武士の一分

武士の一分
 (新潮文庫) 464円
武士の一分
 マック香西店2階 1月17日(日)夕方、たまった新聞を読みに行った。
 1階2階、ドライブスルーともお客様でいっぱい。
武士の一分
 マック香西店2階 1月18日(月)夕方 ガラ~~ン。
 1階2階ともお客様は5名づつくらい。昨日の30分の1くらい。これだから商売は難しい。




 武士の一分 


 『学校では習わない江戸時代』 山本 博文さんは面白い。一部を抜粋してご紹介します。


 城明け渡しと武士の作法


 1997年11月24日、北海総拓殖銀行、三洋証券の会社更生法適用申請に続いて、山一証券が自主廃業した。

 山一證券のある支店長は、事実上経営者のいないような状態の中で、各支店長が会社幕引きの責任を負わなければと、再就職のことは考えずに事後処理に向かう。

 北海道拓殖銀行の着任したばかりの支店長は、おわびの挨拶回りを行った。拓銀最後の瞬間まで、自分の仕事を全うしようという一念である。三洋証券のある支店長も、年収は下がり続けながら、部下の再就職を支援し、すべてを見届けてから会社を去ろうとがんばったという。

 彼らはいずれも40代の働き盛りである。自分の生活や家族もあるが、支店長であるが故に自分のことは後回しになる。

 永遠に続くと思われていた会社が突然なくなった時、残された者はどうするのか。これは江戸時代にも同様のことがあった。いつも突然訪れる御家お取り潰しである。その最も有名な事例が、元禄時代に起きた播州赤穂藩浅野家(五万石)の取り潰しである。


 赤穂藩お取り潰し

 藩主の江戸城中での刃傷(にんじょう)事件は、即日早駕籠(はやかご)で赤穂に知らされた。これを受けたのは、国元の留守を預かる家老大石内蔵助(くらのすけ)である。

 赤穂藩江戸藩邸では、まず事件発生を伝えるため二人を早駕籠で送り出した。江戸と赤穂の距離は155里、約620㌔。二人の使者は4日間で走破した。彼らが赤穂に到着したのは、3月19日の寅(とら)の後刻(午前4時頃)である。次いで、内匠頭(たくみのかみ)切腹と赤穂藩取り潰しを伝える第二陣の使者二人は、19日の戌(いぬ)の後刻(午後8時頃)に着いた。

 独自のネットワークを介してこの事件を知った商人たちは、19日藩札の両替を求めて、赤穂藩の藩札を扱う札座(ふだざ)に集まった。

 当時、赤穂藩の国元には、筆頭家老の大石内蔵助と経済面に明るい家老大野九郎兵衛がいた。大石らは、準備金を考え合わせ、藩札の六分両替を決定し、翌日から換銀を始めた。大坂蔵屋敷や赤穂城の什器なども処分し、本家の広島浅野家や内匠頭の正室阿久里(あぐり:瑤泉院)の実家の三次(みよし)浅野家にも援助を要請した。

 山一證券の証券は一夜にして紙屑同然になったが、赤穂藩の藩札は、少なくとも6割は回収できた。札座に集まった商人たちはこれで納得し、どうにか藩札の償還問題は片付いた。


 武士社会の掟

 次に考えなければならないのは、自分たちの身の振り方である。まずは藩主の残したをどうするか。

 江戸時代の初期から、藩主が改易(取り潰し)になった場合、家臣はその城に立て籠もる姿勢を見せる。ただし、藩主からの指示があれば開城する。主君の城を、主君の命令がないうちに明け渡すのは、武士の名折れであった。

 赤穂城の場合、引き渡しを命ずる藩主がすでに亡い。赤穂藩の藩士は徳川家に仕えているわけではない。あくまで浅野内匠頭の家臣なのである。城の明け渡しは、藩主の命令なくして行えるものではない。

 それでは藩主内匠頭亡き後、藩主の命令に相当する指示が出せるのは誰か。幕府は、内匠頭縁戚の大名に、浅野家中の慰撫と城の引き渡しを説諭させた。戸田采女正(うぬめのかみ:氏定)は、内匠頭母方の従兄弟(いとこ)であった。美濃大垣十万石の譜代大名である。

 3月19日、城明け渡し見分の使者を命じられた大目付荒木十左衛門と榊原采女の連名の書状が発せられ、同月25日夜、赤穂に到着した。

 戸田も3月25日付、次いで4月3日付の書状で、赤穂の藩士たちに城の明け渡しを申し送った。
 広島浅野家三次浅野家も、同様に赤穂に使者を送り、幕府の命令を遵守し、抵抗せず城を明け渡すようにと教諭した。これらの指示に対し、城中では議論が噴出した。

 赤穂家中の者がなぜ素直に城を明け渡せないのか。主君を切腹に処したのならば、喧嘩相手の吉良上野介(きら・こうずけのすけ)にもせめて何らかの処分をしてほしい(喧嘩両成敗)。そうでなくては、武士の一分が立たず、命を永らえたとしても世間に顔向けできない。これが武士社会の常識であった。


 赤穂城明け渡し

 各人の考えはまちまちであったが、大石は、結局、赤穂城籠城も殉死も、最終的に断念した。それは、浅野家の名跡をなんとか存続させたいと思ったからである。もし、籠城などの手段に出れば、内匠頭舎弟の浅野大学の身の上もあぶない。とにかく、城は引き渡し、その上で幕府への嘆願をしようと決断したのである。


 大石の決意

 4月5日、赤穂城中において、家臣への配分金が渡された。とりあえず、これで、藩士たちは自由に離散してよいことになる。

 注目すべきは、大石がこの配分金を受け取らなかったことである。私利私欲のない態度は、家臣たちの信頼を高めたことであろう。

 そして4月18日、大石は、無事城明け渡しを果たした。城付き武具の帳面も完備し、城内の清掃も行き届いており、『江赤見聞記』によると、上使両名は、「諸事仕方無類の儀ども、感じ入り申し候」と賞賛したという。

 赤穂を去った大石は、山科(やましな)に居を定め、亡君浅野内匠頭の弟浅野大学による御家再興を目指して工作する。城を明け渡した後も、大石は、急進派に対して、とにかく内匠頭の三回忌までは待つようにと説得を重ね、旧家臣をまとめていた。

 そして、翌元禄15年7月19日、浅野大学が本家の広島藩にお預けになって、御家再興の夢が潰えると、同月29日の京都円山での会議で大石は吉良上野介を討つことを決め、この年12月24日、本所の吉良上野介邸に討ち入りを敢行するのである。

 家老である大石には、まず主家の家名の存続を考える必要があり、また様々な意見を持つ藩士たちを取りまとめていかなければならなかった。一年半もの月日がたつと、当然離脱する者も出てくる。それは仕方がない。

 しかし、同志の暴発を押し止め、離脱者を最小限に抑えて、ついには吉良邸討ち入りを成功させ、武士の意地を晴らした最大の要因は、やはり最初から自分の身を棄て、家老としての職責を果たそうという大石の責任感と矜持があったからであろう。ここには、冒頭で述べた現代の支店長たちと相通ずる面がある。


以上


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プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子ほか多数。

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