王さんのお父さん

王さんのお父さん 日経15年1月1日
王さんのお父さん 日経1月3日
王さんのお父さん 日経1月5日
王さんのお父さん
 今日やっと入手できた。





 王さんのお父さん


 日本経済新聞の15年1月の「私の履歴書」は、福岡ソフトバンクホークス会長の王 貞治さん。巨人時代にハンク・アーロンの大リーグ通算本塁打記録755号を上回る記録を作ったあの「世界の王」さんである。

 今日は20日で、履歴書はまだ3分の1残っているが、毎日読んでいて気になったことの一つは、王さんのお父さん仕福さんの生き方である。

 以下、該当部分を抜粋してご紹介します。


 756号が出たのは1977年9月3日のヤクルト戦。打ったときの私の態度に感心してくれた人がいる。コリン・パウエル米国務長官。「スイングも見事だが、はしゃがず、おごらずベースを回る姿に気品がある」とおっしゃった。

 打った瞬間万歳はしたが、すぐ相手の鈴木康二朗投手のことが気になった父、仕福の「万事控えめに」という教えだ。中国の田舎から出てきて、日本で定職にありついた父は「日本に生かされている」と言い、周囲と折り合い、何事も穏便に済ませ、波風を立てないようにして生きていた


 父、王仕福は中国の浙江省青田県という地方の山村で生まれた。日本では明治時代。川の対岸に渡るのにも橋がなく、医者にかかるにはいくつも山を越えなければならない寒村だったという。

 20歳を過ぎたころ、仕福は先に来日していた親類縁者を頼って、出稼ぎに出てきたらしい。東京の向島あたりに落ち着いた。最初は工場勤めだったが、料理を覚え、母の登美とともに中華「五十番」を開いた。

 登美の里は富山県。祖父は漆塗りの仕上げを受け持つ沈金師で、石川の特産である輪島塗などを請け負っていた。その仕事が次第に減って生活も楽でなくなり、長女の登美は東京に奉公に出た。そこで父と出会った。


 1923年の関東大震災では朝鮮半島出身者が迫害を受けた。中国人に向けられる目も厳しく、父も本国へ帰らざるを得なくなったそれでもまた日本に戻ってきたのは故郷ではどうしても飯が食えなかったからだろう。

 墨田区の下町で始めた五十番は最初、何坪もなかったが、父母は近所の人も感心するくらい働いて、店を広げていった

 私がこの家の末っ子として生まれたのは40年。クラス会では必ず「ひもじい思いをした」という話になるが、幸い食べ物には困らなかった。父が作るチャーハンが好きだった。とにかく手抜きをしない。ご飯を炊き分け、あとで火を通すチャーハン用のご飯は堅めにしていた。麺も自家製。チャーシューも自分のところで煮て、その汁がスープになる。

 五十番の料理がうまかったかどうかはわからない。ただいえるのは「日本に来て、日本に生かされている」との父の思いがあったということだ。

 閉店してコークスの火を落としたあとでも、近所の人が「なにか食わせてよ」と戸をたたけば火をおこし、一杯のラーメンをこしらえた。町に溶け込もうという気持ちが、五十番の味だった

 堅物のわりに、新し物好きでもあった父は町内でもいち早くテレビを買い「力道山対ルー・テーズ」のプロレスがあると、店を町内の人に開放していた。そうした近所付き合いのおかげか、中国人の子どもといっていじめられたことは一度もなかった


 父、仕福は私が巨人の監督を務めていた1985年に亡くなったが、最後まで浙江省の故郷を忘れず、何度か帰っていた対岸の集落に行くのに大回りしていた川に、父の寄付で橋がかけられたとも聞く。

 兄、鉄城と私に人の役に立つ技術を身につけさせ、中国に帰ることが父の夢だった。中国人の子弟に会社勤めは無理、と言っていたので、兄は慶応大学医学部に進み、医師になった。しかし、私は父の意図とはかけ離れた方向へ進んでしまった。

 父としては野球のための進学など、もってのほかだった。兄、鉄城が「家に1人くらい変わったのがいてもいいじゃないか」と父を説得してくれて、早実進学が許された。

 
 高校1年、春の都大会決勝戦がデビュー戦となった。相手は春の選抜で甲子園に出たばかりの日大三高だ。先発した私は強力打線を完封して4-0すっかり有頂天になり、ベンチ前でグラブを放り上げて喜んだ。これを兄にとがめられた。「おまえは相手の気持ちを考えたことがあるのか」

 そこには父の教えがあった。「日本に来て、日本に生かされている」という父は偉ぶったりおごったりして反発を買うことを戒めていた

 この一件以来、私は感情を出さないようになった。長嶋茂雄さんという「超」のつく陽性人間と比べたらなおさら表情に乏しく、プロとしては面白みに欠けたかもしれない。それには王家の生き方も関係している


 高三の夏、(明治高に負けて)甲子園の道を断たれた。大学進学の意思が揺らぎ始めた。阪神と巨人が激しい獲得競争を始めた。こうなったら家族会議を開いて決めよう、ということになった。意見は分かれた。最後に兄が聞いてきた。「結局はおまえがどうしたいかだ。おまえはどっちがいいんだ?」「巨人です」

 私を電気技師か何かにして兄とともに中国に帰るつもりだった父もとうにあきらめていた


 1959年2月1日、巨人のキャンプ地の宮崎に向かった。キャンプの2週間目がすぎたころ水原茂監督、川上哲治、中尾碩志両コーチがそろう場に呼ばれた。「あしたから投げなくていい」。
 よし、打者一本だ――。腹が決まれば、スイングにも鋭さが増し、先輩にも負けない飛距離がでた。

 4月11日、国鉄(現ヤクルト)との開幕戦に7番一塁で先発した。投手は前年、長嶋さんのデビュー戦で4打席4三振を奪った金田正一さん。私は2三振、1四球。公式戦では投手の攻めが違っていた。

 12試合音なしで、自分が監督なら、あの時の王は使わない。我慢してくれた水原さんに、父母は「おかげで今のおまえがあるんだよ」と後々まで感謝していた


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(感想・意見など)

 この後も、王さんは、「一本足打法」に開眼するまで、打撃不振に苦しむ。王さんを救ったのは、中学二年の時、公園で試合をしているとき、たまたま自転車で通りがかったおじさん。「坊や、なんで右で打ってるの?」 左で打つと大きな二塁打となった。このおじさんが荒川博さんだった。のちに巨人で再会し、一生の打撃の師になるとは思いもよらなかった。


 この間作家の半藤一利さんの本を読んでいたら、王さんの話が出てきてびっくりした。うろ覚えではあるが、向島のガキ大将だった半藤少年らが遊んでいたら、幼少時の王君が一緒に遊んでくれといって来て、相撲などをとって遊んだりしていたらしい。半藤さんと王さんでは十歳くらい年の差がある。半藤さんによると、時には頭をポカリとやったこともあったらしいが、王さんは覚えていないという。


 以下は私の勝手な想像である。コリン・パウエルさんは、黒人である。陸軍大将→国家安全保障担当大統領補佐官→統合参謀本部議長→国務長官と、恐らく黒人として初めてその地位に就いた。努力に努力を重ね切り拓いてきたはずである。大統領選に出馬したら当選確実と言われたが、「黒人が大統領になったら暗殺される」との妻の反対もあり出馬しなかった。共和党員でありながら、民主党黒人のバラク・オバマの大統領選当選に貢献した。その生き方は、アグレッシブでありながら、相当抑制的であった筈である。王さんに同じ臭いを感じたのではないか。

 
以上
 


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プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子ほか多数。

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