韓国併合挫折した間接統治

韓国併合挫折した間接統治
 毎日新聞18年1月26日
韓国併合挫折した間接統治
 李朝末期の京城(ソウル)。ほとんど古代同然。韓国は、日清ロの間であっちにふらふらこっちにふらふらとして、東アジアの不安定要因となっていた。
韓国併合挫折した間接統治
 (文春新書) 853円 ★★★★★
韓国併合挫折した間接統治
 朝鮮の人口推移。
 日本が併合してから国家予算の約2割を投資。農工商あらゆる産業が活性化し、豊かになり人口も増えた。
韓国併合挫折した間接統治
 近くの神社の猫たち。





 韓国併合挫折した間接統治


 毎日新聞2018年1月26日「明治150年」企画が面白い。16回目は韓国併合

 京都大学・伊藤 之雄(ゆきお)教授(日本政治外交史)の論考を抜粋してご紹介します。


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 挫折した間接統治型構想


 明治維新後において、朝鮮半島は極東の秩序を揺るがす可能性が強い地域と見られた。

 東アジアに帝国主義の波が本格的に及び始めた1880年代、清国と日本は防衛力と治安維持力の弱い朝鮮国へのロシアの侵略を警戒した。

 その後、朝鮮改革をめぐる対立から日清戦争が起こり、それに勝った日本は、95年以降、朝鮮半島でロシアと勢力圏をめぐって対立を継続した。朝鮮国(97年から韓国)側は、日本の影響力拡大を恐れ、ロシアに接近して均衡をとり、独立を維持しようとした。

 清国において列強排斥の動きである義和団の乱が拡大すると、1900年からロシアは満洲(現中国東北部)を占領した。日本は満洲から朝鮮半島へのロシアの圧力に強い危機感を持ち、1904年に日露開戦に踏み切った。

 日露戦争は日本の首脳にとって、日本の安全保障を確保するため、ロシアが満州を勢力圏とするなら日本は朝鮮半島を勢力圏にしようとして、日露の調整がうまくいかず起きたものであった。日本はかろうじて勝利するが、両国とも国力を大きく消耗した。

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 伊藤博文を含め日本政府首脳は、日露戦争の一因を韓国が不安定なことに帰し、韓国を日本の保護国にしようとし、米・英・露などから承認を得て、日露戦争後の1905年に実施する。外交権を奪い、日露戦争中と同様に軍隊を駐屯させ、伊藤が統監として韓国の首都ソウルに赴任。韓国の内閣を通して、内政の近代化を強く指導した。

 伊藤の構想は、①灌漑や農事改良・植林などによる農業生産力の向上、②近代的な教育制度の創設、③行政から司法を分離した近代的司法制度の創設、④警察力の拡充と治安の確保、⑤財政など王室(宮中)と政府(府中)の区別、等である。

 伊藤は、隣国の韓国が近代化し治安の確保もできて安定し、日本の影響下にあれば、安全保障の面からも日本の利益になり、韓国の利益になると考えた。

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 しかし、韓国側の大勢は、日本の介入を植民地への一歩ととらえ、伊藤の改革は十分に進展しなかった。韓国皇帝高宗は、1907年6月に始まった第2回ハーグ国際平和会議に密使を送り、日本が韓国の独立を侵そうとしていると訴え、列強に支援を求めた。列強は韓国が日本の勢力圏であることを承認していたので、高宗に同調しなかった。

 伊藤は高宗を退位させ(純宗が即位)、軍隊を解散させ、内政へのさらなる強い指導を行った。

 この事件を機に韓国を併合しようとの考えも、山形有朋(やまがたありとも)系官僚の中にあったが、実施されなかった。明治天皇の信任が厚い伊藤統監が、韓国の近代化には韓国人の自発性が必要だと考えており、併合を嫌ったからだ。

 だが、韓国人の多くは伊藤の統治を併合への準備と考え、統治に非協力的であったばかりか、義兵(反日ゲリラ)の動きが活発化した。伊藤も1909年春までに、併合せざるを得ないと考えるようになり、同年4月に山県系官僚の桂太郎首相らの併合への提言に同意した。

 同年7月に閣議で併合の方針のみ決定したが。併合の時期と形式は不明のままだった。伊藤が、併合後の韓国に公選制の植民地議会を作り、ある程度の住民自治を認め、また韓国人による責任内閣を組織して日本が間接的に統治することを構想していたからであった。

 当時、山県系の実力者の桂首相や寺内正毅陸相も伊藤に接近しており、山県はむしろ孤立気味だったので、じっくり準備していれば伊藤型の併合がなされただろう。

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 ところが、1909年10月に伊藤が韓国人独立運動家の青年安重根に暗殺された結果、山県ら山県系の主導により、日本陸軍や官僚が直接統治する形の併合となる。これは準備期間をあまり必要とせず、1910年8月に実施された。

 皮肉なことに、伊藤はこのような併合への道をリードした人物、と韓国側にみなされた。伊藤が暗殺されなかったら、伊藤型の併合が実施され、その流れが継続した可能性がある。その場合は、反日独立運動は続いたにせよ。多少緩和されていたかも知れない。


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 (感想・意見など)

 伊藤博文には安重根らの放った弾丸3発があたったが、30分ほど生きていた。自分を撃ったのが朝鮮人だと知らされて、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」とつぶやいたと言われている。


以上


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teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子ほか多数。

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