵抗するアギナルド将軍以下のフィリピン軍を一方的に「非正規軍」つまりゲリラと認定し、捕虜を拷問し、処刑もした。
 「1週間銃殺」も発明した。月曜に右肩を撃ち抜き、火曜は左膝、水曜に左肩、木曜に右膝を撃ち、金曜日にやっと心臓を撃って殺した。苦痛と死の恐怖を1週間も味わわせた。

 
 支那も米国と同じ傾向を持つ。日本人はそれを日清戦争開戦直後に知り、山縣有朋が「生擒(せいきん:捕虜)になるな」とする訓示を出している。「生擒に遭わば死に勝る苦痛を受けついには野蛮惨毒の所為をもって殺害せらるるは必定なり」

 野蛮惨毒とは「耳を削ぎ、鼻を削ぎ、目玉を抉り出し陰茎を切り落として喉に詰め、やっと鈍(なまく)ら刀で首を引き斬っていく」(秋山好古の副官報告書)。

 ジハーディ・ジョンは縛められた後藤健二の首を引き上げて頸動脈を断ち切った。ほぼ即死するのに対して支那人のそれは1時間以上も続く。

 ジョンは首を斬り落とすと遺体を寝かせ、その胴体に首を据える儀式をする。

 支那にも死後処理がある。捕虜を斬首したあと胸から腹を截って心臓を取り出し、あとに石を詰めて死体を冒涜する。
 手足は切断して民家の軒先にぶら下げた。

 「日本軍は戦友の傷ましい姿にもじっと感情を抑え、支那人捕虜に報復することもなかった」(ベルギー公使A・ダネタン)

 イスラム国はヨルダン人パイロットを檻に入れ火を放ち下から焼き殺した。残忍だが、蒋介石軍はもっと野蛮だった。

 日支事変のさなか、日本兵が拉致され、半焼きにされ、まだ軍服がくすぶっている状態で日本側駐屯地近くに放置された。兵士は苦しみ抜いて死んだ。

 イスラム国は戦闘で捕らえたイラク軍兵士らをまとめて銃殺し、その映像を送りつけてきてもいる。

 捕虜殺害というルール違反では米支に並ぶが、残虐な殺害方法ではまだ支那に劣るところがある。


 首相の言う非道のもう一つはイスラム国の過酷すぎる刑罰だ。

 男の宗教心を乱さないように女は髪と体の線を隠すニカブを着る。それに背いた30代の女がアレッポ近くの街で「首まで地面に埋められ、石を投げつけられ」(朝日新聞)て殺された。最も残酷と言われる石打の刑だ。

 
 処刑の残酷さでも前述した1週間処刑があるように米支はその上を行く。 

 とくに支那は残酷の極みを行く凌遅刑(りょうちけい)がある。太平天国の乱では首謀者がすべてこの刑に処せられ、生きながら体の肉をそぎ落された。民衆はその肉片を薬として珍重した。

 一昔前にあった福岡一家4人殺しで犯人の支那人留学生はこの凌遅刑を家族に行っていた。

 日本人の多くはイスラム国の残虐さに驚いたはずだが、実はもっと残忍な国がほんの傍にあることをこの機に思い出すことだ。
 

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 (感想・意見など)


 ②③の写真は、弘兼憲史さんの「社長 島耕作」第5巻からとったものであるが、間違いなく実話である。中国の黒社会(マフィア)が、自分たちを取り締まった公安局長の家族を全員拉致して、惨殺した。息子は生きたまま皮を剥ぎ、その様子を撮影したDVDを局長に送りつけた。若い女性がいたら輪姦したはずである。台湾で例がある。

 1966年から10年間毛沢東が主導した中国文化大革命中、民衆が大勢で知識人をなぶり殺しにし、みんなでその人肉を食べたという話を読んだことがある。その時はまさかと思っていたが、その後いろいろ読んでいると、その種の話がぽつぽつ出てきて、あり得ると思うようになった。


 ④⑤の写真は、元外務省職員で作家の佐藤 優さん原作の漫画「憂国のラスプーチン」から撮った。アフガン戦争時、ソ連兵が、軍用車を運転中、道の真ん中に赤ん坊がいるのを発見し、車を降りたところでアフガンゲリラに捕まり、いもむし状態にされたものである。赤ん坊は罠であった。

 それはソ連軍中枢の知るところとなり、軍は数機の軍用ヘリコプターを出撃させて、無残な姿となったソ連兵捕虜を銃撃して楽にさせた。

 日清戦争時、日本も同じようなことがあった。いもむし状態にされた日本兵捕虜を列車にて移送中との報告を受けた山縣有朋は、列車ごと爆破を命じた。戦陣訓の中の「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」は、このような経験から作られたとも言われている。


 ⑥⑦は1885年ごろの朝鮮に関するものである。福沢諭吉は、朝鮮独立に非常に尽力した。命をかけたと言ってもいい。優秀な朝鮮人の青年を多数慶應義塾に学ばせ、金銭的な援助もし、門下生を朝鮮に送って近代化の手助けをした。朝鮮初のハングルによる新聞発行は福沢の門下生の仕事である。

 福沢がかわいがっていた金玉均は竹添進一郎公使の協力を得てクーデター(甲申事変)を起こすが失敗し、日本に逃げてきた。上海に呼び出され、日本の護衛もいたが、目を放した隙に暗殺され、遺体を切り刻まれて朝鮮内で5カ所に分けて晒された。

 それのみならず、閔妃(ビンヒ)は開化派要人の家族を片っ端から捕らえ、五親等以内の親戚を、生きたまま体を切り刻む凌遅刑に処して、皆殺しにした。

 福沢諭吉は憤激し、チャイナ、コリアに絶望して、「脱亜論」(脱亜入欧ではない)を書いてチャイナ、コリアと訣別した。

 北朝鮮など、21世紀の今もなお、家族連帯責任制が残っている。


 昔の話とばかりは言いきれない。残念ながら、このような国が隣に3か国厳存する。


以上


プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子、足立康史、竜崎伸也ほか多数。

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