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有色人種から見たアメリカ史

沖縄の黒人軍属事件で思い出した。
 週刊新潮15年11月12日号
有色人種から見たアメリカ史
 ベトナム戦争

 アメリカは1965年ごろから本格的にベトナム戦争に参戦した。米軍隊史上初めて「黒人部隊」が編制されなかった。
 アメリカは物量にものを言わせ、ナパーム弾で森を焼き払ったり、枯葉剤(のちに奇形児が多数生まれた)で森林を丸裸にしたり、北爆などで大量の爆弾を投下したり、P51ムスタング戦闘機や戦闘用ヘリで住民を追い回して銃撃したり、かつて日本にしたのと同じようなことを繰り返した。
 ベトナム戦争で最も残虐に殺しまくり、容赦なくベトナム女性を強姦しまくったのは韓国兵である。

 このころ毎日新聞の大森実外信部長の記事が最も光っていた。しかし、大森の北ベトナムの病院をアメリカ軍のB51が爆撃したという記事がアメリカ大使ライシャワーの逆鱗に触れ、大森は退職した。記事は事実であったが、毎日は委縮した。毎日新聞が最も輝いていた時期であったが、これを機会に凋落した。

有色人種から見たアメリカ史
 南部の白人至上主義者クー・クレックス・クラン(KKK)
 1960年代半ばまで、黒人男性が白人女性とデートしただけで黒人をリンチし、木に吊るしたりしていた。
 私は小学生高学年からの新聞の熱心な読者であったので同時代のこととして知っている。

有色人種から見たアメリカ史
 
 アメリカにおいて、南部が南北戦争に敗れるまで奴隷制度は合法であった

 南部諸州においては人種分離法「ジム・クロウ法」は合法であった。交通機関、水飲み場、トイレ、学校、図書館、ホテル、レストラン、バーなどで、「WHOIT」と「COLORED」に分けられていた

 1954年のリトルロック高校事件、1955年モントゴメリー・バス・ボイコット事件、1963年8月のワシントン大行進などの公民権運動を通じて、1964年人種差別を禁じる公民権法が成立した。

 以後、民族や人種や出自による差別と貧困を是正するため、アファーマティブアクション(差別是正措置)が採られるようになった。被差別集団の進学や就職や職場での昇進などにおいて、特別採用枠や試験点数の割増し(いわゆるゲタをはかす)などの優遇措置。

 これがプアホワイトにとっては癪(しゃく)の種。昨日のブログ「白人男性らがトランプ氏を支持する理由」に通じる。

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有色人種から見たアメリカ史
 香東川の潜水橋を散歩する老人と犬。それを見ているアオサギとカワウ。
有色人種から見たアメリカ史
 香東川の西岸。色づいてきた。
 うちの庭のケヤキも色づき毎朝・毎晩落ち葉掃除に忙しい。
 今年は剪定をシルバー人材センターに頼んでいるが、11月20日までとしたのが失敗のもと。来年は10月中に剪定してもらおう(数年前までは自分でしていたが、もう元気がない)。





 有色人種から見たアメリカ史


 昨日のブログは白人の『ディープストーリー(心の奥底の物語)』について書いた。

 米社会学者のアーリー・ホックシールドさんも言っているが、「正しいとか間違っているとか、モラルに基づく判断は取り除かれている。その人にとって、ある状況をどのように感じたのか、何がとても重要なことに感じたかを言葉にしたもの」。


 有色人種にとっては、また別のアメリカ史があるのは間違いない。

 例えば、アメリカで偉人とされている人の別の面を見てみよう。

 アメリカの初代大統領(1789年~1797年)ジョージ・ワシントンは、ヴァージニア州で400人の奴隷を所有していた。また、インディアンに対しては絶滅政策を採った。

 リンカーンは、南北戦争さなかの1862年8月に黒人奴隷解放宣言を発したその日に、ミネソタのスー族を絶滅するよう陸軍に命じている。12月には、リンカーンはミネソタ州で降伏したスー族の部族長39人をみせしめのため集団処刑させている

 黒人奴隷の解放は1865年、米国憲法修正13条が可決されて決着。しかし、インディアンの殲滅はその後も続き、1914年のヤキ族殲滅で終わっている
 
 とは言え、それでハッピーエンドではない。物語はその後も続いている。アメリカの歴史は(も)日本は及びもつかぬほど血塗られている。ハワイも強奪したし、フィリピン人も何十万人と容赦なく殺している。

 週刊新潮15年11月12日号の高山正之さんのコラム「変見自在」を抜粋してご紹介します。


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 アメリカ人の嘘

 昭和19年6月、米軍は日本軍3万がこもるサイパン島に4日間、18万発の艦砲射撃を加えてから第一陣8000人が大小の舟艇で上陸してきた。

 日本側の抵抗は微弱と踏んだが、それは楽観が過ぎた。上陸部隊は巧妙に掩蔽(えんぺい)された日本軍陣地からの反撃に遭って、最初の1時間で1000人が死んだ。

 しかし米軍は構わず兵員を次々血まみれの上陸地点に送り込んだきた。

 野戦重砲兵連隊の岡崎輝城上等兵は着弾観測所のレンズを通してその上陸部隊がすべて黒人兵なのを知った。消耗の高い上陸作戦を厭わない理由が理解できた。

 それから3日間、米側の上陸は続いた。4日目、観測所の近くまで米軍の戦車が来て、後退が命じられた。「サイパンの戦いは24日間続いた。14日目に初めて白人兵を見た


 米軍はその3か月後にペリリュー島を攻めた。サイパンの教訓から今回は上陸前10日間も艦砲射撃を加え、焼夷弾も降らせて島の緑を焼き払ってから海兵隊3個連隊1万余が上陸した。

 しかし日本側はほとんど無傷だった。先陣を切った米第一海兵連隊は兵員の60%が死傷した。

 この島では日本側1万余が散華したが、34人がその後も地下に潜んで戦い続け、戦後2年目の47年4月に投降している。

 生存者の話を聞く機会があったが、サイパンと同じに最初の上陸部隊はみな黒人兵だったという。


 米国では白人だけが人間で、生存の権利と幸福追求の権利が認められた。
 だから南北戦争では白人は金を積めば徴兵を忌避できた。代わりに黒人がどんどん兵隊にされた。

 第二次大戦でもこの思想は変わらない。フィリピンでは最も下等なフィリピン兵が最前線に立たされ、後詰めは黒人部隊が務めた
 それが崩されるとマッカーサーは逃げ、ウェンライトは手を挙げた。


 昭和25年6月25日、朝鮮動乱が起きたときも同じ。マッカーサーは在日米軍の中からまず黒人部隊だけに出動を命じた
 
 小倉市城野の基地で待機していた黒人兵250人が集団で脱柵し、小倉の街を占拠、日本人家庭に押し入っては強姦を重ねた

 米軍2個中隊が出動、3日間の市街戦の末に制圧した。どうせ明日は戦場で殺される身。死ぬ前に好きをやらせてもらおうかという自暴自棄が事件を生んだ

 そうやって戦場に送り込まれた黒人兵は松本清張『黒地の絵』が描くように北朝鮮軍の前に消耗し尽されていった


 マッカーサーは、吉田茂に7万の警察予備隊を作れと命じ、さらに51年1月の「年頭の辞」で「国際的無法状態が平和を脅かすとき、力をもって力を撃退することが日本人の務めだ」と言い出した。

 原爆で無辜の民を山と殺した。バターン死の行進とか嘘で日本をさんざ中傷した。挙句に「滅びの憲法」を押し付けた。でも事情がかわったから白人の盾になって戦えと言っている

 吉田茂は説得に来たダレスに味噌汁で顔を洗って出直すよう諭した。ために白人がたくさん死んだ。


 戦後70年、そろそろ米国人の嘘を見抜けるようになっていい潮時だ。


以上


プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子、足立康史、竜崎伸也ほか多数。

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