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老中・阿部正弘

幕末の一風景
 老中・阿部正弘

老中・阿部正弘
 週刊文春2019年10月31日号「出口治明の0(ゼロ)から学ぶ『日本史』講義」

 週刊文春は芸能人などのどうでもいいようなスキャンダルを騒ぎ過ぎるが、政治家、官僚、マスコミなどの不祥事を報じたりもするので目が離せない。「出口治明の0(ゼロ)から学ぶ『日本史』講義」は必ず目を通している。

老中・阿部正弘
 『安政維新 安倍正弘の生涯』 穂高健一さん (南々社) 1771円

 「出口治明の0(ゼロ)から学ぶ『日本史』講義」を読んだこともあり、阿部正弘に興味を持った。毎日新聞にこの本の広告が出ていたのでいつもの宮脇書店に注文。先日入手した。これから読むつもり。

 広島、福岡にいた時、東京における会議に新幹線で出張するとき福山駅で停車するが、駅のすぐ南側に福山城があり、いつかは福山城に行ってみたいと思っていたが、いまだに果たせていない。特に桜の季節がいいように思う。

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老中・阿部正弘
 本津川両岸はこの黄色いキク科の花が盛り。

老中・阿部正弘
 マックは「店内飲食可」となって10日ほど経つが、一般客の戻りは遅い。高校生はかなり戻っている。
 高校生に聞くと、クラスを2班に分けて、今日は2時限のみ授業があったとのこと。夏休みが半減することは覚悟しているという。






  週刊文春2019年10月31日号「出口治明の0(ゼロ)から学ぶ『日本史』講義」を抜粋・多少編集してご紹介します(強調は引用者)。


 運命の宰相 阿部正弘


 歴史上の天才が幕末の日本にも現れます。それが阿部正弘(あべ・まさひろ)でした。
 福山藩の阿部家は何人も老中を輩出した名門の譜代大名でした。1819年、阿部正弘は江戸で生まれ、17歳で家督を継いでいます。

 若くして将来を嘱望された阿部正弘は1840年、20歳で寺社奉行になりました。11代将軍徳川家斉(いえなり)以降、社会の風紀が乱れていました。


■大奥スキャンダルを裁いて出世

 そんななかで千葉県市川市にある中山法華経寺の日啓らが、大奥に出入りして、奥女中たちと密通するというスキャンダルが起きました。阿部正弘がその事件を取り仕切って、日啓を島流しにします。でも女性の方は、大奥に事件を波及させませんでした。

 大奥と12代将軍家慶(いえよし)は「えらい有能なやつや」と感心しました。そこで1843年、家慶は阿部正弘を23歳で老中に抜擢、続いて25歳で老中首座に据えました。

 就任してすぐに阿部正弘は海岸防禦御用掛(海防掛)を強化します。

 これは1792年にロシアのラクスマンが日本に来たときに老中松平定信が慌てて設置し、自ら就任した役職でした。臨時の役職でしたが、阿部正弘は幕府中枢メンバーの半分を入れて常設化します。この海防掛は諮問機関でしたが、1853年、ペリーの黒船艦隊が浦賀沖に現れた時に行政機関に衣替えし、若手をガンガン抜擢しはじめます。


■開国・富国・強兵

阿部正弘は、すでに前年ネーデルラント(オランダ)からの通報で、ペリーの来航を知っていました。

 アメリカ大統領親書の受理を決めた阿部正弘は、ペリー退去直後に将軍家慶が亡くなるとアクシデント(後継は息子の家定)に見舞われつつも、全大名と旗本、庶民にいたるまで対応策について広く意見を求めました

 700余りも「こうしたらいい」という意見が出て、収拾がつかなくなったほどですが、明治維新時の「万機公論に決すべし」をもうすでにやっているわけです。

 そして阿部正弘は肚を決めました。幕府は、産業革命後の欧米の商工業の発展とアヘン戦争の情報を十分に持っていました。産業革命と国民国家という人類史上最大級の二大イノベーションに乗り遅れた清が敗れた結果を見ると、日本には開国以外の選択肢はありません

 「交易互市の利益をもって富国強兵の基本と成す」、つまり開国して交易し、産業革命を行って国を富まし、兵隊も強くしなければあかんという「開国・富国・強兵」というグランドデザインを描いたのです。

 これが阿部正弘の一番の貢献だと思います。諸藩の大型船建造の禁令を解禁し、幕府もネーデルラントから蒸気軍艦7隻購入などを決めました。

 そして「安政の改革」と呼ばれる幕政改革を行います。江戸時代の改革は享保・寛政・天保の三大改革が人口に膾炙(かいしゃ)していますが、実は安政の改革のほうが、その後の日本への貢献度が大きいと思います。


■明治を準備した安政の改革

 安政の改革の一番のすごさは、川路聖謨(かわじ・としあきら)、井上清直、江川英龍(ひでたつ)、勝海舟、永井尚之(なおゆき)、高島秋帆(しゅうはん)といった、身分が低くても有能な人を次々と抜擢したことです。

 1851年には、鳥居耀蔵(ようぞう)によって政治の表舞台から外されていた遠山の金さん(景元)を南町奉行に復帰させ、水野忠邦が天保の改革でつぶした株仲間を再興しています。

 1954年には講武所を作ります。洋式砲術などを学ぶところで、これは陸軍のもとになりました。

 1855年に海軍の前身、長崎海軍伝習所を作ります。なぜ長崎かといえば、鎖国で海軍のことがわかる人間がいないので、ネーデルラントの軍人を講師に招いたのです。明治のお雇い外国人と同じことを、すでにこの時にやっているのです。

 1856年に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)を作ります。蘭学の研究所でしたが、まもなく洋学の中心はネーデルラントやないで、ということで、洋書調所と名前を変えます。これが後に開成所となり、東大に発展するわけです。

 まとめると、安政の改革では、身分を問わずに有能な人間を抜擢し、陸軍、海軍、東大の礎になるものを阿部正弘が用意したわけですね。

 また領国の福山藩では、それまで弘道館という学校で漢学を教えていたのですが、1855年に洋学を取り入れた誠之館(せいしかん)に改編します。

 誠之館のすごいところは、8歳から17歳の全藩士の子供に教育を受けさせことです。義務教育をはじめたわけです。しかも庶民の中からも優秀な人には入学を許しました。

 そして仕進法という試験を導入します。勉強しただけではあかんというので、試験で優秀な成績をとったら「十二石二人扶持(ふち)」の士分に取り立てます。

 「安政の改革」にみられる開国・富国・強兵という阿部正弘のグランドデザインを、大久保利通や伊藤博文がそのまま実行したのが明治維新だともいえるでしょう。

 ペリー来航時がクリミア戦争で列強の目がアジアから逸れているさなかで、しかも英傑がたまたま老中首座に就いていたのは、日本にとって、ものすごく幸運なことでした。


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(感想・意見など)

 阿部正弘は、安政4(1857)年に老中在位のまま(満年齢)37歳で死去した。
 もし阿部正弘の寿命があと15年あったなら、日本のかたちは今とはちがったものになった可能性が高い。


以上


プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子、足立康史、竜崎伸也ほか多数。

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