江戸の町を運営する町役人①

(祥伝社新書) 素晴らしいネタ本。

江戸ものMOOK

左:久留米藩、右:秋月藩の上屋敷(港区三田付近)

酒井抱一 「蓮に蛙図」
ここ数十年トノサマガエルを見たことがない。小さい時はよく見たが、どこに行ったのだろう?
江戸の統治機構に興味がある。本日も 『江戸「捕物帳」の世界』 から抜粋してご紹介します。
江戸の町を運営する町役人①
町年寄は、町人の最上位の特権町人
町奉行所は、少人数で大江戸の治安維持と裁判所などの膨大な役目を果たしており、多くの部分を民間に頼らざるを得なかった。
江戸の町には町年寄(まちどしより)、町名主(まちなぬし)、月行事(がちぎょうじ:家主)、家持、家主などの町役人(ちょうやくにん)がいて、町奉行の支配を受けていた。
江戸には、天正18(1590)年の、家康の江戸入府に付いてきた奈良屋(ならや)、樽屋(たるや)、喜多村(きたむら)の三家が「町年寄」として江戸町政の実務を任され、町奉行と町民を仲介した。
この三家は名字帯刀を許され、正月三日には江戸城に登城したり、寛永寺での将軍家の法事に出席して将軍に謁見できた家柄で、世襲された。
これらの町年寄三家の屋敷は、日本橋本町通りに面した角地にあり、表通りに面した土地は商人に貸し、奥の一部を町年寄役所としていた。これらの他に三家とも拝領屋敷を幕府から与えられ、それぞれに地代収入などが年に600両ほど入った。
江戸の町に出される「触(ふれ)」は、幕府が出す「惣触(そうぶれ)」と町奉行の権限で出される「町触(まちぶれ)」があった。町年寄は交代で月番を決めて町奉行所に出頭し、町触などを受け取り、文書の末文に「右之通り 被仰出(おおせいだされ)候間 町中無洩(もれなき)様 早々可相触(あいふるべく)候」と書き足して署名した。
この触の書類を名主に渡し、名主は家主に渡す。家主はこれを自身番に掲示し、自身番の番人に町内の店子に触れて廻らせた。
実質的に町政を委ねられた町名主
江戸は急激に発展していったが、その過程で町政の整備が必要になった。町奉行の下に町年寄、家持、町名主、家主、書役(かきやく)という「町役人」を置き、江戸の町政を行わせた。
町年寄は一種の名誉職であったため、実質的にはその下の町名主に町政を委ねている。この町名主にも格があり、「草創(くさわけ)名主」は27名がいた。
寛永年間(1642~44)頃までに町となった300ほどの町を古町(こちょう)という。名主を「古町名主」と呼んで79名がいた。その他に平(ひら)名主と門前名主がいた。
これらの町の自治組織では、家持ちや家主が五人組を作り、月ごとに交代で町の公用を務める者を「月行事(がちぎょうじ)」と言った。書役は町の雇い人で、公的には町役人とはされていない。
江戸の町が発展し、延享2(1745)年から、売春宿の多い門前町も町奉行の所管になって1210町になり、人口は町方だけで50万人を超えていた。
町名主は一人で複数の町を担当し、中には20町以上を受け持つものもいたが、おおよそ住民2000人を基準にして管理したようだ。新しい町の町割りも名主の仕事である。
家主により書き換えられた人別帖は名主に届けられ、名主は変更を人別帖に書き込み、南北町奉行所に届け出て、原本を訂正してもらった。
町名主は町人身分であるため、本来は玄関構えを許されないが、幕府は黙認しており、玄関のある自宅で町名主の仕事を専業で勤めた。
町奉行所の触れを町年寄から受けて家主に伝達し、町入用など町内の会計や、幕府へ納める税の徴収と納入に携わり、町内の人別帖を年2回奉行所に提出した。家屋敷の売買には証文を検証し、火事には火消し人足を引きつれて出動した。
担当する町内の住民が、原告や被告となって町奉行所に呼ばれた場合は、町奉行所同心が差紙(さしがみ:出頭命令書)を町名主のところに届ける。町名主はそれを町役人の定番に持って行き、家主とともに町奉行所に呼ばれた住民に同行せねばならない。
町名主の給与は町入用で賄われ、寛政年間(1789~1801)には、252人の町名主に約1万3000両が支払われていた。給与以外に不動産売買での謝礼や諸願書作成の手数料を得ていた。
以上