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『小説 曲直瀬道三(まなせ・どうさん)』

『小説 曲直瀬道三(まなせ・どうさん)』
 山崎光夫さん著 (東洋経済新報社) 2592円(税抜き2400円) 年末年始に読んだ。
 私にとっては★★★★★。戦国時代(480年~420年前)の日本の先端医療の様子がよく分かる。道三の医療は現代にも通用するものがある。

 もし、現代の医者が、X線もない、エコーもない、顕微鏡もない、血液検査・尿検査もできないなど徒手空拳の状態に置かれたら、田代三喜(たしろ・さんき)曲直瀬道三などには到底かなわないと思われる。

『小説 曲直瀬道三(まなせ・どうさん)』
 曲直瀬道三(まなせ・どうさん)
『小説 曲直瀬道三(まなせ・どうさん)』
 曲直瀬道三の墓所、十念寺(京都市上京区)。
 道三は、恵まれない人を救ってほしいと毎年、米十俵を贈っていた。

『小説 曲直瀬道三(まなせ・どうさん)』
 産経新聞18年1月9日
 WHO(世界保健機関)は、漢方・鍼灸「医学」に認定。漢方・鍼灸は見直されつつある。

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『小説 曲直瀬道三(まなせ・どうさん)』
 喫茶「珈蔵(かくら)
『小説 曲直瀬道三(まなせ・どうさん)』
 個人経営の喫茶店は3日か4日まで休み。個人経営の店は盆と年末年始しか連休が取れない。ゆっくり休んでほしい。
 会社経営でそれなりの規模の店は休んでも1日だけ(大掃除)。年末年始はこういう店に行くしかない。それもいつまで続くことやら。マックの人が、ひとが集まらないと嘆いていた。

『小説 曲直瀬道三(まなせ・どうさん)』
 近くの神社。元日は人出が多く、口笛を吹いてもたちは現れなかった。3日に行き、口笛を吹くとミャアミャア鳴きながら寄って来た。





 『小説 曲直瀬道三(まなせ・どうさん)』


 曲直瀬道三(1507年~1594年)は戦国時代の医師。京都柳原(御所の北)に生まれた。幼くして両親を失い、伯母、姉に育てられた。8歳で近江の天光寺に預けられ、その後3年ほどのち京都・相国寺(しょうこくじ・御所の北)で修行した。

 道三は、素直でよほど利発な若者だったのだろう。周りの人が次々と次の道を用意した。22歳のとき、その後生涯を共にする西一歐(にし・いちおう)とともに下野(しもつけ:現在の栃木県)足利学校で学ぶことになった。

 そのうち、足利学校の先輩の田代三喜(たしろ・さんき)という医者を知ることとなった。田代三喜は武蔵国(いまの埼玉県)の武士の子として生まれた。15歳のとき医者を志すようになり妙心寺派の寺に入り修行、その後足利学校に移り、23歳のとき中国・明に渡って、12年間李朱医方(李東垣:り・とうえん&朱丹渓:しゅたんけいの医学)を修め、多くの医学書を携えて帰国した。

 三喜は人参使いの妙医と異名をとり、また、富貴貧賤(ふうきひんせん)を問わず診る方針をとっていた。古河公方(こがくぼう)にも重用されたが、関東一円を行き来して医療活動を続けていた。この精神は道三にも受け継がれた。

 道三25歳のとき、67歳の三喜に弟子入りし、関東一円を放浪する三喜に従って実践医学を学んだ。永田徳本(ながた・とくほん)が同行することもあった。

 三喜流医術は、丁寧な見立てが基本で、(しょう:患者の様子)望診(ぼうしん)聞診(ぶんしん)問診(もんしん)切診(せっしん)の四つの方法を駆使して病名を定める。病者に対し、その原因や症状、経過を詳しく見立てたうえで薬方を決める。患者も医者もどちらも納得できる医療である。これは現代の医療にも通じる方法である。

 それに対して当時横行していたのが、医術の心得のほとんどない医者を名乗る人間が、『太平恵民和剤局方(たいへいけいみんわざいきょくほう)』に書かれていることを安易に流用し、右から左へ薬を処方する局方医学であった。

 三喜は、道三に「孤独な放浪医は死ねば終わりだ。おまえは門人を育てろ」の遺言を残して79歳で死去した。道三は三喜の下、25歳から38歳まで13年間師事した。道三は京都に帰り還俗(げんぞく:僧侶が俗人に戻る)して医者として生きていくことにした。

 織田信長など戦国武将が、ライバルである敵将の病状を道三に質す場面が何度も出てくる。ある意味命懸けであるが、道三は医者の倫理を盾に決して明かすことはなかった。それがまた、道三の令名を高めた。これは現代においても言える。医療者には高い倫理性が要求される。

 
 道三はその後、足利将軍、有力戦国大名、堺の会合衆(えごうしゅう)などの後見を得て、日本初の民間医学校「啓迪院(けいてきいん)を開設し、多くの門人を育てた。多くの著作も残し、日本医学中興の祖と称されるようになった。


 道三の子孫は、江戸時代になって、半井家(なからいけ)とともに今大路家(いまおおじけ)として幕府奥医師筆頭の典薬頭(てんやくのかみ)として世襲した。


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 (以降は、著者の「あとがき」から引用する)


 いつ寝首を掻かれるかもしれない戦国の世である。敵の大将を診ている医者に身を預ける行為は危険極まりないはずであった。しかし、多くの武将らが曲直瀬道三を頼ったという。

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三傑をはじめ、天皇、足利将軍のほか、毛利元就、細川晴元、明智光秀、さらには千利休などが軒並み列挙される。よほど医術に長け、さらに人間的に信頼されていたにちがいない。

 市井の人々から多くの武将まで、わけへだてなく診た曲直瀬道三という医者は一体何者なのか。わたしはその生涯に深く興味を持った。それが本書を執筆する出発点だった。


以上


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プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子、足立康史、竜崎伸也ほか多数。

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