江戸の町を運営する町役人②

江戸の町を運営する町役人②
 (祥伝社新書) 素晴らしいネタ本。
江戸の町を運営する町役人②
 『江戸大図鑑』(洋泉社MOOK) 江戸の町家。
江戸の町を運営する町役人②
 (江戸MOOKもの)
江戸の町を運営する町役人②
 第8巻(藤原書店) 9504円 岡田英弘先生も85歳、完結を喜びたい。
江戸の町を運営する町役人②
 毎日新聞16年7月20日




 引き続き『江戸「捕物帖」の世界』からの抜粋・引用です。


 江戸の町を運営する町役人②

 裏長屋の住民に密着していた家主


 家康の入府時からの商人たちは、江戸の開発に協力し、土を与えられて地主になり、寛政3(1791)年には約1万9000人の地主がいた。

 地主は町政では名主の下に属し、表通りは商人に土地だけを貸しているが、商売に向かない裏の土地には長屋などを建てて貸した。

 地主は何カ所も土地を持っているため、その土地に居住する者は少なく、人を雇って貸家を管理させた。この管理人が「家主(やぬし)」で大家(おおや)とも家守(やもり)とも差配(さはい)とも呼ばれた。

 町奉行所は、裏長屋に住む庶民まで把握せず、町単位で人々の状況を抑えているにすぎないため、家主が果たしていた役割は大きい。家主の実際の仕事は、町内の治安維持、警備、法令伝達などで、住民の誕生や死亡から女中の採用まで、町内住民の異動を人別帖に書き込むなど、末端の町政を一手に担っていた

 店子(たなこ)が賭博や岡場所での淫売、失火などの犯罪を犯せば、家主も連座して過料や押込みの罰を受けるため、家主は普段から店子の相談に乗ったりして気を配らねばならなかった。

 また、店子が旅をするには、家主が町奉行所に関所手形を申請してやり、店子が結婚するにも家主の許可が必要だった。店子が事件に関係して町奉行所に呼び出されると、町名主とともに紋付袴姿で同道せねばならない。

 町名主から受けた町触は自身番の表に貼り出すが、字の読めないものを集めて読み聞かさねばならなかった。町に諸役人が立ち寄れば立ち会い、諸経費を計算したり、変死体が出れば駆けつけて検視をし、道の修理や火の番、夜回りの監督、火事現場に急行したり町奉行所同心から罪人を預かるなど、雑務に追いまくられていた。

 このように超忙しい家主は、地主に雇われて敷地内に無料で住み、地主から家賃の5%を与えられ、店子から家賃以外に礼金、挨拶料、五節句の節句銭などを受け取った。さらに管理する裏長屋などの下肥(しもごえ)は葛西(かさい)などの百姓に売り、これが年に30~40両になる家主もいた。また店子が使った空樽を売る権利も持っていた。

 寛政3(1791)年には、約1万7000人の家主が任務に就いていた。家主には家主株が必要で、株は場所により30両(約300万円)から200両(約2000万円)もした。


 町内の裏長屋の住民たちの生活は


 家主から管理されるものの多くが裏長屋に住んでいる。長屋という集合住宅の一戸あたりは間口が九尺(約2.7㍍)、奥行きが二間(約3.6㍍)の3坪(6畳)が普通だった。3尺の土間があり、隅に流しと竈(かまど)が据えられ、水桶も置いてある。残りの4畳半が居間兼寝室で、畳敷きもあったが多くは板敷に筵(むしろ)を敷いていた。押入れはなく、夜具は畳んで衝立で隠し、井戸もトイレも共同である。

 この長屋の店賃は、造りや場所で異なるが、文政年間(1818~29)の頃で1カ月に800文(もん)から1000文とされている。大工や左官などの職人の2~3日の手間賃が家賃になったと考えられる。


 床屋には別の役割があった


 床屋は町木戸の近くに店を構え、人の往来を見張っていた。

 町奉行所では火災に備えて、普段から重要書類を木箱に入れて運びやすいようにしてあったが、奉行所近くで火事があると、床屋が駆けつけて書類箱を運び出した。床屋には烙印を押した木札が、身分証明書として渡されていた。
 床屋は刺子(さしこ)の長襦袢に頭巾を被り、床屋の印のある提灯を持って「駆け付け!」と大声で叫びながら、町奉行所へ突入していくのである。


 町入用(ちょういりよう)はこのように使われた


 町名主をはじめ町役人の給与など町の運営費は、表通りに店舗を構える町人から徴収する町入用から支払った。そのため町入用が高くなれば物価に反映するため、町奉行所は無駄な出費を抑えるよう指導していた。町入用は毎月集められ、多くは地所100坪につき1貫500文から2貫前後のものであった。

 将軍家斉(いえなり)時代の老中松平定信は、寛政3(1791)年に、町入用を軽減させ、店賃や地代を下げるよう町法を改正した。こうして節約できた金額の7分(7割)を江戸町会所に積み立てる「七分積立制度」を施行した。

 また、天明7(1787)年5月に、天災による飢饉から江戸市中で打ち壊しが起こった反省から。町会所に非常用の食料確保に米の備蓄を命じ、浅草向柳原(むこうやなぎはら)に社倉を設けて米籾を蓄えさせた。福祉政策物価安定を狙ったものである。

 町会所は年々金と米籾を蓄え、病気で暮らしに困る独り者には、白米5升と銭1600文を支給し、疫病の流行時や災害時に罹災者救済に役立てた。

 町会所が運用して増やされた基金は、70年後の幕府崩壊時には170万両にもなっており、明治時代になって東京の学校開設や道路建設に活用されたのである。


以上

 

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teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子ほか多数。

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