「最後の退位」光格天皇

「最後の退位」光格天皇
 四国新聞17年5月30日
「最後の退位」光格天皇
 讀賣新聞17年5月31日
「最後の退位」光格天皇
 産経新聞17年6月9日
 民進党の辻元清美衆院議員は、若いとき天皇制について「ああいう一族がいる近くで空気を吸いたくない」「天皇っていうのも、日本がいやだというひとつの理由」と発言。現在は深く反省しているという。そういえば、歌手の加藤登紀子さんも若いとき、「日本という言葉を発するときに、たえず嫌悪の匂いが私の中に生まれ、その言葉から逃れたい衝動にかられる」と言っていた。現在はどうなのだろう?
「最後の退位」光格天皇
 花菖蒲
「最後の退位」光格天皇
 古代蓮





 「最後の退位」光格天皇


 本日、天皇陛下の退位を実現する特例法が、参院本会議で可決、成立した(自由党はなぜ棄権したのか?)。退位が実現すれば、江戸時代後期の光格天皇以来、約200年ぶりのことになるという。

 NHKのニュースによれば、退位の儀式などは、200年前の光格天皇のとき、1000年前の平安前期の「貞観儀式」などを参考にするという。


 四国新聞5月30日に光格天皇に関する記事が載っていた。儀式を再興させたり、あるときは幕府と対立しながらも現在につながる天皇像を築いた人(「天皇」の称号は通常使われていなかったという)であったという。抜粋してご紹介します。


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 「最後の退位」光格天皇に注目
 権威高め、理念追及
 儀式再興や幕府と対立


 注目を集めるのが約200年前、最後に退位(譲位)した光格天皇だ。新嘗祭(にいなめさい)など皇室の儀式を再興させ、時に江戸幕府と対立しながらも天皇の権威を高めた。歴史家は「天皇としてあるべき姿を自ら描き、その理想を追及した人だった」と評価する。


 天皇陛下の直系の先祖である光格天皇は江戸時代後期の1771年、新設されたばかりの閑院宮(かんいんのみや)に生まれた。79年に後桃園天皇が急死すると、その子どもが1歳にも満たなかったため、養子となり、急転直下で即位。1817年に息子の仁孝天皇に譲位するまで在位した。

 当時、天皇は幕府の「お飾り的存在」といわれた。光格天皇は、それまでの天皇家からは遠い血筋の宮家から即位した事情もあり、朝廷内でも軽んじられた扱いを受けたという。そんな中、学問に励み、自らの天皇像を模索した。

 朝廷の多くの神事や儀式は、室町時代の応仁の乱から戦国時代にかけて衰退したが、その再興や復古に尽力。現在の皇室で最も重要な祭祀(さいし)とされる新穀を祝う新嘗祭は、簡素化されていた儀式を古来の形に復活させた。

 さらには、飢饉に苦しむ人々に米を与えるよう幕府に異例の訴えをして、実現にこぎ着けた。光格天皇は、2代前の天皇だった後桜町上皇に宛てた手紙の中で「君主は天下万民に仁を施さなければならない」と記している。

 幕府との間では有名な「尊号事件」も起きた。光格天皇が実父の典仁(すけひと)親王の序列を上げるため、天皇の譲位後の称号である「太上(だいじょう)天皇」を贈ろうとし、老中松平定信が拒否した事件だ。交渉が決裂し、光格天皇の願いはかわなかったが、世間では朝廷に同情が集まるなど、幕府と朝廷を取り巻く環境は変わっていったとされる。

 譲位後も上皇として院政を敷き、40年に死去。光格天皇という称号は死去後に贈られた。「天皇」の称号は、平安時代中期から一部の例外を除き使われておらず、約900年ぶりの天皇号の復活だった。この間は「院」の称号が贈られていたとされる。

 光格天皇に関する著書がある藤田覚東大名誉教授(日本近世史)は「天皇だから権威がある、という時代ではない中、高い理念を持ち続け、権威を自ら身に付けた」と説明する。光格天皇が築いた天皇像が、明治時代以降の近代天皇制へとつながっていった。


以上


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teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子ほか多数。

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