変化対応

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 ダイエー碑文谷(ひもんや)
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 イオン御嶽山(おんたけさん)駅前店。この左隣が御嶽神社。見事な桜がある。
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 イオン御嶽山駅前店。屋上が駐車場。田園調布が近く、休日ともなるとベンツ、BMW、ジャガーなどが駐車待ちでズラリと並ぶ。手前は東急池上線踏切。左側は駅舎。
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 香東川
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 最近は黄色い花は見えなくなって、この紫の花がいっぱい咲いている。





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 ダイエー碑文谷(ひもんや)が5月5日に41年の歴史に幕を閉じた(今冬イオンとしてオープン予定)。感慨深いものがある。大(ダイエー)が小(イオン)に完全に飲み込まれた。一時代が終わった。

 私は1995年前後、3年ばかり東京にいたころは、東急池上線沿線に住んだ。イオン御嶽山駅前店(当時はジャスコ)まで3分、池上線御嶽山駅まで4分という好立地であった。

 買い物は圧倒的にイオン御嶽山駅前店であったが、近場では2~300㍍ほど離れた隣駅や五反田の東急ストアサミット、目黒区のダイエー碑文谷店、池上線終点蒲田(かまた)イトーヨーカ堂蒲田店に行った。


 ダイエー碑文谷店に初めて行った時は驚いた。売り場面積はイオン御嶽山駅前店の5倍はあろうかというのに買いたいものがなかった。紳士ものに限っての話であるが(婦人物は見ていない)、イオン(当時はジャスコ)は服であれ靴であれ鞄であれ、ブランド物のパクリに近いものもあったが、何かひとひねりというか工夫があった。ダイエーはほとんどなし。ただ、モノがあるだけ。ひねりもなければ工夫もない。

 もうひとつ驚いたのは、服などお客様がくしゃくしゃにしたまま、売り場が荒れていたこと。それなのにお客様はやたら多い。東京の人が可哀想になった。こんな店で買い物をしなければならないのかと。


 その何週間後かに雑誌を読んでビックリした。創業者の中内功(なかうち・いさお)さんはその事実を正確に知っていた!!「ダイエーには、何でもあるが買いたいものがない」「ダイエーのパートのおばちゃんが夕食の惣菜などは他店で買っている」「赤字で人を減らしているので売り場が荒れている」など。やはり只者ではないと思った。

 その時点で、ダイエーはその中内さんをもってしてもどうしようもなくなっていたのだろう。中内さんは2つの点で時代に遅れていた。一つは、ダイエーは地価上昇を前提に店舗展開していたこと。例えば地価坪10万円のところにダイエーが出店するだけで30万円にも50万円にもなった。それを担保に銀行から金を借りて多店舗展開してきた。

 ところが90年代にバブルが崩壊して地価が下がってきた。歯車が逆回転しだした。大借金で首が回らなくなっていった。また、既存店の立地が車社会に対応できなくなっていた

 2つ目は、中内さんの原点は戦中・戦後のモノのない時代であったこと。フィリピンでの兵隊時代には餓死寸前まで体験している。モノのない時代には、腹のふくれるものなら何でもいい、着られるものなら何でも喜ばれる。しかし、今はモノが溢れている時代である。量から質の時代。いらないものはタダでもいらない。「ダイエーにはお客様が見えなくなっていた」

 1980年代の半ばごろまでに中内さんが経営から身を引いていれば、ダイエーは違ったものになっていた可能性がある。


 私は、イトーヨーカ堂は、20年前の蒲田店しか知らない。2回ほど行ったはず。その時の感想は、「田舎のスーパーよりひどい。ダッサ!」である。イオンゆめタウンはよく知っているが、現在のイトーヨーカ堂は全く知らない。経営的にはずーっと厳しいようである。あれだけ素晴らしいオペレーションをしているセブン‐イレブンの親がいつまでも情けない状態なのも不思議と言えば不思議である。


 時代はどんどん変化する。変化に対応できないものは滅びるだけである。


以上


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プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子ほか多数。

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