「ベルリンの壁崩壊30年」報道に違和感

朝日新聞2019年11月9日
「旧東ドイツ発展と失望」「2級市民」

讀賣新聞2019年11月9日
「独 消えぬ東西格差」「『2級市民』不満」

讀賣新聞2019年11月9日
「旧東独の平均給与 西の8割」

旧東ドイツの国民車トラバント

現在のフォルクスワーゲン・ポロ

ドベネックの桶
3万点のパーツを組み立ててできる自動車は、そのすべてがある一定以上の水準にないとキチンとしたものは作れない。
また、社会主義下のちんたらちんたら9時-5時の働かない役所のようなところで30年も40年も過ごしたほとんどの人が、激烈な資本主義の競争社会に簡単に適応できるとは思えない。
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香川県立図書館から庭を望む。紅葉しているのはハナミズキか?

同上。

香東川(こうとうがわ)。イチョウの葉が色づいて散りだした。
「ベルリンの壁崩壊30年」報道に違和感
1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊して30年、このところ、「ベルリンの壁崩壊30年」報道が多い。新聞やNHKのニュースをみても、「旧東ドイツ発展と失望」「2級市民」と極めて画一的。
一面の事実には違いないが、違和感が残る。押し寄せる移民の問題は想定外であったが、私は統一しても旧西ドイツと同じようになるには最低50年はかかると当初から思っていた。そんな簡単なものではない。
讀賣新聞には「旧東独の平均給与 西の8割」とあるのを見て、むしろ驚いた。もっと差があると思っていた。
なぜなら、一国を代表する産業である、3万点の部品を組み立てつくる自動車産業の30年前の実情を知っていたからである。30年程度で追いつけるようなものではなかった。
約8年前の2012年1月3日のブログ、「変化対応とトラバント」の一部を転載します。
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変化対応とトラバント(一部)
社会主義体制、官僚主義の象徴といわれるのが東ドイツの国民車トラバント。大きさは日本の軽自動車より少し大きい程度。排気量は約600CC。初期は綿繊維強化プラスチックボディ。末期には紙の繊維が使われていた。時代遅れの直列2気筒2ストローク・エンジン。
ヘッドライトを上向きにしたり下向きにするのは、一旦車外に出て、手で操作しなければならない。燃料計がないので、給油口から針金などを入れて確認するしかない。4速のギアチェンジは固く、ダブルクラッチが必要。すごい騒音、真っ黒な黒煙、燃費も最悪。
官僚は変化を嫌う。前例踏襲、一貫性と継続性を重視する。自分たちの都合ばかりを優先し、使い手(住民・国民)のことは考えない。競争がないから30年間ほとんどモデルチェンジなし、進歩なし。西側では、この間数えきれないほど改良し、フルモデルシェンジは4回~7回は行った。
そんな車でも西側の国民車よりもずっと高価で、国営企業がつくる唯一の東独車。これしかないから注文してから10年は待たされたという。国民に選ぶ自由はない。
トラバントは、ベルリンの壁が倒された途端、アッという間に消滅してしまった。当然といえば当然だが、象徴的な話である。
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(感想・意見など)
ドイツ政府は何もしなかったわけではない。東独振興のために1991年に「連帯税」を導入し、インフラ整備に注力した。そのためドイツ経済は落ち込み、「欧州の病人」と呼ばれた時期もあった。
旧東ドイツのツウィッカウでは「トラバント」がつくられていたが、現在では世界最大手のフォルクスワーゲン(VW)の電気自動車(EV)の製造拠点となっている。最初から最低でも50年以上かかる話であった。
ほとんど血を流すことなく、ここまでこれたこと自体奇跡的な話である。
余談ではあるが、朝鮮半島統一ということがあるとすれば、あの国のこれまでの歴史からすると、大量の血が流れ、大勢の国民が国外に逃がれ、百年はかかるものと思われる。
以上