おんな維新物語

おんな維新物語
 サンデー毎日16年2月28日号
おんな維新物語
 世が世であれば……。
おんな維新物語





 おんな維新物語


 時代は変わり続ける。方向性を正しく見定めて、コツコツ努力し続けるしかない。あとは、覚悟の決め方か。

 サンデー毎日連載の岩尾 光代さんの「おんな維新物語」、2月28日号分を抜粋してご紹介します。

.......... ...........


 貴族消滅から開拓者の道へ
 地下足袋の伯爵夫人 徳川幹子(もとこ)


 昭和21(1946)年6月、一人の女性が水戸市郊外の「原っぱ」にやってきた。
 一橋徳川家の当主、宗敬(むねよし)夫人幹子である。まだ華族制度が残っていたので、幹子はれっきとした伯爵夫人だったが、それまでの生活一切を捨てて、土地を開墾して生きようと覚悟したのだ。このとき、幹子は43歳になっていた。

 幹子が入植した水戸市見川町丹下は、水戸徳川家の土地だったが、、農地解放の対象になり、34所帯に払い下げられた。幹子の夫宗敬が一部を買って、2人で入植しようという計画だった。農業に適した土地ではないから、ゼロからの出発になる。

 荷物はリュックに入れたパン2、3食と最低限の身の回り品だけ。

 今日よりはふる里になりぬこの夏野

 忘れられない入植の日に、幹子が詠んだ句だ。それまでと一変した生活に「覚悟はできていたから、別に〝えらいことになった〟とは思わなかった」と後に自伝で回想するが、驚いたことではあろう(1984年刊『わたしはロビンソン・クルーソー』)。

 その日から、幹子の開拓者生活が始まった。電気が通じるまで3年間はランプの灯り、ドラム缶の風呂に近所の者たちが変わりばんこで入る。トイレは4本の棒を立てた回りを刈ってきたカヤで囲い、甕(かめ)を埋めたり素掘りした穴の上に板を2枚並べただけの粗末なもの。蚊やノミに食われ、あかぎれやしもやけは出来放題だったが、飲み水さえあれば人間は死なないと、どこか度胸もできた。

 戦後も一橋徳川家の資産は堅実な家風なりに残り、経済的には開拓を始める切実な理由は見当たらなかったから、周囲は仰天した。


 幹子は明治35(1902)年12月8日、池田仲博侯爵と享子(みちこ)の長女として、東京麻布市兵衛町の邸で生まれた。
 父・仲博は徳川慶喜(よしのぶ)の五男で、家付きの享子と結婚して旧鳥取藩主の侯爵家を継いだ。

 幹子は大正9(1920)年4月16日、17歳で結婚した。夫の宗敬(むねよし)は5歳年上、水戸徳川家の次男に生まれ、一橋家を継いでいた。東京帝大農学部を卒業後に帝室林野局に勤務する林政学者である。姑の鉄子は慶喜の三女であり、幹子には伯母にあたる。


 質素な台所に置いてあった「葵の紋」入りの湯飲み茶碗

 何不自由なく育ち、結婚生活も順調だった幹子が、地下足袋を履き鋤(すき)を手にきびしい開拓者に変身するにいたった背景には「貴族階級の消滅」を実感した衝撃の体験があった。

 それは、結婚直後に遊学したドイツ時代にさかのぼる。
 大正15(1926)年初夏、宗敬はドイツで林政を学ぼうと留学、幹子も同行した。「戦争に負けることはどういうことか」を知ったのが一番の教訓だったと、幹子は言う。

 当時のドイツは第一次大戦に負け、革命が起きて体制が変わり、国民は苦しい生活を送っていた。首都ベルリンには大正6(1917)年のロシア革命でロマノフ皇帝一家が処刑され、難民となった貴族たちも多く暮らしていた。

 売り食いの果てに夜の女に身を落とす者もいる悲惨な状況なのに、肩寄せ合ってサモワールの紅茶を飲みながら、過ぎ去った栄光の日々を追憶するばかりの滅びゆくロシア貴族

 それに比べ、同じく革命で地位も財産も失いながら、ドイツ貴族は現実的に新しい生活を切り開こうとしていた。

 「明日は我が身」だと恐れながら、夫婦は日本の華族にも襲い掛かるであろう「革命の嵐」に備えることを語り合い、「生活者が一番強い」と確信した。ドイツで見知った天文学的なインフレと没落貴族の明暗は、日本の近未来図だという予感を抱いて、夫婦は帰国した。


 その危惧が現実になるのが、昭和20(1945)年8月の敗戦
 進駐してきた米軍が林町(現在の文京区千石1丁目)の自宅西洋館を接収するとすぐに、幹子は水戸へ向かった。夫の宗敬は復員後、貴族院副議長として敗戦処理に当たった。そのまま緑風会所属の参議院議員として活動、サンフランシスコ講和会議にも出席した。おのずから開拓には幹子が独りで取り組んでいくことになる。

 作物が「まあまあ」というところになるまで丸9年かかったが、「自分で作った作物ができたときの気持ちは当の本人でなければ絶対にわからない」(前出の自伝)と、幹子は〝生産者〟の喜びを回想する。それは、「二つの人生」を生きた幹子が、初めて得た充実感だった。やがて、成人した長男と一緒に酪農を軌道に乗せ、「徳川牛乳」と名付けて売った。

 幹子が晩年を過ごした開拓地の家を訪れたことがある。質素な台所に置いてある湯飲み茶碗には、白地に藍で(あおい)の紋が描かれていた。かつて伯爵家で使ったものだろうが、開拓農家の板の間にもよく似合っていた。


以上


コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子ほか多数。

最新記事
カレンダー
06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
最新トラックバック
リンク
カウンター