江戸時代の庶民の旅

江戸時代の庶民の旅
(角川ソフィア文庫) 778円
江戸時代の庶民の旅
 図書館が暑い(28度)のでガスト栗林(りつりん)公園店に言ったらいっぱいで順番待ち。2時半で空いていると思ったのだが…。
江戸時代の庶民の旅
 やむを得ず、いつものマック香西店(こうざいてん)2階へ。
江戸時代の庶民の旅
 ご覧の通り図書館状態。勉強する姿は美しい。
江戸時代の庶民の旅
 公共の建物と違って空調は26度と快適。
江戸時代の庶民の旅
 ちょっとと思って読んでみたら面白い !! 現在、文系大学から「教養科目」を外す動きがあるが、大変疑問。




 江戸時代の庶民の旅


 江戸時代、庶民は旅と無縁だったように思われるが、意外とそうでもなかったようである。近世民衆史が専門の北原 進さんの『 百万都市 江戸の経済 』から該当部分を抜粋してご紹介します。


 庶民の旅

 庶民の旅は、たとえば信濃・越後の農民が穫り入れを終わって、いっせいに江戸に出稼ぎに出る旅がある。もう寒くなった越後路から中山道を、背中丸めて列をなして歩いていく様は、椋鳥むくどり)と呼ばれる。来春、田に籾を下ろすまでに帰らねばならぬ季節労働者であった。

 灘や伏見に向かう杜氏とうじ)たちも同様といえるが、彼らは技術者でもあった。椋鳥の方は米搗きや風呂屋の三助など、どちらかといえば単純労働である。彼らが春先、村方に帰っていくと、入れ替わるように、伊勢や近江から十歳前後の子供たち数人が組になって、一人の大人に連れられて江戸や大阪に向かった。商店の奉公人として、雇われていくのである。出替わりの時期が、だいたい二月初めであった。

 彼らは村を出るとき、往来手形や、長期にわたる時には人別送り状を書いてもらい、持参してくるのが普通であった。腑に落ちないのは年寄りの「諸国寺社参詣」のための往来手形である。あて先が「国々御関所、宿々川々御役人衆中」となっていて、地方や方面が特定されていない。どこにでも行けそうである。

 さらに文言には「若し此の者行暮れ候はば、一宿の儀願い上げ奉り候、相果て候はば其の所の御作法にて、御取り置き下さるべ可()く候、其の時、此の方に御知らせに及び申さず候」とある。行き倒れになったら、その地のやり方で葬むって、わざわざ国元まで通知するに及ばない、それ以上の御手間をお掛けしたくないということだろうか。


 江戸の、町々では、伊勢詣りと並んで大山講や浅間講せんざんこう)・富士講という、聖山に登拝する旅行が大流行したことがあった。講中の仲間で旅費を積み立てて団体旅行したり、くじに当たった人が代表として登拝することもある。箱根路や甲州路を出かける日は、最初の宿まで見送りがついてきて、ともに軽く一杯やって別れる。


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(感想・意見など)

 この本では触れられていないので少し捕捉する。讃岐の金毘羅参りのことである。全国約600社の総本宮であり、特に海上交通の守り神とされる。清水の次郎長の子分、森の石松の代参が有名である。人による代参、犬による代参は伊勢詣りと共通である。犬による代参は、同行の人や街道の人々が犬の世話をした。

 金毘羅さん独特なのは、流し樽の代参がある。金毘羅詣参りできない人が、航海の安全などの願いを込めて、賽銭を入れ、祈願する木札か幟を着けた「樽」を海に流し、その樽を拾った人が代参し、樽を金毘羅さんに奉納する。流した人にも、届けた人にも、神のご加護があるとされる。驚いたことには、現代でも行われているという。


以上
 
 

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teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子ほか多数。

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