アスリートの苦悩②…円谷幸吉さん②
2012年8月28日のブログ「円谷幸吉さん②」を再録します。
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12年8月20日のブログ「円谷幸吉さん」で君原健二さんの日経新聞「私の履歴書」を紹介したが、君原さんはその後も円谷さんについて触れている。8月23日と24日分を抜粋してご紹介します。
メキシコ五輪
必死に逃げて銀メダル
後続を確認、円谷さんに感謝
1968年10月20日、メキシコ五輪のスタートラインに立ったとき、私は亡き円谷幸吉さんのことを意識した。「メキシコでもう一度、メダルを取る。それが国民との約束だ」と誓っていた円谷さんの代わりに、自分が走るのだという気持ちだった。
競技場に入るとき、私は東京五輪の円谷さんと同じ状況に置かれていた。「決して振り返るな」という父親の教えを守り通した円谷さんは、ゴール目前でベイジル・ヒートリー(英国)にかわされ3位に落ちた。
私もふだんは、スピードを落としたくないので、後ろは振り返らない。だが、どういうわけか、このときだけは競技場に入る直前に振り向き、後方の状況を確認した。そして、マイケル・ライアン(ニュージーランド)がすぐ後ろにいることを知る。
私はもがきながらも、必死に走った。ここまで来たら、何としても2位の座を守りたかった。願いはかなった。2度目の五輪で銀メダルを手にしたのだ。それにしても、なぜ私はあのとき、振り返ったのだろう。円谷さんが天国からメッセージを送ってくれたとしか思えない。
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銀メダルの理由
伴侶得て総合力増す
自分追い込む競技、支え必要
メキシコ五輪は納得のいくレースではなかった。何しろ、大事なところで便意を催した。ミスを犯しながら、メダルを取れたのは幸運としか言いようがない。
8位に敗れた東京五輪と銀メダルを獲得したメキシコでは、私にどんな変化があったのだろうか。パワーもスピードもスタミナも東京のほうが上だった。練習量も東京五輪の前のほうが多かった。
五輪は独特の雰囲気に包まれている。だから自己記録を更新する選手はなかなかいない。そういう舞台で力を出すには精神面の安定が必要なのだと思う。
東京五輪後に私は妻帯者となっていた。メキシコでメダルが取れた一番の要因はそこにあると思っている。結婚し、癒やされ、精神的に落ち着いたのが大きかった。その結果、私の競技者としての総合力が上がったのだ。
そこで私は、どうしても円谷幸吉さん(自衛隊)のことを考えてしまう。東京五輪後に円谷さんは結婚目前までいっていながら、自衛隊の上司に「競技に差し障りがある」と反対され、破談になった。結婚に賛成し、話を進めていた畠野洋夫コーチも北海道に異動となり、円谷さんは相談役を失った。
一方の私は2年間の文通を経て、結婚に至った。心の平安を得た私と、悩みを打ち明ける相手のいなかった円谷さん。ぎりぎりまで自分を追い込むゆえに、競技者は人の支えなしでは生きていけない。
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(感想・意見など)
君原さんの8月24日の文章は、上品にまとめているが、当時の円谷さんの上司に対する抗議の書である。
新たな自衛隊体育学校校長吉池重朝(君原さんは名前は出していない)は、円谷さんの結婚を認めず、円谷さんを支えてきた畠野コーチを北海道に飛ばし、いままでの待遇を見直して、円谷さんにプレッシャーのみを与えて、孤立無援の状況に追いやった。陸上競技での28年ぶりのオリンピックメダリスト、国の宝とでもいうべき人を自死に追いやった。
哀切極まりない話である。
(以上)