〝歌う民族〟エストニア

〝歌う民族〟エストニア
 愛媛15年10月7日
〝歌う民族〟エストニア
 四国新聞15年10月8日に松山の「坊ちゃん列車」の記事が載っていた。
〝歌う民族〟エストニア
 本津川の堰。今日は堰を上げていた。堰を上げ下げする理由は?
〝歌う民族〟エストニア
 香東川側道に咲いていた花
〝歌う民族〟エストニア
 いたるところでコスモスが咲いている。
〝歌う民族〟エストニア
 高松市郊外、檀紙町
〝歌う民族〟エストニア
 檀紙町の柿





 〝歌う民族〟エストニア


 大陸諸国の歴史は過酷である。とりわけロシア、ドイツという大国に挟まれた東欧諸国は歴史に翻弄され続けてきた。

 15年10月7日の愛媛新聞エストニアの記事が載っていた(恐らく共同通信配信)。抜粋してご紹介します(現在のエストニアの人口は130数万人)。



 独立導いた「歌う革命」
 希望と団結の合唱(エストニア)


 1988年9月11日、バルト海に面した首都タリンの「歌の祭典」会場。「いつの日か、私たちは打ち勝つ」という呼び掛けで、自由と独立を求める歌声が響き渡った。

 この日、民族の3割に当たる約30万人が集まったといわれる。ソ連の圧政に耐えてきたエストニアの人々は希望を合唱に託した「歌う革命」の始まりだった。

 「ものすごい人だった。赤ん坊もかつて投獄された仲間も、行ける人は皆集まった」。


  ■つらい過去

 第2の都市タルトゥには、ソ連国家保安委員会(KGB)の地下牢が博物館として残されている。独立後、元収容者らが「つらい過去を忘れるな」と保存を訴えたのだ。

 見学者が訪れると「おまえをシベリア送りにしてやる」という高圧的なロシア語の自動音声が陰々と流れる。

 ソ連に抵抗する若者の地下組織に加わっていた建設業アフトーツ・リーク(83)は50年ここに投獄され、翌年シベリアの強制収容所に送られた。解放されたのはスターリン死後の56年だった。

 エストニア第2次大戦中、ナチス・ドイツとソ連の侵攻を受け、人口の4分の1を失った。さらに、44年以来、約3万人がソ連当局に投獄され、うち1万人が処刑などで死亡。約2万3千人がシベリアの収容所に送られた


  ■私たちの魂

 ほぼ5年おきに開かれる歌の祭典は、南東部ポルパで行われていたものを源流とし、多くの合唱団が競演する伝統行事だ。1869年に全民族を束ねる形でタルトゥで始まり、19世紀末に舞台をタリンに移した。〝歌う民族〟は団結力を強め、1918年にロシアからの独立を果たしたが、その後再びソ連の支配下に置かれた

 「歌は私たちの魂。祭典ではソ連賛美の歌をロシア語で歌うように強いられたが、私たちはエストニア語の歌も歌い続けた
 母語の歌は抵抗の象徴、中でも「わが祖国、わが愛」は特別だった。

 「エストニアの歌」と名付けられた88年の集会は、ゴルバチョフ体制下で締め付けが緩む中で開かれた。希望を抱き続けた人々は好機を逃さず、もう恐れることなく、変革へと踏み出した。

 89年、群衆はエストニアを含むバルト3国を横断する長さ600㌔もの「人間の鎖」をつくってソ連の支配に抗議する。

 90年の歌の祭典は、さながら独立前のお祝いだった。体制賛美の歌は消え、レーニンの肖像の代わりに、エストニアの旗が会場にあふれた。

 もはやソ連に押しとどめる力はなく、エストニアは91年、ついに独立する


  ■新たな脅威

 「歌う革命」から四半世紀。ウクライナ危機で、エストニア国民は再び隣国ロシアの脅威に震えた。「ソ連はなくなりロシアになったが、KGB出身のプーチン(大統領)はスターリンと変わらない」。

 だがエストニアは今や欧州連合(EU)の一員だ。
 「プーチンは手出しできない。侵攻しようとしても北大西洋条約機構(NATO)が守ってくれる」

 独立後、タルトゥ副市長や国会議員を務めたアストクは「もしNATOに加わっていなければ(ウクライナと)同じ目に遭ったかもしれない」と言う。ソ連崩壊後、経済混乱に陥ったロシアが国力を回復する前に、欧州への統合を進めたことが幸いしたとの見方だ。

 エストニアは独立後、企業の倒産や失業者が急増した。だが、国民は困窮に耐え、改革を推し進めた。そして2011年、悲願だった欧州通貨ユーロの導入を果たす

 「歌の祭典は、エストニア人を結びつける宗教のようなものだ」。14年の祭典は3日間にわたり、約15万人が集まった

 今も祭典では必ず「わが祖国、わが愛」が歌われる


 (文・佐々木健さん、写真・広津孝平さん)

............................................................................................................


(感想・意見など)

 私は、1956年のハンガリー動乱は知らない。しかし、1968年春のチェコ事件(プラハの春)は知っている。いずれも、東欧諸国の民主化要求運動をソ連軍の戦車が踏みつぶしたものである。

 「プラハの春」はドブチェクの「人間の顔をした社会主義」をソ連軍戦車が踏みにじった。当時、私はテレビにかじりついていた。NHKの加藤特派員の実況中継が忘れられない。「ソ連軍の戦車がこちらのビルに機関銃を向けてきました。いま撃ってきました……」。他国の内政に戦車で干渉することでしか守れない社会主義に非常な疑問をもった瞬間であった。


以上


コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子ほか多数。

最新記事
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
最新トラックバック
リンク
カウンター