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Sony History ②

Sony History ②
 ソニーの電気自動車(EV)の試作車「VISION-S」

Sony History ②
 週刊エコノミスト2020年2月4日号

 ソニーは1月、ラスベガスのCESで電気自動車(EV)の試作車「VISION-S」を公開した。現在、「電子の目」となる半導体CMOS(シーモス)イメージセンサーの世界シェアは55%。いまや、電子立国日本で唯一気を吐いている半導体。
 
 今後、車の自動運転化により車載用イメージセンサー部門が爆発的に伸びるのは確実で、この分野の競争は激烈を極める。

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 日経ビジネス2020年1月27日号

 このグラフの縦軸は時価総額、横軸は営業利益率(2011年3月期と2020年3月期の比較)。
 ソニーは急伸、日立も堅調に伸びているのに対し、パナソニックは低成長にあえいでいる。

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 日経新聞2020年2月15日

 東芝の半導体部門は一昔前はすごかったが、いまやほとんど脱落した。心配なのは、子会社群が循環取引435億円をしていたこと(左下の記事)。「病膏肓(やまい・こうこう)」に入っている可能性がある。歴代経営者がボロで、重要な判断を何度か誤るとこういうことになる。


 Sony Historyの半導体部分を抜粋してご紹介します。


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 Sony History ②


第4章 第1話 初めての渡米

 「これは、ものになるだろうか」
 「いや、こんなものでいけるとは、とうてい思えませんね」

 先ほどから井深岩間(和夫)がアメリカの雑誌を見ては、何やら話し込んでいる。2人が見ていたのは、アメリカのベル研究所がトランジスタを発明したことを伝える記事だ。これには、ポイントコンタクト(点接触)型トランジスタの写真に加えて『ゲルマニウムの結晶片に2本のタングステンの針を立てて……』という説明が載っている。

 「将来性はないな」。この記事を読んで、井深はすぐにそう思った。というのも、井深が無線を始めたばかりの頃使っていた、鉱石検波器のことが脳裏に浮かんだからだ。この鉱石検波器は、方亜鉛鉱という結晶に針を立てて無線電波を検波(放送電波から信号成分を取り出す)する装置で、これに受話器をつなげば無線を聴くことができるというもの。確かにトランジスタとよく似ている。しかしこちらは、そんなに高級な機械とは言い難い。クシャミをしたり、ちょっと体を動かしただけで針が動いてしまう。そうすると、また聴こえる所まで針を動かして探していくのだが、これがえらい苦労である。井深はそれを連想して、こんなものは大して役に立たないだろうと思ったのだ。

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 1952年3月、井深は3カ月の予定で、海外視察調査のため渡米することになった。日本では、テープレコーダーの売れ先が学校を中心にした教育関係に集中しており、これ以外にもっと広い売れ口があるのではないだろうか。アメリカの人たちはテープレコーダーをどういうふうに使っているのだろう。できることなら、作っている所を見て製造過程も学んできたいというのが、井深の渡米の目的であった。

 羽田で家族や会社の人たちに見送られて、ノースウエストの飛行機に乗り込んだ井深は、少なからず緊張していた。初めての海外旅行である。その上、井深は英語に自信がなかった。

 それでも、アンカレッジからシアトルで乗り継ぎ、何とか無事ニューヨークに着いた。
 やはり、アメリカはすごい。何しろ夜中までこうこうと電気がついている。街に出れば車があふれている。
 「これは大変な国だ!」

 見るもの聞くものすべてが驚くことばかりである。車好きの井深は、中古車販売店の店頭に並べられた車を見ては、ため息をついていた。500ドル、800ドルもするのではとても手が出ない。それでなくても、外貨の持ち出しが厳しく制限されていて、1日当たり10ドルか20ドルしか使えず、タクシーにも下手に乗れない状態なのだ。


第2話 眠れぬ夜の決断

 ニューヨークに着いて、まず井深は、かつて貿易会社に勤務していた山田志道(やまだしどう)に会った。

 山田は貿易会社をやめた後、戦前・戦中を通して株の仲買人をやっていて信望も厚く、英語はむろんのことアメリカの事情に詳しい。井深にとっては、打って付けの案内人であった。あちこちと引き回してもらって見物したり、「外貨持ち出しの制限があるので、ホテルに泊まるのがもったいない」と言えば、下宿のような所を紹介してくれたり、「あそこの工場が見たい」と言えば、その労をとってくれたりと、井深が滞在している間中、山田には世話になりっ放しだ。

 そんなある日、井深にアメリカの友人が訪ねてきて、「今度、ウエスタン・エレクトリック社(以下、WE社)がトランジスタの特許を望む会社にその特許を公開しても良いと言っているが、興味はないか」という話をした。トランジスタは、1948年、ベル研究所の研究者のショックレー、バーディーン、ブラッテンの3人によって発明された。このトランジスタ製造特許を、ベル研究所の親会社であるWE社が持っている。特許使用料を支払えば、その特許を公開してくれるという情報だった。

 ところで、その頃井深は、アメリカに来て以来、忙しい毎日を過ごしているにもかかわらず眠れない夜が続いていた。そんな折、いつも井深が思うのは遠く日本にいる仲間たちや、会社の事であった。

 東京通信工業(ソニーの前身、以下東通工)はその頃、テープの製造をするためにいろいろな分野から人を集めてきたため、社員数が急激に増えていた。テープの仕事に一応目鼻が立った今、何とかしてこれらの人たちを有効に生かすことはできないか、興味を持って活躍できる仕事はないものか……井深が考えるのは、いつもそのことだ。

 突然ひらめきがあった。「トランジスタをやってみよう。これには、技術屋がたくさんいるに違いない。研究者も必要になるだろう。それに、あの連中も新しいことに首を突っ込むのが大好きだ。これは打って付けじゃないか」

 トランジスタなどというものは、今回の渡米の目的には全然入っていなかった。井深も、会社のこのような事情でもなければ、WE社の話になど耳を貸さなかったかもしれない。それに、特許料が2万5000ドル(約900万円)というのも、東通工にとっては、大き過ぎる金額である。しかし、今や、やってみるだけのことはありそうだという気持ちのほうが強くなってきていた。トランジスタも発明されてから4年が経ち、当初、井深が考えていたような鉱石検波器とは違うということも分かっていたし、何よりもトランジスタ自体も初期の点接触型から接合型へと進歩を見せていた。

 さっそく、山田に頼み込んだ。「トランジスタの話を、よく聞いて帰りたいんだ」。山田は、WE社の特許を担当しているマネージャーに会えるようにと、何度もコンタクトを取ってくれた。しかし、なかなか面会の約束が取れない。心残りではあったが、事後のことを山田に託し、井深は帰国の途に就いた。さて、この時の井深のアメリカ土産は、ゲルマニウム・ダイオードと、当時日本にはまだなかった、ビニールのテーブルクロスであった。


第3話 町工場なんかでできるものか

 帰国後すぐに井深は、この決断を盛田に伝え、東通工でやれるかどうか相談をした。「やるだけのことは、ありそうですね」と盛田も賛成してくれた。

 次に社内のコンセンサスも得られると、井深はアクションを起こし、通産省にトランジスタ製造の許可を求めに行った。「ちょっとやそっとのことで、トランジスタなんかできないよ」と通産省の返事はつれなかった。町工場に毛のはえた程度の東通工なんかで、難しいトランジスタができるわけがない、そんなことで高額な特許料を支払い、貴重な日本の外貨を使われてはたまらないと、まったく問題にもされない。

 その頃、日本でもトランジスタの開発を始める会社がいくつか現れていた。いずれも日本を代表する大会社である。これらの会社の方法は、アンブレラ契約といって、アメリカのRCA社からすべての技術を供与してもらう代わりに、すべての商品に対して特許権使用料を支払わなくてはいけないというものだ。これら日本を代表する会社でさえこうした契約でやろうとしているのに、東通工がWE社から特許権だけを買い取ろうというのは、いかにも無謀なことというのが、通産省の見解であった。

 ところで、井深の渡米の目的であるテープレコーダーの市場調査のほうであるが、これに関しては、アメリカでも民生用としては日本ほどの普及を見せていないというのが結論であった。つまり、日本では裁判所から放送局といった業務目的から、学校の学習用に使われ、なおかつ一般家庭にも普及しようかという時期に来ているのに対して、アメリカではいまだ講演の速記とか報道機関のメモ用として使われている程度に過ぎなかったのである。

 実際、日本ほど教育におけるテープレコーダー活用の浸透率が高い国は、世界中見回してもどこにもない。これは、学校に販路を開拓していった東通工の大きな功績であった。学校の授業での活用から始まって、各種のけいこ事に使われ、今日のようにテープレコーダーが普及していったことを考えれば、その市民生活に及ぼした影響の大きさは、計り知れないものがある。


第4話 届いた手紙

 トランジスタの特許取得のための努力は、井深から後のことを託された山田の骨折りによって、着々と進められていた。

 山田は、井深がニューヨークを離れた後もたびたびとWE社に通い、行くたびに"東通工は、こういう会社である"と説明してくれた。また、ある時は、山田の得意のスケッチを生かしてオフィスで働く秘書の女性を描いてやったりして、すっかり先方の人たちと仲良くなっていた。そうしたWE社との交渉の詳細を、山田は詳しく報告してきてくれた。

 山田自身とは、さほど関わりもない東通工のために、なぜこれほどまでに面倒を見てくれるのか……永くニューヨークで株の仲買人をやっていた山田の直観によほど東通工という会社は響くものがあったのか、山田は家庭にあっても夫人のまきゑに、「まきゑ、見ていてごらん。あの東通工という会社は、名もない小さな会社だが、きっと今に大きな会社になるよ」と言うのが口癖だった。

 そうした山田の努力が実を結ぶ日が来た。その実は、アメリカから井深の所に届いた一通のエアメールが運んできた。『あなたの会社に特許の使用を認める用意がある。代表者が来てサインをしなさい』。WE社では、東通工がどこの会社とも技術提携をせず、またアドバイスも受けずに独力でテープをこしらえたことに非常に感心し、そういう会社であれば、トランジスタの特許を使わせても大丈夫であろうと判断したらしい。

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 1953年8月、3カ月の予定で欧米の業界を視察することになっていた盛田が、このWE社との契約を任されることになった。盛田にとっても、初めての海外である。今回も、英語をほとんど話せない盛田のために、ニューヨークに着いてから山田がずっと連れて歩いてくれている。「どうして、こんな国と戦争なんかしたんだろう」というのが、盛田の率直なアメリカの印象であった。日本と全然スケールが違う。何を見ても圧倒される。盛田は、少なからず自信を失いかけていた。

 いよいよ明日、WE社に行くということになった。
 盛田は、「東通工といっても、どこの馬の骨ともしれない日本人が来たと言って、WE社は相手にしてくれないんじゃないだろうか」と、いつになく弱気になっていた。WE社に行って、東通工が独力でテープやテープレコーダーを完成させたという事実を、データで示して説明する予定になっているのだ。しかも相手は、東通工とは比較のしようもないくらい大きなWE社である。盛田が不安になるのも仕方のないことであった。

 それでも、山田が付いて行ってくれるという安心感で盛田は気を取り直し、WE社に行く決心がついた。


第5話 欧米視察旅行の成果

 東通工に対するWE社の返事は、「OK」だった。しかし、日本では、まだ通産省の認可が下りていない。そこで取りあえず、許可が下り次第正式に契約することにして、仮調印を済ませた。その折、WE社の技術者たちは「トランジスタというものは、非常におもしろいものだ。しかし、今の段階では可聴周波数帯域(ラジオの放送電波は、これよりもずっと高い周波数)にしか使えない。それにはヒアリングエイド(補聴器)を作ったらよい。日本に帰ったら、ぜひとも補聴器を作れ」としきりに勧めてくれる。盛田は「どう考えても補聴器では大きなマーケットになりそうもないな」と思いつつ、「はあ、はあ」と聞いておいた。

 東通工がWE社と結んだ契約は、ノウハウ契約とは違う。そのため、盛田は調印を済ませると日本に帰ってから役立つようにと、トランジスタに関わるいろいろな資料を集めて回った。とにかく、これで渡米の目的を無事果たした盛田は、次なる視察地ヨーロッパへ向けて旅立って行った。

 最初に行ったのはドイツだ。ドイツは日本と同じく戦争には負けたけれど、素晴らしい技術力を持っているし、その技術力には長い伝統がある。盛田はアメリカで感じたような劣等感を、ここドイツでも感じていた。

 「果たして、アメリカやドイツといった国と同じように、東通工が世界中にマーケットを広げていけるものだろうか」。あれほど、いつかは東通工製品を世界のマーケットに乗せるんだと考えていた盛田も、次第に悲観的になってしまっていた。

 そんな気持ちを抱えたまま、ドイツから汽車に乗りオランダに向かった。ここには、世界的な大企業フィリップスの本拠地がある。この地を訪れて、盛田はひと息ついた気がした。ご存じのように、オランダは農業国だ。町へ入ると、皆自転車に乗っている。「何だか、日本に似た国だな」と、郷愁さえ覚えた。この国には、ほとんどと言ってよいくらい工業というものがない。何しろヨーロッパ中で食べる卵に、オランダという印が付いているくらいの農業立国である。盛田にしても、フィリップスがいかに世界中に大きな力を持っているか知らないわけではない。そのフィリップスが、この小さな国にあるのだ。

 盛田は、ヨーロッパに来てからというもの、日本は何と広い国であろうかと思っていた。確かにアメリカに比べれば、日本は小国だ。しかし、ヨーロッパでは、ひとつの国の首府から、次の国の首府まで飛行機に乗れば、1時間で行ってしまう。オランダであれば、汽車で4時間走ると、国境から隣の国に突き抜けてしまうのだ。 それほど狭い国土のオランダの、しかも、農業国の片田舎にあるフィリップスという会社が、世界のエレクトロニクス産業において素晴しい力を発揮している。アイントホーヘンという町は、ドクター・フィリップスが出てくるまでは、本当に片田舎であった。何ら工業的なバックグラウンドのないこの土地で、ドクター・フィリップスはフィリップス王国を築き上げたのだ。

 「ドクター・フィリップスにできたことが、我われにできないはずはない。自分たちにも、チャンスがあるはずだ」。盛田はここに来て急に勇気が湧いてきた。そして、オランダから井深に手紙を出した。

 『オランダを見て非常に勇気が湧いた。私たちにも、我が社の製品を世界中に売り広めるチャンスがあるという決心、決意を持つに至った』。そう、書いて出した。

 3カ月の旅行を終え、日本に帰った盛田は、さっそくWE社とのやり取りを井深に話した。
「トランジスタを使って何かやりましょう。トランジスタができれば、我が社のチャンスとなるはずです。WE社では、補聴器をやれと言っているけれど、どうでしょう……」
 井深も補聴器には否定的であった。


第5章 第1話 「大丈夫、必ずできる」

 「ラジオをやろう」。これが、社長の井深が出した答えであった。
 「トランジスタを作るからには、広く誰もが買える大衆製品を狙わなくては意味がない。それは、ラジオだ。難しくても最初からラジオを狙おうじゃないか」

 まだ、アメリカでも補聴器くらいにしか使えない、低い周波数のトランジスタしか作られていないのだ。これは、大胆な発想だった。しかし、井深は強気だ。

 「大丈夫だ、必ずラジオ用のものができるよ」。この言葉で、東京通信工業(ソニーの前身、以下東通工)の技術者たちの挑戦が始まった。

 技術者から見れば、挑戦する相手が難しければ難しいほど、張り合いがあるというものだ。しかし、東通工の中でも一部には、果たしてできるかどうか分からないようなトランジスタを、社運をかけてまでやる必要があるのかという先行きを危ぶむ声があった。それは、外部の人たちの大部分も、やはり同じように感じていたに違いない。東通工のような小さい会社が、いまだアメリカでもできないトランジスタラジオをやるなんてことは、無謀な冒険であるという意見が圧倒的に多かった。NHKのも、そう思っていた一人だ。

 「今度、うちでトランジスタをやるよ。それもラジオを作ることにした」。井深が少し誇らしげに言った。

 「ラジオなんて大丈夫か?アメリカだって、お金に糸目をつけない国防用にしか使われていないじゃないか。トランジスタのような高価なものを使って民生用の機械を作ろうたって、誰も買いやしないよ」。古くからの友人への忠告のつもりで島は反論した。

 「そうじゃないよ。確かにトランジスタの製造の歩留まりというのは、今のところは、アメリカでも、せいぜい5%あるかないかだ。だから、皆はトランジスタは商売にならないと言っている。僕は、歩留まりが悪いから面白いと思うんだ。歩留まりが悪いというのなら、良くすればいいんだろう」。井深はムキになって答えた。正論である。島は昔から、こうした井深の敢闘精神ともいえる積極的な姿勢を好ましく思っていた。

 島は理解してくれた。しかし、どうしても理解してくれない相手もある。通産省だ。井深は再度、通産省に足を運んだ。「実は、当社ではWE(ウエスタンエレクトリック)社から製造特許使用者としての許可をもらいました。ついては、通産省のほうでも何とかこの件に関して認可をお願いいたします」と言う井深の言葉に、通産省は「勝手にサインしてくるなど、もってのほかだ。けしからん」と、カンカンである。

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 仕方がない。当面は通産省の出方を見ながら、自分たちでできることをやるしかないというので、社内ではすぐに精鋭たちが集められ、トランジスタ開発部隊が編成された。リーダーには、テープレコーダーの製造部長をやっていた岩間和夫が志願した。岩間は以前、井深からアメリカの『フォーチュン』誌に載ったトランジスタの記事を見せられた際、一晩読んで、「これなら、できないことはないな」と軽い気持ちでいた。それで、井深が「誰にやらせようか」と言った時にも、「私がやりたいです」と自ら買って出たのだ。そして、岩間と一緒にトランジスタに取り組むため、社内のいろいろな職場から腕に自信のある人間が集められた。

 とにかく、ラジオをやろうという前に、トランジスタそのものを作ることが先決である。しかし、東通工には、その製造ノウハウどころか、ほとんど資料と言えるものがない。唯一の拠り所は、専務の盛田がアメリカから持ち帰ってきた、トランジスタのバイブルともいえる『トランジスタ・テクノロジー』という本だけであった。岩間たちは、この本を手がかりに勉強を始めていった。

 そうして1953年も暮れかけようという頃、通産省の電子工業関係部門の大幅な人事異動が行われ、これが、東通工に幸いした。急転直下、トランジスタの認可が下りそうな気配となったため、1954年、年が明けるとすぐに、岩間はトランジスタ研究のためアメリカへと旅立って行った。遅れて1月末には、井深もWE社のトランジスタ工場を視察するため、再度アメリカに向かった。

 これで、いよいよ本格的にトランジスタに取り組む態勢が整った。


第2話 岩間レポート

 岩間がトランジスタの研究のためWE社へ行ったのは、35歳の時である。仕事に脂の乗り始めた頃だ。そういうことだけではないが、アメリカに渡ってからの岩間の働きぶりはすさまじかった。岩間が持っているトランジスタの知識は、わずかに『トランジスタ・テクノロジー』を読むことによって、製造にまつわる基礎的な部分を身に着けたという程度のものでしかない。

 とにもかくにも、ここアメリカで、できる限りの情報を集めて帰らなくてはいけない。WE社からは、製造装置の仕様書などの資料はもらえない。しかし、工場の中は割と自由に見せてくれた。岩間は、工場見学の際に、これはと思われる装置を前にしては、怪しげな英語を駆使して質問して回り、その印象なり答えてもらったことなどを報告書にまとめて、東京に書き送った。とはいっても、その場で装置の図面をノートに取ることはゆるされない。その分、全部が全部正確とは言えないが、ホテルに帰ってから、一所懸命見たこと聞いたことを思い出しながら、スケッチにしたり、レポートにして書きに書いた。最初がレポート用紙に9枚……2月19日が8枚、2月21日9枚……4月7日5枚、4月9日5枚、4月13日8枚と、毎日ではないが、それでも驚くほどの量だ。

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 東京では、定期便のように送られてくる岩間からの手紙と『トランジスタ・テクノロジー』を参考にして、岩間が帰って来るまでにトランジスタを作っておこうじゃないかと話がまとまった。

 まず、やらなくてはならないのが、トランジスタ製造のための工作機械を作ることだ。その当時、半導体の製造設備といっても既製品などあるわけがない。しかも、いくら『トランジスタ・テクノロジー』を読んでも、製造装置の図面など載っていない。何もかも、自分たちで一つひとつ図面を引いて作り出していくほかはないのである。その上、東通工の機械作業場には小型の加工装置が数種類ある程度で、これではとても社内で作るのは無理である。そこで、社外の協力工場に加工を依頼し、それこそゼロから出発して、水素でゲルマニウムを還元する酸化ゲルマニウム還元装置、それの純度を上げるためのゾーン精製装置、切断機(スライシングマシン)と、一連の製造装置を作り上げていった。

 初めて東通工のトランジスタが動作したのは、岩間がアメリカから帰って来る1週間前だった。ベル研究所のショックレー博士たち(ウィリアム・ショックレー、ジョン・バーディン、ウォルター・ブラッテンの3人が、1947年にトランジスタを発明)が最初に作ったのと同じ型の、ポイントコンタクト(点接触)型のトランジスタである。測定に使う装置は手製のものである。

 電流計の針が振れた時の皆の喜びは、大変なものであった。しかし、「こんな早くにトランジスタができるとは……」。誰しもが持った感慨であった。続いて、すぐにジャンクション(接合)型ができたが、帰国した岩間も、初めは半信半疑であった。ゲルマニウム結晶を見ても、「これが、本当にゲルマニウムか?」と、どうもピンと来ないようだ。正直な話、発振器のメーターが振れるのを見て、「ああ、これならどうやらトランジスタらしいな」と、やっと認識できたようであった。


第3話 社運を賭けて

 それにしても、大した決断であった。井深や盛田が「トランジスタをやろう」と決意した時には、東通工はテープレコーダーでは多少名前は知られていたが、会社設立から6年しか経っておらず、資本金も1億円に満たない小さな会社なのだ。果たして、ものになるかどうかも分からないトランジスタに、東通工は当時の会社規模としては、思いも及ばないほどのお金と人手をかけてスタートしたのだ。

 とにかく、お金がかかった。経理の担当部長が研究・開発費を工面するため、銀行に説明に行くことになったが、トランジスタをどう説明して良いか分からない。盛田は、困ったようすの経理部長を見て、アメリカの雑誌など方々から集めてきた文献をドサッと持ってきてくれた。「これを先方に見せて、説明してこい」というわけだ。仕方なく、それを持って銀行に行ったが、これには先方の支店長も頭を抱えてしまった。支店長としては、貸さないで、東通工の新事業の機会をなくすようなことはしたくない。しかし、いくらアメリカの文献をたくさん持って来られても、トランジスタとはいかなるものか分からないうちは、貸してもよいという理由が見当たらないのだ。結局、銀行の本店の審査部へと、この件は回されることになった。

 今度は、上司の太刀川が同行し、説明のため審査部まで出向いて行った。
「トランジスタというのは、真空管の代用品でしょう」。明らかに軽蔑したような口振りで審査部の担当者は言う。“代用品”というのは、戦後物資が不足していた折、本物に代わるものとして出てきた類似品のことを言う。太刀川たちは何度も「真空管とは違うものだ。代用品ではない」と説明した。それでも、分かってもらえない。とうとう、井深を引っ張ってきて説明させた。井深の説明は、大変オーソドックスなものだった。

 「物が動くことを動作すると言う。動くということには摩擦が付きもの。摩擦が起こると物質は減る。この減るということが、故障の原因になる。トランジスタは、物が動いて動作するのではない。分子が変わることによって真空管と同じ働きをするものだ。そのため、トランジスタには故障がない。真空管に比べて数段も小さく、構造が簡単な上、頑丈である。しかるに、真空管とは全然別のものである」。そういったことを、延々3時間近く話した。こうして審査部の人たちを口説きに口説いて、やっと納得してもらうことができた。

 岩間がアメリカから帰って来るのと前後して、ジャンクション・トランジスタができた。ここまでできれば、基礎研究の段階を抜け、いよいよラジオ用のトランジスタが目標となる。ラジオとなると、トランジスタは途端に難しくなる。もっと高い周波数を扱えるトランジスタ、つまりグロン(成長)型のものをめざさなくてはならないのだ。そのため、これまでは半自動であったり、人の勘に頼っていたゲルマニウム結晶の引き上げ、表面研摩といった操作を、より正確にするため、それぞれの装置の製造に取りかかっていった。


第6章 第3話 幻の“国連ビル”ラジオ

 盛田は、2ヵ月の渡米中に、アメリカ向けマイクロホン1,000個、放送取材用テープレコーダー10台の輸出契約を完了した。さて、サンプルとして持って行ったTR-52であるが、こちらのほうは、アメリカの大きな時計会社「ブローバー社」から引き合いが来た。

 「その値段で当方はOKだ。10万台のオーダーを出そう」。即座に商談は成立するかに見えた。ところが盛田は、相手の出した条件が気に入らない。「SONYでは売れない。当社の商標を付けさせてもらうよ。何しろアメリカでは、SONYといっても誰も知らないんだからね」。これが条件だった。「絶対に断るべきだ」。盛田の気持ちは決まっていたが、こんな大きな商売だ。盛田の一存で断るわけにはいかない。ホテルに帰って、すぐ日本に電報を打った。「10万台の注文を受けた。しかし、それには彼等のブランド名を付けなければならないという条件が付いているので、断るつもりだ」。

 折り返しすぐに返信が来た。「10万台の注文を断るのは、もったいなさすぎる。名前なんかいいから契約を取ってこい」という内容だ。盛田にもこの気持ちは痛いくらい分かる。だからといって説を曲げることはできない。もう一度「断りたい」と打電した。それでも結論が出ない。ついに盛田は日本に電話をかけた。「絶対に向こうの商標を付けるべきではない。せっかくSONYという名を付けたんだ。われわれはこれでいこうじゃないか。第一、10万台の注文をもらったって、現在の東通工の態勢ではできやしないじゃないか」。手持ちの少ない米ドルを使って、電話までかけて説得したのだ。やはり、断ることにして、盛田は注文先の会社に行き、その旨伝えた。

 「誰がSONYなんか知っているんだ。自分の所は50年かかって、世界中で知られるようなブランドにしたんだ」。先方の社長は盛田のことを、いかにも「商売を知らないやつだ」というかのように笑って言った。「それでは、50年前、何人の人があなたの会社の名前を知っていたのでしょう?」。盛田は反論した。「わが社は、50年前のあなた方と同様に、今50年の第一歩を踏み出したところだ。50年経ったら、あなたの会社と同じくらいにSONYを有名にしてみせる。だから、この話はノーサンキューだ」。東通工の将来を考えると、目先の利益だけを考えていても仕方がないのだ。この話は、結局なかったことにして、盛田は帰路に就いた。1955年4月のことであった。

 ところで、このTR-52、愛称を"国連ビル"と言った。キャビネット前面の白い格子状のプラスチックが、国連ビルをイメージさせるところから命名されたものだ。そして盛田が北米から帰国してすぐの5月、思わぬ事件が起きた。

 5月といえば、初夏である。気温もだんだん上がってくる。その気温の上昇とともに大事件が勃発したのだ。キャビネット前面の格子(国連ビルの窓々)の部分、白いプラスチック全体が黒色の箱から次第に浮き上がってきた。1台だけではない。これまで作った100台のうちのほとんど全部が曲がり始めている。これには、井深たち全員が色を失ってしまった。これでは売り物にならない。無念ではあったが、この東通工製トランジスタラジオの1号機・TR-52は、正式発売を目の前にして断念せざるを得なくなったのである。

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 このキャビネット事件を良い教訓に、外形や色のみのデザインから本格的な材料研究に着手し、きれいで強く、永久的に変形しないものへの実現に努力が重ねられていった。その年の9月、装いも新たにTR-55が、日本初のトランジスタラジオの栄誉を担って発売されたのである。


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(感想・意見など)

 たまたま見つけたSony Historyの一部だけご紹介しました。東京通信工業(ソニーの前身)は70数年前に確か29名で創業しました。いろいろ面白い話が満載です。興味のある方は「Sony History」で検索してください。


以上


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プロフィール

teccyan88

Author:teccyan88
団塊の世代(♂)。うどん県高松市生まれ。大学は京都。20数年の会社員生活(四国各地・東京・広島・福岡勤務、主として経営管理・企画畑を歩む)の後、早期退職しUターン。専門学校(3年)ののち自営業。
趣味:読書、水泳、水中ウォーキング。
尊敬する人(敬称略):空海、緒方洪庵、勝海舟、大久保利通、司馬遼太郎、盛田昭夫、小倉昌男、佐々木常夫、西原理恵子、足立康史、竜崎伸也ほか多数。

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