日露友好史

日露友好史
 毎日新聞16年12月6日
日露友好史
 四国新聞16年12月6日
日露友好史
 朝日新聞16年12月6日
日露友好史
 紫雲山ハイキングコース。やっと赤色にキレが出てきた。今年は遅い。





  日露友好史


 安倍-プーチン会談が近いためか、日露友好史のような記事・コラムが多い。2つほど抜粋してご紹介します。


.......... ..........


● 毎日新聞12月6日、専門編集委員・玉木 研二さんのコラム「火論」から


 ペリーの陰に


 1985年、鎖国日本を「太平の眠り」から揺り起こしたペリー率いる米艦隊来航。教科書は特筆するが、わずかに遅れたロシアのプチャーチンは今影が薄い。

 歴史研究者で外務省外交史料館に勤務する白石仁章(まさあき)さん(53)の著書「プチャーチン―日本人が一番好きなロシア人」(新人物ブックス)が興味深い。

 江戸への武威で開国を迫ったペリーとは対照的に、プチャーチンは鎖国中の窓だった長崎に来航、煮え切らぬ幕府中央の対応にいらだちながら、辛抱強く待ち続けた。

 やっと全権の筒井政憲(まさのり)らが着く。プチャーチンの秘書官で作家のゴンチャローフが鋭い観察眼で航海ルポを残すが、当時70代の筒井のたたずまいには圧倒されたらしい。

 〈私たちはじっと彼の目を見つめていた。老人は最初から私たちを魅了してしまった。(中略)誰しもこの好々爺(こうこうや)を見れば、自分のおじいさんにしたくなるであろう。おまけに、この老人の物腰には立派な教養がにじみ出ているのだ〉(「ゴンチャローフ日本渡航記」講談社学術文庫)

 談判は不調に終わるが、その後の信頼感情は生まれた。プチャーチンは長崎来航を繰り返した後、幕府の申し入れで伊豆の下田に入港する。

 ところが日露和親条約締結交渉のさなか、安政東海地震が発生、津波に襲われた下田の町は壊滅し、プチャーチン一行のディアナ号も大破、死傷者を出した。下田の惨状はそれを上回る。プチャーチンは上陸し、ロシア人医師を被災者治療に、と申し出た。

 かろうじて浮いているディアナ号を修理するため、幕府の許可を得て、駿河湾の面した戸田村(へだむら:現静岡県沼津市)に回航中同号は沈没、沿岸の村々から人々が駆けつけ、多数の乗組員たちを救った

 これがまた、日露の絆をつくることになる。

 戸田村での新船建造は職人や村人らも協力し、貴重な西洋式帆船建造技術を広めた。条約締結後、プチャーチンらは、村名から「ヘダ号」と名付けた船で祖国に帰る。

 プチャーチンは終生の親日家になり、日本人留学生らを支援した。娘は戸田村の人々を訪ね交流している……。


.......... ...........


● 四国新聞12月6日、「一日一言(げん)より


 香川県丸亀市土器町(どきちょう)にある「駒ケ林(こまごばやし)陸軍墓地」の一角に、知られざる墓碑が建っている。正面に刻まれた文字は「露国歩兵卒キリール・ブーヅニコフ之墓」

 日露戦争(1904~05年)後、同市塩谷町の現本願寺塩谷別院にあった丸亀俘虜(ふりょ)収容所で病死したロシア兵だ。

 当時、県内には同院と多度津町白方の2カ所に収容所が設置され、満洲などからロシア兵がそれぞれ350人と1千人が俘虜(捕虜)として連れられてきた。捕虜と言っても、収容所では人道的に扱われ、県民も好意的に接していたという。

 地域の歴史研究家・故松本周滋さんが集めた資料には、海水浴や買い物のほか、栗林公園を遊覧したという記録が残っている。地域住民とも交流し、舞踏会を催したり、小学校の運動会を参観したりしていた。1905年11月3日、ブーヅニコフさんが28歳で亡くなると、捕虜全員と職員らが葬列をつくり、ロシア正教にのっとって同墓地に埋葬した

 40年後、第二次世界大戦でロシア(旧ソ連)は中立条約を無視して北方領土に侵攻した。さらにシベリアなどに旧日本兵ら約60万人を抑留。過酷な強制労働などで約5万5千人の命が失われた。

 ブーヅニコフさんの遺骨は長崎に移されたが、墓碑は日本人のものと区別することなく、100年以上も地元住民らが供養してきた。


...................................................................................................


何年か前にはトルコのエルトゥールル号事件が話題となり、映画化もされた。

 1890(明治23)年9月、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が、和歌山県串本沖の海上で遭難し、600名近い犠牲者を出した。遭難の報を受けた串本町の住民は、総出で救助と生存者の介抱にあたった。明治天皇も政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示した。民間でも義捐金を募り、犠牲者遺族に贈った。回復した69名はその後、日本海軍の巡洋艦でトルコまで丁重に送った。

 こうしたことは多くのトルコン人の知るところとなり、95年後、1985年イラン・イラク戦争時に、在イラン邦人215名をトルコ航空が救援機を出して救出してくれた。

 (トルコには感謝している。本来なら、日本政府が自衛隊機を送って邦人を救出すべきであった。しかし、海外派遣不可ということで救援機を送ることができなかった。また、安全が保証されないとして救援機を出さなかった日本航空も情けない。私はJALには出来るだけ乗らない。これだけ邦人が海外進出しているなか、早急に解決すべき問題である。いつでも起こり得ること。当たり前のことが、いつまでたってもできない国である)


以上


コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子ほか多数。

最新記事
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
最新トラックバック
リンク
カウンター