『食糧も大丈夫也』

『食糧も大丈夫也』
 海野 洋(うんの・ひろし)さん (農林統計出版) 5940円
『食糧も大丈夫也』
 毎日新聞16年7月10日(書評者:磯田 道史さん)
『食糧も大丈夫也』
 讀賣新聞16年7月6日
『食糧も大丈夫也』
 先日マックで2時間ほど溜まった新聞を読んでいたところ、夕方より急に体調を崩した。冷房の風にまともに当たったため、首肩の筋肉を冷やし過ぎたものと思われる。ガチガチになり痛いし気分が悪い。ある程度回復するのに2日を要した。





 『食糧も大丈夫也』


 私のライフワークの一つは〝日本はなぜあの馬鹿げた戦争を起こしたのか〟を研究することである。いろいろ本を読んだが、開戦の契機は「石油や鉄などの資源」不足の心配だったとばかり思っていた。もろもろの本にはそう書いてある。しかし、この本では、コメなどの食糧であったかもしれないと言う。

 毎日新聞7月10日、歴史家の磯田道史さんの書評をご紹介します。この本をきっかけにもっと研究が進んでほしいと願っている。


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 大日本帝国が心配した「資源」は食糧


 大日本帝国は「資源」の心配から、フランス領インドシナ(仏印)の南部に進駐したそれに怒ったアメリカが「日本に石油を輸出せぬ」といい、帝国陸海軍は「アメリカに石油を止められては軍が動けなくなる。動けなくなってからアメリカに戦争をしかけられては必敗だ。ならば、こっちから戦争を仕掛けよう」と、あろうことか中国との戦争中に、さらに米・英・蘭に対して戦争をはじめた。このことは教科書で習う。

 しかし、あまり知られていない事実がある。大日本帝国が心配していた「資源」は、石油や金属というよりも、直接的には、コメなどの食糧であったかもしれない、ということだ。

 幕末の日本人口は3400万人、玄米の生産高は2500万石ほどであった。この段階では日本人全員が毎日コメは食べられなかったが、明治大正になって豊かになり米食が普及した。日米開戦直前の1939年に日本本土の人口は7100万人ほど。彼らが十分にコメを喰うには本土に毎年コメ8000万石が必要であった。ところが本土では毎年7000万石ほどしかコメがとれない。そこで植民地にした朝鮮と台湾からコメを輸入

 概算で朝鮮のコメ収穫量の20%(500万石)。台湾のコメ収穫量の50%(500万石)、合計1000万石を本土に運んで主食消費の帳尻をあわせていた。

 ところが、昭和14(1939)年、朝鮮と西日本で大干ばつが起きた。日本は慌てて、仏印・タイ・ビルマからコメを緊急輸入。ここで日本人は南方のコメ=南方資源の重要性を身に染みて知ってしまった著者は「活路を求めた輸入米が南部仏印進駐の遠因ともなり、日米関係の決定的悪化、大東亜戦争への道に繋がった」とする

 昭和天皇と松岡洋右外相は、南部仏印に進駐すれば、英米の影響のつよいタイやビルマなど南方のコメが入手できなくなると懸念。しかし、海軍は「米の全面禁輸」を受ければ「猶予なく武力行使」と態度を決めており、陸軍もコメなどを確保するためにむしろ南方を占領する国策遂行へと向かった。

 結局、東條英機に近い企画院総裁陸軍中将鈴木貞一が東條内閣の閣議で「食糧も大丈夫也」と根拠のない太鼓判を押すなどして、開戦が決断される。その様子を本書は緻密にあとづけている。

 しかし、本土で主食さえ自給できない日本である。化学肥料も大半が輸入。海軍内部には図上演習の結果、アメリカと戦えば日本の制海権は1年半から2年しかもたない、南方のコメや資源は確保しても日本本土に運べなくなるから無意味との研究結果も出ていた

 総力戦研究所、満鉄調査部などが、開戦数年後からの食糧危機を予測していたが、これらは国策決定上、生かされないか故意に無視され、戦局悪化とともに食糧難が日本を襲った。ここに至って、陸軍も食糧の危機を正確に認識したが、食糧難を理由に徹底抗戦の籏を降ろすことはなかった。

 最終的に、昭和天皇が終戦を決断したが、その「動機は、日本国民が戦争による食糧不足や多くの損失にあえいで」おり、戦争継続は一層の悲惨さをもたらすだけ、と考えたためであった(米NBC放送インタビュー1975年)。

 昭和の戦争の研究は多いが、食糧の視点から、大日本帝国の国策決定を精密に分析したものは、まず本書であろう。あの戦争は、当時の子どもの平均身長を6㌢も縮めた。1930年代前半の生まれ年の人には、小柄な人が多い。どうして、こんなことになったのか。無責任な報告や決断をした為政者は誰なのか。本書を読めば顕然とわかる。


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(感想・意見など)

  この本でも、企画院総裁陸軍中将鈴木貞一が出てくる。他の本でもいろいろ取りざたされる人物であるが、大変評判は悪い。極東軍事裁判ではA級戦犯となり、終身禁固刑を言い渡された。1955年仮釈放、1958年に赦免され、100歳まで生きた。

 この本の脚注では、御前会議などで「鈴木貞一企画院総裁は癖のある説明を行ったようである。若槻禮二郎元首相は、『古風庵回顧録』で、『実に奇妙な答弁をする人で、何か生産の事-例えば石油はどうかと聞くと、彼はだんだん説明していって「日本に愛国心がある以上は必ず出来る」という。忠義な国民がおりさえすれば、なんでも出来るような答弁をする。こんな男をつかまえて問答をする気にはなれない』との評を加えている」とある。

 事実は動かし難い。事実を重視すべきである。何故、「愛国心」とか「忠義」とか、このようないい加減な人物が国策を決定するような重要な立場に就けるのか。まともな人物もいたが、結構この種の人物が幅を利かせていたようである。極めて疑問である。


以上


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プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子ほか多数。

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