無責任の体系

朝日15年9月26日

徳島15年7月18日

週刊新潮15年10月1日号
右翼のヘイトスピーチを非難していた大学教授、評論家、進歩的文化人たちがこのありさま。ヘイトスピーチも連発。


私は小さな車が好きである。長距離は走らないしほとんど人を乗せることもないし狭い道、川沿いの道を走ることが好きである。この車を次に買い換える時の候補の一つにしていたが、VWをブラック企業と認定し候補リストから外すことにした。まともな企業だと思っていたのに裏切られた。今のままでは世の中にあっていい企業とは言い難い。残念ではあるが…。

秋のハナミズキ
無責任の体系
今日、9月26日の朝日新聞「天声人語」は久しぶりにいい記事を書いていた。ご紹介します。
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戦前の日本は、どのようにして先の戦争に突入していったのか。政治学者の丸山真男は、敗戦直後に執筆した論文で喝破している。「何となく何物かに押されつつ、ずるずると」。これは驚くべき事態だ、と。
ナチスの指導者は開戦への決断をはっきり意識していたに違いない。しかし、日本では、我こそが戦争を起こしたという意識を持つ指導者がいない。日本では主体的な責任意識が成立するのは難しい――。丸山の苦い診断である。
「ずるずると」形容すべき事態が今も繰り返されている。新国立競技場の旧計画が白紙撤回されるまでの経緯に関し、第三者委員会が報告者を出した。すべての重要な決定は、「やむをえない」という「空気」を醸成することで行われていた、というのだから驚く。ツケを払わされる納税者のことは眼中にないのだろう。
整備主体の日本スポーツ振興センターも監督する文科省も、「誰も独自の決断をしてこなかった」。そうした中で報告書が「特に」と断って批判するのが、森喜郎元首相らの有識者会議だ。
本来は諮問機関にすぎないのに、各界の重鎮が並ぶせいか、「実質的な主導権や拒否権」を持ったと断じる。権限をふるうが、責任は負わない。そんな組織が意思決定の頂点にあれば、まさに丸山の言う「無責任の体系」が形作られてしまう。
大会組織委会長でもある森氏は撤回前、3、4千億円かけてもいいと語っていた。それでも、おとがめなし。「ずるずる」体質は骨がらみなのか。
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(感想・意見など)
農耕社会の千年以上の伝統か、日本の組織は「無責任の体系」になりがちであるということを肝に銘じておく必要がある。それでも民間組織は利益とか予算の枠に縛られるからそれなりの規制はかかるが、官は「ずるずる」になりがちである。
それは今回の新国立競技場の件であらためて明白になった。でたらめの極致。調整役の森さんにしてから「こういうことは当初予算の2倍、3倍になるのが普通」という神経だから歯止めがかかる筈がない。納税者が厳しく監視し続けるほかない。
以上