岩波書店・安江良介元社長

北朝鮮の金日成(右)と安江良介(左)。
安江良介は岩波書店「世界」編集長。美濃部東京都知事の特別秘書として朝鮮学校を各種学校として認可。のち岩波書店社長。金日成を崇拝し5回訪朝。T・K生(池明観氏)に、「世界」誌に15年間にわたり「韓国からの通信」として嘘を書かせ続けた。

「韓国からの通信」 岩波新書

朝日新聞15年8月11日「ひと」欄
TK生こと池明観(チョン・ドゥフアン)さん 「あれ(「韓国からの通信」)は闘いの書。事実を誇張し、民主化勢力を美化し過すぎた。後輩が研究し批判するなら、喜んで受け入れる」
池明観(TK生)さんは、別の場面で、安江編集長からこのように書いてくださいと指示されたと言っている。15年間の最後のほうでは池さんは安江から逃げていたらしい。

産経新聞18年11月17日

産経新聞18年11月6日
朝鮮学校は北系の朝鮮総連に支配されている。北朝鮮の独裁者を礼賛する教育内容や、卒業生や朝鮮総連がいろいろな犯罪に関わっている恐れが強いことなどから、朝鮮学校への補助金を見直す自治体が相次いでいる。
岩波書店・安江良介元社長
産経新聞2018年11月17日の「海峡を越えて」第45回で、岩波書店・安江良介元社長に関する記事が出ていた。抜粋してご紹介します。
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「発行者」は朝大認可の仕掛人
朝鮮人強制連行載せた「広辞苑」
■朴慶植も吉田証言引用
朝鮮人強制連行という言葉を拡散させた『朝鮮人強制連行の記録』(昭和40年)の著者、朴慶植(パク・キョンシク:1922~98年)は、「作り話」と知ってか知らずか、講演などで吉田清治の話をたびたび引用している。
《暴力的な連行の例をあげます…吉田清治という人が…『朝鮮人慰安婦と日本人』という本を出した。……》
朴慶植の追悼号として出された「在日朝鮮人史研究」10年10月号に掲載された『戦時下の日本人が報じた朝鮮人強制連行の視察記』を見てみたい。昭和19(1944)年に京城帝大教授が書いた「近畿の工場に敢闘する半島産業戦士達を訪ねて」という文をそこに引用しているのだが、原文の内容は『強制連行』のタイトルとは程遠い。
原文の要旨は①労務動員計画(昭和14年~)によって集団で朝鮮から渡ってきた若者は総じて熱心で評判がいい②月給は最高180円、送金は同800円と好成績③移動率が高いのはブローカーらに欺(あざむ)かれて自由労務市場に誘惑される者が多いため④反面、自由契約の労務者は食うに困って渡ってきた、いわゆる失業移民で評判もよくない―。
むしろ、純朴で故郷の家族に多額の送金を行い、職場からも重宝されている若者たちの姿は、日本の高度成長期の「集団就職者」に似ている。
■政治問題化に便乗
〝日本叩き〟のツールとして利用された「朝鮮人強制連行」や「従軍慰安婦」などの言葉は、政治・外交問題化が顕著になった1980年代から90年代にかけて教科書や辞典にも順次、掲載されてゆく。
日本を代表する辞典『広辞苑(こうじえん)』(岩波書店)に「朝鮮人強制連行」の項目が登場したのは、平成3(1991)年発行の第4版から。
《日中戦争・太平洋戦争期に百万人を超える朝鮮人を内地・樺太(サハリン)・沖縄などに強制的に連行し、労務者や軍夫として強制就労させたこと。女性の一部は従軍慰安婦とされた》とある
この内容は、朴らの主張に近い。「従軍慰安婦」と関連づけているのは、朝日新聞報道などによって政治・外交問題化したことに〝乗った〟のだろう。
4版の発行者として、「植民地支配の精算」を求め、日本政府の姿勢を厳しく非難してきた、安江良介(やすえ・りょうすけ:1935~98年)の名前があるのは偶然だろうか。
同社の総合雑誌『世界』の編集長を16年にわたって務めた安江は、北朝鮮の金日成(キム・イルソン:首相、国家主席)や韓国の金大中(キム・デジュン:後に大統領)らと近く、進歩的文化人とよばれた「左派人士」を代表するジャーナリスト・編集者。この前年(平成2年)には、岩波書店社長に就任している。
■まるで北の代弁者
安江の主張や行動は、相当「北」に偏っていたと言わざるを得ない。
昭和42年、美濃部亮吉(みのべ・りょうきち:1904~84年、東京都知事通算3期)による初の革新都政が誕生した際、安江は、ブレーンとして知事特別秘書に就任。
美濃部が就任早々に手がけた「朝鮮大学校(東京都小平市)の各種学校認可問題」も、安江の〝耳打ち〟がきっかけだったことを美濃部自身が書き残している。
《朝鮮大学校を各種学校として認可するかどうかの問題が、(前任の)東(あずま)知事の時からタナざらしになったままであることを、特別秘書の安江良介君から知らされた。……》
美濃部は、政府・自民党の反対を押し切って翌昭和43年、朝大の認可に踏み切る。朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)幹部や朝鮮学校教員などを養成する朝大は、これによって固定資産税の免除などの恩恵にあずかることができた。
昭和46年に、都知事として初めて訪朝した美濃部は、金日成(当時・北朝鮮首相)と2度も面会。資本主義に対する「社会主義の勝利」をブチ上げるとともに、朝大認可に対して、金日成から、ねぎらいの言葉をかけられている。
安江自身も度々訪朝。昭和60年、4度目に訪れたときは、金日成(当時・国家主席)との「解放四十年を迎えて」と題した会見記録を『世界』(同年8月号)に掲載。安江による「まえがき」にこうあった。
《…日本政府は、四十年経ながらなお植民地支配の清算をせず、そのことを具体的課題として掲げていない。それのみか、韓国の軍事政権との一体化を進め、北朝鮮に対する敵対的関係を強めているのが現状である》。まるで、北朝鮮の代弁者のようではないか。
『広辞苑』は2018年1月、10年ぶりの改訂、第7版が発行された。
「朝鮮人強制連行」の記述はわずかに、人数が「労務者だけで約70万人」に(それ以前は「百万人を超える」)、「従軍慰安婦」の項目は7版でも残されたままだ。
韓国・北朝鮮などに政治利用されかねない記述は、そろそろ削除されたらどうか。
=敬称略
(文化部編集委員 喜多由浩さん)
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(感想・意見など)
それにしても、朝日新聞の動き≒岩波書店の動きにはいつも感心させられる。
誰だったか、朝日の元記者が書いていたが、朝日の社内に「共産党の細胞の会」のようなものがあったらしい。
岩波書店も同様かもしれない。どちらも指令は日本共産党から出ている?
学生時代に1年半大学の寮(民青員が多かった)に入っていたこともあるが、時代ということもあるのか、周りにこの種(左系)の人(教授・学生など)が多かった。
ほとんど毎日、大学生協の書店(および学食)に顔を出していたが、4年間ずっと書棚の一定の場所(ゴールデンゾーン:目の高さ)に朴慶植さんの『朝鮮人強制連行の記録』があったと記憶している。大学生協の書店には、一般書店にはあまり置いていない岩波書店、新日本出版社、大月書店、汐文社(ちょうぶんしゃ)などの左翼系出版物が多かった。
『広辞苑』第7版の「朝鮮人強制連行」約70万人は大嘘である。
私の亡くなった父は広島の呉時代が長かった。呉には海軍工廠があったのでいろいろな仕事があり、周りには仕事を求めて半島からやって来た朝鮮人が多かったと言っていた。
前にも書いたが、劇作家のつかこうへいは韓国籍であったが、「父は連行されて日本に来たようなことを言っていたが、どうせ半島で食い詰めてやって来たに違いない」と書いていた。自分から仕事を求めて来たのに「連行されて来た」という言うコリアンは多かったらしい。本当に強制連行されてきたコリアンは数百人程度である。
以上
カルロス・ゴーンは下司(げす)である

カルロス・ゴーン氏

朝日新聞18年12月22日
「特別背任容疑」が本命でしょう。半世紀以上の「日産ウオッチャー」である私から言わせると、これまでも書いてきたように、ゴーン氏はカリスマでも何でもない。それでも初期5年間の功績は認める。あとは、私利私欲のかたまり。下司(*)!!

毎日新聞18年12月20日
資金操作 「もう耐えられない」
「もう耐えられない」
マレー系英国人で英国人弁護士資格を持つ専務執行役員は今年5月、日本人幹部にそう打ち明けた。幹部が「全部話してくれ」と問い返すと、「……会長の資金操作があまりにもひどい」。
一旦重い口を開くと、そこからは日産自動車の前会長、カルロス・ゴーン容疑者(64)の巨額な報酬隠しや私的流用、自らの関与を告白し始めた。この告白が、半年後、ゴーン前会長の逮捕につながることになった。

毎日新聞18年12月20日
グレッグ・ケリー前代表取締役にしても、日本にはほとんど不在で、日産の役員でも彼がどこで何をしているのか知らなかったという。その部下のマレー系英国人の専務執行役員は、「社内から『こんなに出世するとは思いもしなかった』と陰口をたたかれるほど重用されたのも、前代表取締役のグレッグ・ケリー容疑者(62)とともに不正に関与してきたからだとみられる」。
これは私の推測であるが、ゴーンとグレッグ・ケリー容疑者は頭のてっぺんから足の爪先までの悪党である。その部下の専務執行役員と秘書室幹部は巻き込まれたものと思われる。良心的な人でも、徐々に徐々に巻き込まれて気づくと足抜けできなくなっているから注意が必要。このような悪党の部下になった人は気の毒である。上司は選べない。
降格あるいは退職を強要される覚悟で今の仕事を外れるか、このマレー系英国人専務のように告発するか、アメリカのマティス国防長官のように辞表を叩きつけるしかない(現にゴーン氏に異を唱えた人たちは飛ばされたらしい)。それでも、北朝鮮のように高射機関砲で射殺され、死体を火炎放射器で焼かれるようなことはない。
ケリー容疑者、マレー系英国人専務、秘書室幹部、その他ゴーン氏の私利私欲のために働いてきた人たちの人件費も日産持ちである。幹部なので年間数億円は超える。完全に会社を食い物にしている。ゴーン氏の罪は深い。

週刊朝日18年12月28日号は「猫特集」。
表紙が「猫」とか「ジャニーズ」とかだと雑誌がよく売れるらしい。この「ベーコン」は可愛いが、中身で勝負してほしい。
編集部の要望にもかかわらず、田原総一朗さんが蹴飛ばしたのは痛快!みんながみんなひれ伏す姿はゾツとする。
カルロス・ゴーンは下司(げす)である
私がブログを始めた動機のひとつは、日本の司法制度や公務員制度に対する怒りがあった。
初期のブログを見てもらえばそれが分かる。例えば、2011年3月3日のブログは「裁判がおかしい!!」、同3月4日は「司法がおかしい!!」。2010年10月30日は「高知白バイ事件」である。最近では2018年12月1日の「弁護士を信用するな!」がある(公務員制度については2011年2月11日「鹿児島県阿久根市(あくねし)問題から」が嚆矢(こうし))。
法学は学生時代に少しかじった程度だが、普通の人と比べて、日本の司法に対して厳しい見方をしているといえると思う。
それでも、元検事で、弁護士の郷原信郎(ごうはら・のぶお)さんのような見方には与(くみ)しない。
元讀賣新聞経済部記者、元中央公論新社社長、元讀賣大阪本社社長の中村 仁(ひとし)さんの見方が素直に一番しっくりくる。
私は今でも日本の司法には批判的であるが、それはそれとして、巨悪は眠らせるべきではない。パリ、オランダ、ブラジル、レバノン、アメリカ、サウジアラビアなど多国籍に渡る今回のようなケースは、グローバル時代の試金石である。大変ではあろうが、検察には頑張ってもらいたい。
中村仁さんのブログをそのまま転載いたします。
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問うべきはゴーンの経営モラルの全体像
2018年12月22日 06:00 中村 仁
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虚偽記載から特別背任罪
日産自動車の前会長のゴーン被告が「保釈へ」の寸前、一転して特別背任の疑いで再逮捕という急展開を見せました。メディアに登場して、「虚偽記載という形式犯では、有罪に持ち込むのは無理」、「東京地裁の拘留延長の却下もその流れか」と強調していた論者たちは、どんな心境でしょうか。
事件の核心は、一貫してゴーンの経営モラルの欠如のはずなのに、「虚偽記載の違法性は低い」とみた論者が多かったのか、地検特捜部の捜査手法が批判されたり、西川社長がゴーンに抵抗しなかった責任を問う声や、ルノー対日産の企業対決のほうがクローズアップされたりしてきました。
事件に核心に迫れる特別背任
虚偽記載の違法性の有無よりも、ビッグビジネスのトップとしての経営モラルのなさこそ問題にされるべきだと、私は思ってきました。私的な損失を日産につけかえて損害を与えた「会社法違反(特別背任)の疑いで再逮捕」のほうが罪は重く、ゴーン事件の核心に迫れるはずです。他にも簿外の子会社を使った高級住宅の購入、会社経費の私的流用も問われ、全体像が明らかにされていくでしょう。
不思議なことに、「日産の利益全体からみると、虚偽記載された報酬額、不正流用された資金や経費は大した金額ではなく、違法性を問うのは難しい」と、ゴーンを擁護するようなコメントが弁護士や検察OBから次々に流されました。「日産を救った恩人であるのに、微罪で逮捕するのか」と、ピント外れの指摘も聞かされてきました。
西川広史社長に対し、「ゴーンにきちんと意見を申さず、言いなりになってきたことには重大な責任がある」との批判も聞かれます。会社を私物化し、独裁的な人事権を持ち、社外から英雄視されているカリスマ的な経営者に直言したどうなるか。左遷され、もっと服従する人物が起用されるばかりか、独裁的会長は証拠隠滅に手を染めたことでしょう。
第三者委員会では限界
会社に第三者委員会を作って真相解明に乗り出そうとしても、握りつぶされていたに違いない。司法取引で検察を中に引き込まなければ、事件の解明は無理だったでしょう。あくまでも事件の主役はゴーンであり、西川社長らはわき役もいいところでしょう。
特別背任容疑は、08年のリーマンショック(国際金融危機、株価暴落)で受けた18億円の個人的な損失を日産に移し替えようとして、日産に損害を与えたこととされます。ゴーンによる不透明な会計操作(虚偽記載)の発端は、ひょっとしてリーマンショックであるかもしれません。後払いで受け取るはずの91億円の報酬も、取締役会の正式な手順を踏まず隠したことで、もらい損ねる可能性が高い。
リーマンショック時の損失補填も問題でも、不思議な言説が飛び交いました。「時効(7年)になっているから事件化できまい」、「08年の円高(1㌦=87円)はその後の円安(最近は110円程度)で逆に為替差益が出て、損失は消えているはず」などです。事実関係は今後の捜査で解明されるでしょう。
私が最も重視するのは、ゴーンの経営モラルのなさです。これまで伝えられた情報の多くが事実とすれば、日仏連合の世界的な自動車メーカーのトップにまで登りつめた成功者が法の精神を無視した振る舞いを続けた。前代未聞です。
「社外取締役が機能しなかった。ゴーンに異を唱える人物もいなかった。ただし、会社全体で不正に走った東芝と違い、個人が私利私欲で暴走したケースだ」とみる小林喜光・経済同友会代表幹事の指摘は正しいと思います。
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現在言われているのが、私的な投資で生じた損失を日産に付け替えて損害を与えた、日産との間で退任後に役員報酬を受け取るという文書を交わしていた(役員報酬の虚偽記載…金商法違反容疑)、会社の金で世界各地に高級住宅を購入させた、業務実態のない姉に年約10万ドルの支出をしていた、会社の金で娘が通う海外の大学へ寄付した、ベルサイユ宮殿での結婚式(再婚)などの費用を会社に出させた、などなどやりたい放題。
また、それらを覆い隠すために、ケリー前代表取締役、その部下のマレー系英国人の専務執行役員、秘書室幹部などを昇進させ、私利私欲目的の為に利用した、などが挙げられる。
以上
ウーマン・オブ・ザ・イヤー2019

日経新聞18年12月17日

京都市の「佰食屋(ひやくしょくや)」

勤務時間、従業員待遇もしっかりしている。

「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2019」(日経ウーマン誌)に選ばれた「佰食屋」代取・中村朱美さん。

この働き方を広めようと全国で講演もしている。
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わたしが今、はまっている7-11の「カレーうどん」。430円?うまし!
ウーマン・オブ・ザ・イヤー2019
2018年8月18日のブログ「ホワイト飲食店」でご紹介した「佰食屋」代表・中村朱美さんが「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2019」(日経ウーマン誌)に選ばれた。
日経新聞18年12月17日の記事を抜粋してご紹介します。
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家族の時間 作れる仕事に
1日100食限定 残業はゼロ
求めるのは利益の最大化ではない。従業員の働きやすさこそが重要。大賞を受賞したminitts(京都市)代表取締役の中村朱美さん(34)はこんな発想で「1日ランチ100食限定」に絞るステーキ丼専門店「佰食屋」を運営する。長時間労働の印象が強い外食産業で残業ゼロを実現した。
「ありがとうございました。お気をつけて」。京都市右京区。午後2時過ぎに100食目を食べた客が店を出ると、従業員たちが声を張り上げた。この日の店舗営業はこれで終わり。仕込みや後片付けを終えた従業員らは5時50分には店舗を後にした。深夜営業や過労のイメージが強い飲食業からすると異色だ。
「持続可能なビジネス」。中村さんはこう解説する。「100食が完売すれば、店には従業員が普通に暮らせる所得が入る。ランチ時間だけで店を閉め、従業員は家庭の時間を持てる」。だからこそ質の高いサービスを保てる。
評判は広がり、早くに100食が完売すると労働時間がさらに短縮。12年に1号店、15年、17年にも店を出した。
中村さんが夫と佰食屋を開いた当初の目的は夫婦一緒に過ごす時間を持つことだった。100食なら仕事と家庭が両立できる。
前職は専門学校の広報。役職が上がり、部下が増えるにつれ残業が増え、夫と一緒に過ごす時間が減った。子どもができないのも不安だった。
夫に「1000万円ある2人の年収が、3分の1になってもいいから別の仕事をしよう」と話し、12年7月に退職。同11月に佰食屋を開業した。1000円程度のステーキ丼は精肉前の牛肉を仕入れ、費用を抑えた。今では整理券が午前中に完売する日もある。
「人気なんだからもっと売ればいい」と周囲は言う。でも中村さんは「巨大な外食産業にする気はない。小さくても従業員が気持ちよく働ける店舗をいくつも作りたい」。今や2児の母となった。従業員も「転職して、子どもと風呂に入れるようになった」と喜ぶ。
今度は「50食限定」のフランチャイズを展開する予定だ。夫婦で年収500万円くらいを稼ぎ、豊かで幸せな暮らしと両立する人が広がればと願う。
以上
菊池寛展に行ってきた

菊池寛 生誕130年、没後70年記念展のポスターなど。

サンクリスタル高松。1・2階は高松市中央図書館、3階は菊池寛記念館、4階は高松市歴史資料館。
今回の菊池寛展は4階であった。思いのほか充実していた。3階の菊池寛記念館も見てきた。

菊池寛の生涯を紹介する漫画を売っていたので買ってきた。500円。

百舌坂(もずざか)
なぜ百舌坂と言うのかと思っていたら、昔、菊池寛少年がこの辺りで百舌をつかまえて楽しみ、「百舌博士」と呼ばれていたのに因んで名付けたという。
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マック香西店の駐輪場。期末試験が近いためか、昨日、今日と自習する中・高校生たちで席が取れないほど。

マックで咲いていた花。
菊池寛展に行ってきた
先日、菊池寛展に行ってきた。といっても、高松市中央図書館にはしょっちゅう行っているので、1階からエレベーターで4階に上がるだけ。
大昔、「末は博士か大臣か」という映画を見たことがある。寛役は確か、フランキー堺が演じていた覚えがある。寛は四番町小学校の先輩。その関係で、「末は博士か――」を見たのかも?
菊池寛は高松市生まれの文豪である。作品としては、「父帰る」「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」「真珠夫人」などがある。
寛(ひろしであるが、かんと呼ばれることが多い)は明治21(1888)年生まれ、高松藩の儒者をつとめた学問の名門、菊池家の血を引いている。寛の父は没落士族。
寛君は非常に記憶力が良かったらしい。高松中学校(今の高松高校)のとき、家と学校の中間に高松図書館ができて、約2万冊の蔵書のほとんどを読んでしまったらしい。
22歳のとき、第一高等学校(今の東大教養学部)に入学。25歳のとき、友人のマントだったかの窃盗事件に巻き込まれて退学処分となる。
友人の成瀬正一(なるせ・せいいち)の両親が香川県三木町出身で、成瀬家の援助を受け、京都帝国大学に入学する。寛は一生恩にきていたという。
寛26歳、芥川龍之介22歳のとき、第三次「新思潮」を創刊。メンバーは山本有三、芥川、久米正雄、佐野文雄、成瀬、土屋文明、松岡譲、菊池など超豪華。その他にも寛の周りには、直木三十五(さんじゅうご)、川端康成、横光利一などなど多士済々。長谷川町子(サザエさん作者)と縁があったのには驚いた。
寛の功績は、「生活第一、芸術第二」のモットーから、作家活動以外にも、文藝春秋社の設立、「芥川・直木賞」「菊池寛賞」の創設、著作権の擁護、作家の地位向上など数々ある。
現在の月刊誌「文藝春秋」にも寛のアイデアに発する企画が詰まっているのに驚いた。文士劇、作家などの全国講演なども寛が始めたという。
若くして亡くなった友人を悼んで「芥川・直木賞」を創設したが、これには作家の生活を安定させる狙いもあった。実際、記念館には歴代の「芥川・直木賞」受賞者の写真がずらっと貼られていたが、それを見ると、寛の理想がそうとう実現しているなと思わされる。文壇の大御所と言われた所以である。
意外に面白かったのは歴代の「菊池寛賞」受賞者の写真を見たときである。非常に広範な分野に及んでおり、文壇に限らず、あらゆる分野で頑張っている人・団体を元気づけたいとの思いが現れている。寛に足を向けて寝られない人は何千人といる。
寛は多趣味で、将棋、麻雀、競馬、野球、水泳、卓球、テニスなどのスポーツも好きだったらしい。寛がいたころの文藝春秋社では、仕事中に社員が将棋をしたり卓球をしたりして遊んでいたらしい。それでいながら仕事はしっかりしていたという。
競走馬をたくさん持ち、今でいう天皇賞で優勝した馬も持っていたらしい。また、将棋連盟とかのいろいろな会長などもしていたという。
子どもさんらの回想によると、人間が好きで、よくお金に困った人が借金に来ていたという。寛は着物の袂(たもと)からくしゃくしゃのお札を適当に渡していたという。家族サービスなどもちゃんとしていたらしい。
寛は、確か映画会社の「大映」の初代社長だったはずである。その後「大映」が倒産して資料が散逸したのか、その点に触れられていなかったのが少し残念。
それにしても、菊池寛の大正末期から昭和前半の日本文化に対する貢献には非常に大きなものがあったと思わせられる。
以上
座談の名手

吉行淳之介

週刊現代18年6月9日号

朝日新聞18年5月27日「折々のことば」

香川県立図書館に咲いた花

庭に大きな(直径50センチくらい)葉っぱが出てきた。植えた覚えはない。何の花が咲くのだろう?
座談の名手
私は高校生のころから吉行淳之介の小説が好きだった。吉行はしばしば「座談の名手」と言われた。しかし、印刷物ではその場の状況、ニュアンスは伝わりにくい。今と違って動画があるわけではなく、その雰囲気はよく分からず、もやもやしたままであった。
サラリーマンになって、周りに関西人が何人かいて、「関西風の座談の名手」はある程度分かるようになった。その代表格はお笑い芸人の紳助である。関西の学校にはたいていクラスに1人はこのような人がいる。この場合、話の内容は、事実(実際)はどうでもいい。おもろければそれでいい。
「お前アホちゃうか?事実ーっ?そんなんどうでもええ、おもろかったらええねん!」
朝日新聞18年5月27日 鷲田清一さんの「折々のことば」にその見本が載っていた。
「おめでとう。めっちゃきれいやったでー。」
「ありがとう。そんなん言うてもらえてうれしいわぁ。先週整形しといてよかったわぁ。」
結婚式にて
花嫁のこの受けには「整形間に合ってよかったなぁ」と返す。「元からきれいだよ」ではなく。国語学者・澤村美幸が衝撃を受けたある結婚式での会話だ。友人のほめ言葉をボケで受ける花嫁に、「おもろい」言葉をさらに被(かぶ)せて話を転がしてゆく大阪人のもてなしの作法である。同じ国語学者・小林隆との共著『ものの言いかた西東』から。
吉行淳之介は岡山で生まれたが、幼い時から東京で育ったため、上記のエピソードとは違って、『ものの言い方』は東風(ひがしふう)だったかもしれない。
転勤や転職は大変だが、視野が広がる利点がある。私は高松と松山で仕事の一部として渉外をしたことがある。転勤や転職である種の才能の持ち主を発見するのは歓びである。
松山のメーカー会で、「座談の名手」がいた。その人が所属していたG社はメーカー10社中シェア的にはほとんど最下位であったが、話がうまいため存在感があった。
しかし、ある時から病気でメーカー会に出てこなくなった。その後、後任の若い人とメーカー会の忘年会でその「座談の名手」のことが話題になった。
「座談の名手」が商談に行くと、その商談に関係のない人までもが多い時ではわらわらと10人も集まってくるのだという(商談相手は農協だと思われる)。「座談の名手」は、30分くらい商売とは全く関係のないことばかり話してみんなを笑わせるのだという。
最後の1分くらいで、「○○さん(本来の商談相手)、以前と同じ条件で■■を〇百台、▲▲を×百台お願いします。〇日には納品できますので倉庫を空けといてくださいね」。
周りの人たちも散々笑わせてもらったので異存があるわけもなく、商談相手も「了解、了解」で笑いながらクロージング。
その後しばらくして、この「座談の名手」はがんで亡くなったと聞いた。後輩は、「余人をもって代えがたい人でした」と言っていた。
加計学園の件で、愛媛県の中村時広知事は、切り口上に「公的機関に偽りの説明をしたとすれば、説明と謝罪をすべきだ!」と怒っている。どのような状況でそのような話が出てきたのかは、役人のメモだけで分かるはずもない。
役所では冗談も言えない。「説明と謝罪」を求められる。野暮に徹すべし!しかし、こういう人は関西ではいじめられるでぇー。
以上