一冊の本

一冊の本
 週刊新潮15年1月29日
一冊の本
 江戸参府旅行日記 ケンペル (平凡社)
一冊の本
 ペリー提督日本遠征記 (角川ソフィア文庫)






 週刊新潮1月29日号、藤原 正彦さんの「管見妄語」を抜粋して以下にご紹介します。


  一冊の本


 ドイツ人ケンペルは、鎖国の真只中の1690(元禄3)年に来日し長崎出島のオランダ商館付き医師として2年余り滞在した。39歳になるケンペルの幸運は、後にオランダ語文法をマスターした初めての日本人と言われる、類まれな才人今村源右衛門が通詞としてついたことだった。

 学識ある今村はケンペルに必要な物品や書籍などを集めてはできる限り多くの日本に関する知識を彼に授けた。短期間に多大な知識と資料を得たケンペルは江戸まで足をのばし将軍綱吉にも2度謁見している。

 ケンペルの最大功績はドイツ帰国後に書いた『日本誌』である。彼はこの本の中で次の3点を指摘した。第一は、日本が絶対的権威者の天皇と絶対権力者の征夷大将軍が互いに他を補完し合う、という見事な政治体制を早くから確立しているということだ。

 第二に犬公方と言われる将軍綱吉を英邁な君主として賞讃した。類例のない悪法とされる「生類憐みの令」さえ極めて高く評価する。この法を、捨て子や子殺しの禁止、親が貧しくて育てられない子を役人が育てることの義務化、囚人の待遇改善などと同様、社会的弱者や貧者の救済政策の一環と喝破した。

 第三が鎖国の擁護である。日本は活気ある国内経済を有し、肥沃な田畑に恵まれ、生活必需品は潤沢にあり、国民は道徳、教養、技芸、立ち居振る舞いなどの点で世界のどの国民よりもすぐれ、世界でも稀な長さにわたり平和と幸福を享受している。このような国を閉ざし異国の悪徳、貪欲、狡猾、暴力などから国民を守るのは為政者の義務であるとさえ述べた。


 彼がこれほどまでに日本に感銘を受けたのは、一つには彼の生きた当時のヨーロッパが余りにも悲惨だったからだろう。ケンペルの生まれた1651年は30年戦争の直後である。カトリック対プロテスタントで始まった宗教戦争は、次第に列強入り乱れての覇権戦争に変質し、戦争と中断を繰り返しながら30年間も続いた。

 その結果、ドイツの国土は荒廃し、経済は疲弊し、ペストの流行もあり人口は急減した。集団ヒステリー現象としか呼べない魔女狩りが猛威を振るっていた。牧師である彼の叔父は説教台の上から魔女狩りの自制を訴えただけで魔女として処刑された。

 こんな中で育ったからこそ、ケンペルは平和や平穏な秩序を何にもまして希求するようになったのではないか。彼は哲学、歴史、古典、自然科学、医学などを学んだ後、30歳で海外に出た。スウェーデン、ロシア、ペルシア、インド、インドネシアなどに計9年間暮らし、医師として各国の王と接し、その権勢や驕奢や戦争に熱中する様に幻滅した。だからこそ綱吉の、それまで見たことも想像したこともない「仁慈に基づく専制政治」に感動したのであろう。


 『日本誌』は18世紀に英仏蘭独など各国で出版され、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューら知識人に読まれ、日本観形成の礎となった。シーボルトやペリーなど幕末までに来日した人々の大半が読んでいたと言われる。

 日米通商条約を結ぶため来日したハリスは、下田に上陸してたった2週間後の日記に、「厳粛な反省――変化の前兆――疑いもなく新しい時代が始まる。あえて問う。日本の真の幸福となるだろうか」と記した。

 来日して数カ月のオランダ商館員ポルスブルックは「私の思うところヨーロッパのどの国民より高い教養を持っているこの平和な国民に、我々の教養や宗教が押しつけられねばならないのだ」と嘆いた。

 ともに『日本誌』の強い影響のためだろう。アフリカ、アメリカ、オセアニア、アジアとほぼ全ての有色人地域を植民地化してきた白人が、日本の植民地化だけは初めから頭になかったようにさえ見える。これも『日本誌』の影響が大きかったのではないか。一冊の本の力だ。


以上


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teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子ほか多数。

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