高松・牟礼は日本の都だった!

高松・牟礼は日本の都だった!
 NHK16年5月7日19:30~「ブラタモリ」は「京都・伏見」。大変面白かった。
高松・牟礼は日本の都だった!
 私は学生時代京都の街をバイクで走り回った。しかし、ほとんどが五条以北。井上章一さんではないが、何となく南をあなどっていた。先日のブラタモリによると、大坂は秀吉の「私」、京都・伏見こそ当時の首都であったとのこと。有力大名の屋敷もあった。
高松・牟礼は日本の都だった!
 四国新聞16年3月26日
高松・牟礼は日本の都だった!
 正面の山が五剣山。その手前が八栗山(やくり)。安徳天皇が仮御所とした六萬寺はその麓の丘にある。
高松・牟礼は日本の都だった!
 八栗山西方の屋島。この麓に御所を造った。源平の古戦場として有名。また、古くは663年の白村江の戦いで倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に敗れ、防衛のため対馬、北九州、瀬戸内各所に山城を造った。屋嶋城(やしまのき)はその一つ。
高松・牟礼は日本の都だった!
 「一ノ谷の戦い」のあとすぐに「屋島の戦い」があったと思っていたが、この間1年あった(1184年3月―1185年3月)。
高松・牟礼は日本の都だった!
源氏方の那須与一は平家が立てた扇の的を見事射貫いた。





 高松市牟礼町(むれちょう)は日本の都だった!


 5月7日(土)のブラタモリ「京都・伏見」。大変面白かったが、なかでも豊臣時代の日本の首都は「京都・伏見」であったというのが衝撃的であった。

 そういえば、先日の四国新聞高松市牟礼町(むれちょう)が日本の都だったと書いていたのを思い出した。①正統な天皇②三種の神器(さんしゅのじんぎ:鏡、剣、勾玉)とともにある③御所のある場所――に違いない!

 四国新聞3月26日の該当記事を抜粋してご紹介します。


 行宮六萬寺(あんぐうろくまんじ)
 日本の都だった1年半

 源平合戦で安徳天皇が仮御所とした行宮六萬寺(木次勝禅住職)は八栗山の麓の丘にある。

 古記によれば、開基は8世紀。寺領は広大で西は屋島から東は志度湾にいたり、42の支院を抱える巨大な寺院だった。
 記述通りなら、総面積120㌶。まさに讃岐最大の大寺だ。僧侶の数も千をはるかに超えていたことだろう。

 現在の寺は夫婦住職だけのすがすがしいたたずまいだが、往時のそれは七堂伽藍に大門、南大門を備えた壮麗な巨大寺院で、奥の院は現在の八栗寺、周辺の洲崎寺、開法寺、西林寺、登蓮坊はすべて支院だったという。


 源氏との戦いで都を脱出した天皇と平家の一門がここへ逃れて来たのは1183年(寿永)年。屋島の麓の御所が完成するまでの行在所(あんざいしょ)を選ぶのに、六萬寺以外の選択肢はなかっただろう。

 それから約1年半。ここ牟礼の地は思いもかけず日本の都になった。当時は正統な天皇が三種の神器とともにある御所のある場所、それがなのだ。日本史上、京都以外にそんな土地はない。


 その時代をしのぶよすがを尋ねると「もう石灯籠しかないんですよ」と妙寿さんが茶室、鶏脰樹園(けいとうじゅえん)に案内してくれた。
 露地の待合に連なる雑木に隠れるように立つ六地蔵灯籠は、平清盛の三男宗盛の寄進と伝えられている。 

(明石安哲さん)


以上


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teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子ほか多数。

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